たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『エリザベート』My千穐楽でした

2016年07月23日 23時36分30秒 | ミュージカル・舞台・映画
 2016年7月23日17時30分開演夜の部を観劇してきました。わずかな数の二階補助席当選なんて、たまには運がいいこともあるもんです。これからいいことも訪れるのかな・・・。なんだか脱力。終演後劇場の前を立ち去りがたく、今度はいつ会えるのだろう、その時わたしは何をしているのだろうと思うと涙が出ました。知らない人がみると荷物たくさん持ったただのヘンなおばさん。すんません。振り返ってみるとシシィの限りなく孤独な魂に触れたような三時間で、なんだか体がふるえてきそうです。花ちゃんは今日も入魂。少女時代の鈴がなるような可愛らしい声から最期の昇天する時の透き通るような声まで、いつかシシィの魂と共にほんとに自由な鳥のようにどこかに飛んでいってしまうのではないかと心配になるぐらいの入魂でした。一回、一回、少しも緩むことなくほんとにすごいです。お辞儀をするとき、ドレスがすっごく自然にふわっとなる感もさらにましていてほんとにすごいです。

 体操室の場面で、トートに「あなたとはまだ踊らない」っていう前に、ああってうめき声だしていました。ルドルフの葬儀の場面の狂ったような声もほんとにすごい。シシィの孤独な魂がふるえていました。「夜のボート」もフランツへの想いに満ちながらも孤独な魂がふるえていました。最期はトートの愛を受け入れる自分にたどり着くことをわかっている、そんな感じがしました。

 三回目のカーテンコールで、大きな手振りと共にお辞儀をした井上さん、照れちゃったのか、花ちゃんをみながら首をちょっと傾けた仕草が可愛かったです。2000年のルドルフデビューを観ているので、ミュージカル界を牽引していく役者に成長したのがほんとに感慨深いです。最初ちょっと喉が疲れてしまっているのかなあと心配になりましたが井上さんにかぎってそんなことはなく、今日も安定の、ふてぶてしく帝国を支配する黄泉の帝王ぶりでした。マントさばきが美しい。ルキーニが山崎さんだったので、舞台の上ですれ違うような場面があったり。ルキーニが違うと舞台全体の雰囲気も違ってくるのだと思いました。

 ソンハさんが狂気でルキーニの存在をすごく主張している感があったのに対して、山崎さんは静かに気がつくとそこにいるルキーニ。気がつくとずっと歌っていて、確かな歌唱力で静かに舞台全体の流れを支えている感がありました。どっちがいいとかではなく、それぞれのルキーニ。

 真瀬さんのヴィンディシュ嬢もすごくよかったです。魂がこもっていると感じました。

 一回、一回、完成度の高い舞台。また思いつくままに書ければと思います。今日はここまで。明日は出勤日だっていうプレッシャーから解放されているのがちょっと嬉しい土曜日の夜です。






楽しもう

2016年07月23日 14時35分58秒 | 日記
 今日も涼しいです。冷えたせいかあまり眠れませんでした。先ほど総務省からの簡易書留を受け取りました。情報公開・個人情報保護審査会事務局からの文書。労働局の文書開示請求について、厚生労働大臣あてに出された答申書のコピーでした。もうひとつのブログに詳細に書こうと思っていますが、やればやるだけ、行政によって自分の実績を踏みにじられます。さらにさらに踏みにじってきます。一個人はあまりにも小さくて巨大組織を前になす術はなく、気持ちが辛いばっかりです。こうやって諦めさせていくようになっているんでしょうね。かなり強い気持ちがないとこれ以上は無理です。訴訟を起こす権利はもう失っているし、もともとそこまでするつもりはありません。ほとんど無権利状態。日本という国に対する大いなる幻滅を再確認しました。自分が可哀想なのでもういいかな。つらいことばっかりの現実を忘れて、エリザベート楽しもう。さあ、支度、支度。他にもブログを更新するつもりでしたが、気力が失せました。

涼しい一日でした

2016年07月22日 21時43分40秒 | 日記
 地下の部屋はムシムシしていて冷房つけると寒いし、消すと暑がりの方々は冷房きつくするしでなかなかむずかしいですが、お昼休みに外に出てみると涼しくってびっくりしました。ずっとこれぐらい涼しいと嬉しいですが週末はまたどっと暑くなるようです。電車の中も、帝劇の中も、シャンテの中も冷房がきついので要注意。羽織るものを用意すると荷物がさらに増えてしまいますが寒くってもたないので仕方ありません。ほんとに蒸し暑い季節は大変。土曜出勤を休みにしたので気持ち、すっごい楽です。「迷惑かけます」と何度も頭を下げたので少し後ろめたさもありますが堂々と休みます。そして、エリザベート見納め。堪能します。

 12月31日付でまた失業者になります。有給休暇を使って遊んでいないで次の就業先をさがせよ、って感じですが頭の中がいっぱいで無理な感じがします。応募するつもりは全くありませんが、ある社会人採用の募集要項をみていたら、応募資格の中に、採用決定後に職歴証明書を提出できる者、とあります。提出できなければ採用は取り消されるそうな。事務経験と年齢は一応クリアできていますが、派遣で働いてきたって、どこに職歴証明書を用意してもらえばいいのだろうかと考えてしまいました。形骸化した雇用主だった派遣会社?それとも実際に13年間働いていた会社?どっちなんでしょうか。冷静に振り返ってみたら、わたしが会社で働き続けたことを証明できるものなどなにもありません。実際にこういう仕事をしていましたと証明できるものなどなにもありません。派遣会社との間の契約書に、就労先の会社名と仕事内容が簡単に書かれているだけ。わたしが会社でどれだけの年月、どれだけの仕事を実際にしていたかをどこが正確に証明してくれるのでしょうか。まあどちらにも、組合に加入して要求書を送るところまでやってしまったのでどのみちわたしが職歴証明書を用意できるという要件をクリアすることは無理でしょう。そもそも、すっごいハードルの高い採用試験。わたしが超えられるはずもなく応募するだけの気力も持ち合わせていません。ただ13年働いてもなんにも残らなかったんだとあらためて思うばかり。長く居すぎました。ほんとにばかだったと思います。どこかで思い切って見切りをつけるべきでした。次を決めるまで辞めてはだめ、自分から辞めると言ってはだめとカウンセラーの先生に励まされ続け、自分でもリーマンショックの時とか慣れたところにいた方が安全だと思ってしまったし、忙しすぎて働きながら次をさがすって無理でした。後悔してもほんとに遅いですね。「もう遅すぎる、今からでは・・・♪」(『エリザベート』コルフ島の場面で、パパの幻に会ったシシィのうた)。郵便局から不在配達票が入っていて、速達or簡易書留、差出人が総務省とあります。明日の昼間再配達希望としていますがなんでしょうか、気になります。全く心あたりがなく、行政から届くものにありがたいものなどほとんどないのでいやですね。いろいろと気が重いことばかり。明日は忘れて、まさかの当選でエリザベート見納め。しばし現実を忘れて堪能します。

「わたしが命ゆだねる、それはわたしだけに♪」

 生きることはむずかしいです。

ムシムシ・・・

2016年07月21日 21時10分52秒 | 日記
 毎日ほんとに蒸し暑いですね。今日も気温はそれほど高くないのでからっとしていれば気持ちのいい陽気だと思うのですが湿気がすごいのでもあっとしています。梅雨明けはどうなったのか・・・。冷房の下だと寒いので一枚余分に羽織っていると、午後の一番暑い頃にすっごく蒸し暑くなってきて汗をかいていしまいます。接遇やっていると汗くさいって思われたらどうしよう、クレームがきたらどうしよう、って妙に緊張してしまいます。人はほんとに色々でどんなことでどんなふうに思われるのかわからないので恐ろしいです。こういう緊張があと何か月も続くのか・・・。この仕事が辛かったら他の仕事はやれない、って一緒に働いている人は言います。そうなんでしょうね。今辞めても次の収入の手立てがないことをわかっているのでやれるところまでやるしかありません。来年の1月1日からどこでどうやって生きていけばいいのか、自分にご飯を食べさせ続けることがわたしはできるのか。考えるとすごく気が重いですが、この課題から逃れることはできません。

 蒸し暑いせいか昨日は休みでしたが睡眠時間は6時間ほどでした。なんとなくお隣は休みじゃないので朝バタバタと足音が聞こえてしまうのも落ち着きません。今週は明日一日出勤すれば終わり。23日は堂々と有給休暇をとるぞい!エリザベート、見納め。毎回深化している舞台。しっかりと焼き付けたいです。昨日チケットの引き換えをしたかったですが、当日にならないと発券できないそうな。そりゃそうだ、当日券ですからね。ぐずぐずしていないて余裕もって出ないとです。オペラグラスを借りて、写真撮って、オモシィとシアターガイド買おうかな、とか頭の中ですでに段取り。シャンテの中にあるカフェでマロンシャンテリーを食べてみたいですがスィーツだけで1,000円ちょっと。お茶とセットで1,500円ぐらいするので、わたしの時給には贅沢すぎてなかなか手が出ません。部屋を出るまでが長いですが、出かけてしまえばちょっとゆっくりもしたいので、またなにか自分にご褒美をあげられるといいなと思います。昨日が見納めだったはずが想定外の当日券当選。あきらめていた山崎さんルキーニ、どう深化しているのか楽しみです。明日一日。なんとか乗り切るべし!

『エリザベート』_三度目の観劇でした

2016年07月20日 22時14分54秒 | ミュージカル・舞台・映画
2016年7月20日(水)昼の部、13時30分開演

エリザベート:花總まり
トート:井上芳雄
フランツ:田代万代生
ルドルフ:古川雄大
ゾフィー:香寿たつき
ルキーニ:成河
少年ルドルフ:池田優斗


 今日もカメラが入っていました。なんでしょうね。気になります。

 平日の昼間だというのに今日も満員御礼。観るたびにすごいなあーと思うのですが、今日はさらにパワーアップの、空気が違う?のでほんとにすごいなあーと思いました。うまく言葉がみつかりません。たぶん緩急自在に舞台をあやつっている感のソンハさんがルキーニとしてはいったことで舞台全体の空気感がちがってきているんだと思います。花ちゃんも井上さんも田代さんも、みなさんいい意味ですごい影響をうけて触発されているような気がします。歌が前回観た時よりも技術的にさらにうまくなっているだけというよりは役柄に同化している感で天井知らず、どこまでいってしまうのでしょうかという感じです。香寿さんゾフィーは今年初めてでしたが、ほんとに怖い皇太后になっていました。歌がさらに上手くなっていてど迫力。旅立ちの前のふけぶりがお見事でした。フランツから「もうあなたの意見をうかがうことはない」って背中を向けられてから左目にすっごい涙をためて、帝国の未来を憂いながらの旅立ち。苦しんだ瞬間黄泉の国から迎えにきたトートダンサーの背中を左手でつかんでいました。すごい・・・。

 カーテンコールは笑顔にあふれていました。花ちゃんが間違えちゃったのかな? すっごい恥ずかしそうに照れているのを田代さんがなにかフォローするかのようにめっちゃ笑顔、隣で田代さんになにか言葉をかけた?井上さんもめっちゃ笑顔。タータンとソンハさんはドレスの裾もちを意識するかのようになにか言葉をかけあっていた?これまためっちゃ笑顔。舞台とは真逆のほんわか、ゆるゆるムードでした。井上さんは今日も期待に応えて大きく手をまわしてからのお辞儀。三回目と四回目に花ちゃんと井上さんの二人で登場した時は、一人ずつお辞儀をしてから手をつないで、客席に背を向けてターンした後はまた手をつなぎなおして、とお互いに確認しあいながらのカーテンコールだったような。なんとも可愛く美しい絵面でした。

 「私だけに」を聴きながら涙。「私の命ゆねだる、それはわたしだけに♪」天を仰ぎながらシシィは何を思う。コルフ島の場面で、少女時代の「パパみたいになりたい」を思い出してまた涙。少女時代のシシィは、「親戚づきあいがペストみたいにだいきらいなんだ」っていうパパの言葉にうなづくときパパの腕をポンとたたきながらのニヒヒ笑顔。パパもシシィに触発されてさらにのっているようでした。実年齢の半分以下の役柄を全く違和感なく生きているのですから花ちゃん、ほんとにあっぱれ。バートイシュルで「鹿さん」って追いかけようとするのを邪魔したルキーニを「どいて!」って可愛く突き飛ばしていました。ルキーニは見事にしりもちついていて、あの場面、二人の演技は打ち合わせあるのでしょうか。どうなんでしょうかね。鹿を射止めたフランツにシシィが手を振った瞬間、フランツがシシィを好きにならずにはいられなかったのは言うまでもありません。ここに説得力がないとそのあと観ているのが辛い舞台になるので大事なところです。お見合いの席では、紅茶を飲もうとして「あっちち」、マカロンをふたつもとってはやっぱり食べるのをやめて姉さんがおとしたリボンをそっと拾っては髪につけてあげていました。「あなたがそばにいれば」と「夜のボート」。なぜか毎回宝塚初演雪組の高嶺さんフランツとの場面を思い出します。どうしてこの二人は幸せになれなかったのだろう。毎回切なくなります。

 井上さんの黄泉の帝王ぶりもいちだんとパワーアップ。歌唱にも演技にも、全くブレがありません。手の動きが丁寧で美しいし、仕草の隅々までどこか人間っぽい美しさを魅せてくれています。「闇が広がる」では今日も古川さんルドルフの頭をどついて、一段と強く、迷える皇太子を革命へと誘い込んでいきました。

 「ママも ぼくを見捨てるんだね」。母にも見放されたとわかった瞬間、がくっと崩れ落ちて立ち去っていく母の後ろ姿を凝視するときの古川さんルドルフの眼光はするどかったように思います。自分(ルドルフ)のために父をとりなしてくれようとしない母への絶望のまなざしなのか、自分のことしか考えていない母への軽蔑のまなざしなのか・・・。誰からも見放されて知り行き場を失い、死に魅入られた瞬間人はこんな眼差しをしているものなのか・・・。世が世なら名君たり得た、世界を変える力さえ持っていたかもしれないルドルフ。あまりにも惜しいです。

 一幕最後の鏡の間のシシィのドレス姿。アクセサリーがいちだんとすっごくキラキラ輝いていました。なんでしょうね。前回観た時と同じ衣装のはずですが、ネックレスもドレスもいちだんとキラキラでした。この場面の井上さんトート、田代さんフランツ、花ちゃんシシィの揃いがすっごい好きです。声の重なり具合も絵面もわたしの中でどんぴしゃり。


 
 シャンテで早めのちょっと贅沢な夕食をいただいた後最寄り駅に帰り着いたらすっごい湿気にまた雨でびっくりしました。終演後劇場からシャンテへと向かう並木道を歩いていたときは夕暮れの気持ちのいい風が吹いていました。並木道を歩きながら思い出していました。2014年1月仕事初めの日、13年働いてきた会社から使い捨てにされようとしていることを知らされました。それから労働局いったりあたふたして、2014年2月有楽町の労働相談センターを訪れました。結果的になんの意味もありませんでしたが、その時は気がついたらすごいことになってしまったと思いました。それからさらにさらに、全く予想だにしなかったすごいところまで進むとは全く思いもよりませんでした。一人で一か月半近くあたふたし、その時点で相当なエネルギーを消耗していました。労働相談センターで提出書類を仕上げると、寒風吹きすさぶ中、有楽町、日比谷界隈を泣きながらふらふらと歩いていました。自分はどうしたいのかわからず、自分のしていることが本当に正解なのかわからず、カウンセラーの先生に大泣きしながら電話しました。それから二年半が過ぎました。正解だったのかどうか今もわかりませんが、人としての尊厳を踏みにじられずたずたにすり切れてしまったところからここまで回復してきました。そのわたしで今日は同じ道を歩きました。どれだけ人から尊厳を踏みにじられようとも、自分だけは自分を信じてあげないといけない、自分で自分を貶めるようなことだけはしてはだめなんだ。「わたしだけに」を聴きながら、最期の旅立ちの場面を観ながら、花ちゃんシシィがそんなふうに背中をおしてくれたように思います。自分で尊厳を傷つけるようなことをしてはいけませんね、ほんとに。

 23日の夜の部が見納め。休暇をとることになったので明日またキイキイなにかひとことは必ず言われるでしょうね。気にしない、気にしない。休むのはお互い様。現実に戻って社会復帰。

 思いつくままに書き連ねてしまいました。また書くかもしれませんが7月20日の観劇日記でした。

舞台写真は東宝の公式FBより転用しています。

トップは花ちゃんシシィ

井上さんトート


ソンハさんルキーニ

 
7月20日昼の部キャスト


今日も満員御礼

もうすぐ半年か・・・

2016年07月19日 22時44分50秒 | 日記
 気がつけばあと三週間ぐらいで就労開始から半年を迎えます。よくがんばったもんさ。いやー、つらいっす。労働紛争を経験して、新聞やニュースになんども登場したことなど微塵も出すことはできないまま、ずたずたにすり切れたところからの回復。連日書き連ねているように納得のできない怒られ方をたくさんしているし、事務作業の募集のようにみえて実は完全に接客業で人にすっかり疲れてしまっているし、いやいやここまでやってきただけでもたいしたもんだと自分で思います。年末までなんとか完走できたとして、それから先はどうしていけばいいのでしょう。わたしに何ができるんでしょう。わたしは何がしたいんでしょう。組織の、合わない鋳型に無理矢理自分を押し込めて我慢し続けるの疲れました。昨日読み返した本の中に、「あなたのやりたい仕事があなたを高めてくれる」っていう記述がありました。理想論でしかないですかね。ヤフーニュースにこんな生き方もあるんだっていう記事がありました。「月三万円ビジネス」。わたしにだってやれることあるはずのような気がしますがどうなんでしょうかね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160719-00000002-wordleafv-soci&p=2

 23日は無事休めることになりました。どんだけピリピリなってしまうんだろうって土曜日から緊張していました。朝一番で頭を下げたら休み明けでまだ疲労がきていないからか想定していたよりもあっさりでした。まあそれでも今さらないやな言い方されましたけどね、先週の時点ではわかっていなったことなのでまあ仕方ないか。そんなの遊びだろ、って思われるかもしれませんが、エリザベートはわたしの心の支え、大事なつっかいぼう。休めるかどうかはすっごく大きなことでした。他の人たちに対してなんとなく後ろめたいような感じも少しありますが、お互い様なので気にするのやめます。他の人の予定を気にしながらのシフト制ってはじめてのことで気疲れします。はあっ。自分のペースでやれないの苦しいです。今週末も連休となり、来週、再来週と連続で週五日勤務を乗り切ることができたら8月11日の祝日。なんの祝日だか全くわかっていません。手帳に祝日となっていてびっくり。すっごく蒸し暑いので乗り切れるかどうかわかりませんが乗り切ることができたら、就労開始から半年経過。この半年間、誰とも会っていません。出かけたのは、スパとかかりつけ医と歯医者と帝国劇場のみ。自死遺族の分かち合いもグリーフケアもコミュニティハウスも生活の保障がなければ顔を出し続けることはできないわけでさっぱり行かなくなりました。行けなくなりました。自死遺族として、同時に労働紛争経験者として訴えたい思いはありますが、社会に対して発言するってすごくむずかしいです。なんか自分を主張しすぎる、自分の権利ばっかり主張する人のようになってしまいます。すごく勇気とエネルギーが要ることなのでなかなか理解されません。なんか悪いことしたわけじゃないですけど、なんか悪いことした人みたいにひっそりとしていなければいけないの、それはそれで悔しいです。怒りと悔しさのマグマが噴火してどうにもならなかったわたしがここまで回復してきただけでもたいしたもんさ。明日と23日は自分へのご褒美。応募者がすごかったはずの抽選でチケットを確保できたなんて、こんなわたしにもたまには運がめぐってくることもあるんですね。今週の出勤はあと木曜日と金曜日だけなのでつらい現実をしばし忘れようと思います。忘れるときも必要ね・・・。

エリザベート_チケット

2016年07月18日 22時08分26秒 | ミュージカル・舞台・映画
 今日も蒸し暑い一日でした。断捨離と洗濯をがんばって、寝たりない感が今日もあったのでおそめにお昼を食べた後お昼寝。夕方になってようやく徒歩10分余りのところにあるスーパー銭湯へ。スパのように着替え以外はなにも持って行かなくてもアメニティもドライヤーもそろっているし食事もできるしという高級感はありませんが、お値段はスパの三分の一。電車に乗るのと人混みが億劫だったし、ささやかだけど露天風呂と温泉もあったので一時間半ぐらい過ごしました。少しすっきり気分転換。でもマンションの水漏れ工事でお風呂を使えない間通うのにはきついです。ほんとはもうこの部屋出たいです。わたしの入居前から実は水漏れが起こっていた物件を人に貸して家賃とるなんて納得できません。どんだけ苦労して家賃払ってるんだか。大家はなんか危ない人みたいだし、もういいです。ただお金かかるし、にもつがすごく多いし、次の就労先の目途があるわけではないし身動きできずです。断捨離がんばっていますが、やってもやっても終わった感じがしません。減っているはずなのですが、あまり減っているように見えずです。まだまだ荷物あるなあ。早くすっきりしたい。

 まさか当選するとは思っていなかった23日のエリザベートの補助席、クレジット決済しました。今の給料4時間相当分を無駄にすることになるかもしれませんが、最悪最後の30分とか一時間でも観れればいいかぐらいの気持ち。明日の朝勇気を出して、休ませてくださいと言うしかありません。労働者の権利なので上司がダメということはできないはずですがどうなんでしょかね。がちがちにシフトが決められてしまっている所を変えてもらわなければならなくなるので気が重いです。どんだけキイキイ声でピリピリされてしまうんだろうと思うと気が重いですが、私にとっては大切なこと。勇気を出して言うしかありません。自分の裁量と段取りで、休むために事前にやれることはやっておきまるからとか言えないの悔しいです。そういう業務内容じゃない。求人票は事務作業であるかのようでしたが、ほとんど事務ではなくて接遇なのでそういう段取りがつけられません。怒られまくっていて、10年以上同じ会社で任されてやっていた自尊心なんてもうとうにどっかにいってしまいるので、あきらめていた山崎さんルキーニを観るためなら我慢できるかな。勇気を出して言うべし!

 ずんこさんトートと一路さんトートの雰囲気をもっている井上さんトートの仕草と歌が好きだなあと思います。頭の中で回り続けています。

 木登りから落っこちて生死をさまよい黄泉の国を訪れた花ちゃんシシィに出会った場面の「愛と死の輪舞」。花ちゃんの、トートとトートダンサーに身をゆだねると無重力感と、たぶんすごくハードなんだろうけれど流れるように美しいトートダンサーのダンスに井上さんの歌声。全部が美しくて大好きな場面です。

 ハンガリーを訪問した長女ゾフィの命を奪ったトートがシシィに迫っていく場面。
「二人で踊った婚礼の夜を、おぼえているだろう。
 おれの腕の中でおまえは震えた。
 早く認めるんだ、おれへの愛を。
 闇が広がる。皇帝は何も見えない。
 おまえはあいつを破滅へと導くのだ♪」
 この場面の歌声もすごく好きです。
 マントを翻して冷気と共にトートダンサーを従えて去っていく姿も美しいです。

「私が踊る時」の「飛ぶがいい♪」「いつかおれを求める♪」の歌声もすごく好きで頭の中を回っています。書き始めるとまたきりがありません。精神病院訪問、コルフ島・・・シシィが自分の孤独に気づき、打ちひしがれる場面に共感するものがあります。次の観劇日記に書ければいいかなと思います。今日はこれでおしまいです。
  

第二章_日本的経営と近代家族_⑥近代家族と恋愛結婚

2016年07月18日 11時04分17秒 | 卒業論文
 私たちのイメージでは家族というのは親がいて、子供がいて、というのが核になっている。場合によってはひと世代上の親族が同居している場合もあるが、家族といった場合、子供がいるというのが前提である。近代家族における結婚とは、お互いの愛情に基づく男女の夫婦がいて、二人の間には性的関係があり、その結果子供ができる、それが女性の幸福の原点であり、国家の基盤となっていると考えられている。愛とセックスと生殖がワンセットになったのが近代家族といえる。1)

 近代家族とは、一般的に、対等の個人としての男女両性の婚姻によってつくられ、家族員の範囲は、一組の夫婦とその未婚の子女に限られており、家族内部における機能の分担も、家長本位でなく平等である。その結合は親子中心ではなく、むしろ夫婦中心であって、一組の男女の愛情と理解に立脚している。家族員の地位や所属の移動や財産の継承あるいは相続においても、男女を通じて自由と平等の原則が貫かれている。2)

 婚姻によって成立した一組の夫婦とそこから生まれた未婚の子供から成る家族の単位を「核家族」という。「核家族」の機能として特徴的なのは、日常の消費生活の単位であると同時に、労働力の再生産の場となっていることである。企業でつくられた商品は家庭で消費され、企業で消費された労働力は家庭で再生産される。このような家族の機能の単純化は、社会の近代化と共に進行してきた。


 欧米諸国では、18世紀末ごろから家族員数は減少の傾向を示しはじめ、19世紀後半以降その度は早まった。日本においては、高度経済成長期に入った1955年前後から、伝統的な家業としての農業経営の解体が進行した。それはすなわち「家」の解体を意味する。戦後にもちこされた家父長制的「家」原理は、その基盤を削りとられ、世帯主・後継者の農業離脱によって家族労働の統制や家産・家計の管理が家長の手から離れ、自家労働の無償性の神話が崩れ落ちると、「家」はその本質的な部分を失ったことになる。

 戦後、民法が改正され法律的にも「家」制度は解体された。都市化の波の中で、人々の生活の単位をなしていた「村」の絆が崩壊し、家族は生産や消費の単位としても、また愛情共同体としても独立性を強めていく。それに伴い、婚姻、出産、育児など、従来「村」の社会関係に開かれていた活動が、「私的」行為として、家族の内部に囲い込まれる一方で、諸個人並びに諸家族の行為の幅を規定する規範は、「村」を超えて国家が担うことになる。

 核家族化に伴い、恋愛結婚文化がマスメディアを通じて大衆的規模で全国に普及していった。今日では、家族を形成する出発点としての配偶者選択には、恋愛結婚という形態が最も適合的であるとされている。核家族と恋愛結婚とは、法的にも社会的にも公認された一つの制度である。つまり、近代社会においては、結婚することは好きな相手と生活を新しく始めることと理解されているのである。結婚相手とは、生活を共に営む相手であると同時に性的に惹かれることを伴った親密な相手である。そして、生まれてくる子供は、性愛行為の結果であり、二人で責任を持って育てるべき存在として理解される。

 しかし夫が経済的責任を担い妻が家庭責任を担うという性別役割分業を生み出した近代社会の結婚は、女性は経済的基盤を男性に依存する故に従属的立場におかれるという構図になっている。この構図を考えれば、結婚をめぐる位置関係も男女では異ならざるを得ない。男性が誰と結婚しても生活が変わらないのに対し、女性は経済力のある男性と結婚するか否かによって結婚後の経済的生活が左右される。女性にとって結婚という「永久就職」の成否が人生を左右することになるわけである。

 近代的な結婚が女性にとって一種の開放を意味したことは間違いない。戦前の自営業社会では、男性は親の職業を継ぐことを期待されたために、生活程度は、「家」で持っている農地の条件(自小作別、広さ)などによっておおむね決まり、女性も、その家格(父親の地位)に相応した家に嫁いだのである。「家」と「家」とが結びつくための結婚だった。戦後になると、結婚は「個」と「個」の主体性を掛け合わせるものとなった。産業構造の転換に伴い、雇用者労働者の増大と共に、高等教育を受け、企業に入るなどして、自分の能力で地位を得ることが、多くの男性にとって可能になると、その経済力によって男性は序列化されていく。一方、女性は、結婚相手によって生活水準が上下するという、専業主婦を標準とする生き方が一般化する。そして、女性の社会進出によって、いつかは女性にも自分の能力が生活程度を決めるという状況が実現するはずというストーリーを描く論者もいた。特に、1985年の男女雇用機会均等法成立以降、女性も、個人として経済的に自立していくはずという認識が生じた。 3) しかし、家庭における女性の従属的な位置づけは、依然労働市場における女性差別を正当化していることは、第一章で見たとおりである。女性にとって、仕事でキャリアを積む努力をするよりも、生活の保証をしてくれる結婚相手を見つける方が豊かな生活を送れる確率が高いと思われる。

 そのため、「女の幸せは結婚にある」との言説がこれまくり返されてきた。かつて大手企業では、社内結婚すれば、女性がコトブキ退社(結婚退職)するという不文律があり、女性自身の中にもコトブキ退社は「女の花道」という意識が内面化されていた。安定した収入のある男性と結婚すれば、年功序列賃金によって男性の給料は年々上昇するようにできているので、生活の保証が得られる。愛情の保証はなくても、結婚すれば法律や世間体が女性を守ってくれる。よって、女性は結婚にしがみつき、男性は会社にしがみつく、愛情関係よりも経済関係によって成り立つ「日本型結婚」のかたちができあがった。4) 現実には、結婚にも辛いことや悲しいことがたくさんある。にもかかわらず、女性にとってはとにもかくにも金屏風の前に立てば、誰もが祝福する幸せの終着点であるかのように思われてきたのである。こうした「日本型結婚」の背景には、家族をもち安定した生活を送ることが個人の幸せにつながるという固定観念があると考えられる。近代家族のアイデンティティに「家族の安定=個人の幸福」という意識が当たり前のように含まれていると指摘したのは、社会学者の山田昌弘である。 


 山田によれば、今日、家族をめぐる評価は、危機に瀕しているという見方と、いや日本の家族への主観的満足度は諸外国に比べれば極めて高いという見方とある。二つの意見は、正反対のようだが実は共通の基盤を持っている。私たちが家族を捉える感覚として「家族の安定=個人の幸せ」「家族の安定=社会の安定」という暗黙の前提の上に立っているのである。どちらの立場にも、「家族の存在は自然で、消滅しては困るもの」として意識されている。そして、家族が「家族らしい」時に、家族は安定していると判断し、家族が家族らしくなくなる時に、危機と判断する。家族らしいものとは何かに関しては、意見の相違があるかもしれない。しかし、家族らしいものを失ってはいけないという考え方がその根底にある。私たち一人一人の幸福、そして、社会の存立までもが、「家族」と一体化しているのである。個人、そして社会が、家族を失ってはいけないもの、家族を失えば、個人や社会が成り立っていかないものとして扱っている。近代社会の成立以来、家族生活は個人の幸福の象徴となった。家族生活は幸せであるはずであり、幸せでなかったら家族とはいえない。家族のない一人暮らしは幸福ではない。現実には、子供の幸福のために嫌いな夫と離婚しないで我慢する女性など、家族の安定と個人の幸福が矛盾する例はいくらでもある。家族は安定しているが個人は不幸、個人の楽しみを追求すれば家族の安定性を脅かす。それでも、人びとは「家族=幸せ」を信じたがる。家族は幸せであるべき、あるはずだという思い込み自体が、近代社会における家族の特徴といえるだろう。5) それほど、私たちにとって家族とは「自然」で「生物的」な存在であり、あって当たり前となっている。

 戦後、日本の「核家族」は、世帯主である男性が安定した収入を得られることで家族まるごと経済的安定が保証されてきた。しかし、先に見たように「個」を後ろに追いやった日本的経営システムは今や体質転換をせまられている。年功序列賃金にメスが入り、男性は定年まで我慢すればまとまった退職金が入ってくるという将来の見通しはもはや立たない。女性にとって結婚は一生の生活を保証してくれるものではなくなってきているのである。家族を持たなければ幸せではないのか、家族が経済的に安定していればその成員である一人一人も幸せなのか。

 ここで、「家族=幸せ」という固定観念を相対化する視点の一つとしてマルクス主義フェミニズムに注目してみたい。

引用文献

1)長沖暁子『家族の今をどうみるか』三色旗2002年10月号(NO.655)、慶応通信。

2)日本社会学会編集委員会編『現代社会学入門[第2版]』37頁、1976年。

3)『パラサイト・シングルの時代』山田昌弘、118-120頁、ちくま新書、1999年。

4)松永真理『なぜ仕事するの?』92頁、角川文庫、2001年。

5)山田昌弘『近代家族のゆくえ』16-17頁、新耀社、1994年。

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 先日のフォーウインズのセミナーでW先生が話されたことですが、戦後日本の国力を弱めるためには男性を家庭から引き離すのが一番だとGHQは考えたという話があるそうです。それに従い日本型福祉社会ができあがり、労働問題の根幹である男性の長時間労働は当たり前という不文律はなくなっていかないどころか、過労死するまで働くことを正当化しようとする法案さえ国会にあがっており、いつ成立してしまうかわかりません。GHQの思惑通りに日本は動いているということになります。わかりませんが・・・。

 社会学からみた近代家族の成立については、別途文献を紹介したいと思っていますが追いつかないですね。こんなの誰も要らないですかね・・・??

小さな幸せ_映画『赤毛のアン』

2016年07月17日 23時05分22秒 | 『赤毛のアン』
 朝からどんより曇り空。外に出ると霧がかかったようにもあっ。昼間に大きな地震があったし、なにか大きな自然災害が起こる前触れなのかな。いたずらに不安になるのはよくないですが鉄筋コンクリートの建物がゆっくり、みしみし大きく揺れると東日本大震災の時の恐怖感をどうしても思い出してしまいます。はやくおさまりますように、これ以上大きな揺れがきませんようにと祈りながら、なす術なく過ぎていくのを待つことしかできません。たぶん数十秒だったと思いますが数分に感じられました。東日本大震災とそのあとに繰り返しやってくるゲリラ豪雨のたびに感じた、近くに知る人がいないひとりぼっちの心細さもまたよみがえってきます。遅めにお昼を食べた後お昼寝で元気を取り戻して、夕方ようやく買い物とお茶するために外出。少し前から気になっていたレモンジュレムース(正確な名前は思い出せません)と紅茶をいただきながら、映画『赤毛のアン』のシナリオを読み始めました。

 10年ぐらい前に購入しながら、なかなか手をつけられずにいました。難易度は最上級。『赤毛のアン』を原文で読むセミナーに何度も参加て、原文を少しずつ読み進めた今なら、対訳もついているし、なんとかかんとか大丈夫かな。あくまでも映画なので原作の文章そのままというわけではありませんが、原作のエッセンスをうまく凝縮した作品になっているので、原作を読んでいるときのような幸せ感にしばし満たされました。

 ブライト・リバー駅に孤児院からやってくる男の子を迎えに来たマシューが、これはなにかの手違いだと言いかけるものの瞳をきらきらさせている女の子を前にして、男の子を迎えに来たとは言い切れず、馬車に乗せてグリーン・ゲイブルズに連れて帰れて帰る場面。撮影場所は、オーウェル・コーナー歴史村かな?!大好きな場面です。

 シャイなマシューおじさんに出会って、家に帰る喜びにあふれたアンはこんなふうにおしゃべりを始めます。

We,ve got a long piece to drive yet,haven,t we?

Oh,I,m glad,because I love driving.

It seems so wonderful that I,m gonna live with you
and belong to you.

I,ve never really belonged to anyone before.

「道のりはまだ長いんですよね?ほんと良かった、だって馬車に乗るのが大好きなんです。
 あなたの家族になって一緒に暮らせるなんて本当に素敵ですわ。今まではずっと家族が
 いなかったんですもの。」

(外国映画英語シナリオ スクリーンプレイ・シリーズ 赤毛のアン 1996年9月10日第一刷 (株)フォーイン クリエイティブ プロダクツ より)

 生後三か月で両親がなくなり孤児となったアンを支え続けたのは、豊かな想像力、夢見る力でした。


No,I prefer to sit here.

There,s so much more scope for the imangination.

「いいえ、ここに座ってた方がいいんです。うんと想像力がめぐらせられますから。」

 原作にはないブライト・リバー駅でマシューを待つアンの様子を映画は描いています。
想像の余地があるという言葉は原作に繰り返し登場します。映画はうまく取り入れているなと思います。

 1歳で母が病死。再婚した父と離れ、母方の祖父母に育てられた作者のモンゴメリさんを支え続けたのは豊かな想像力だったにちがいありません。アン・シャーリーという実在しない、豊かな想像力をもつ女性をうみだしたのは、モンゴメリさんの豊かな想像力に他なりません。言語を文字で追っていくとぐっとせまってくるものがあります。

 連休なのでこんな余裕も少しあり。いつ読み切れるかわかりませんがぼちぼちといきます。言語で味わえるなんて、小さな幸せのひとつ。


トップの写真がなぜかうまく表示されていませんが、春のオーウェル・コーナー歴史村です。まぶしい緑と赤土。アンがPEIにやってきたのは春(6月)でした。

こちらは、オーウェル・コーナー歴史村の中にあるワンルーム・スクール。
カナダの国家元首はイギリスのヴィクトリア女王だったのでイギリスの国旗が飾られています。


エリザベートどうしよう

2016年07月16日 15時37分24秒 | 日記
 連休初日。もや、じとじと、どんより。ニュースをみれば気持ちがおもくなることばっかり。昨夜はものすごくヘンな夢をみました。はっきりとは思い出せませんがわたしが誰かをだまさなければならなかった、でも見抜かれそうになって危ういので必死に逃げ隠れして見抜かれないようにしているというような内容の夢でした。朝方お手洗いで目がさめたときにはぐったりと疲れてしまっていました。それから二度寝して9時ぐらいに目がさめましたがすぐにはおきあがれませんでした。布団の中でうだうだできる幸せ。こんなのほとんど事務じゃなくて感情労働でしょっ、ていう仕事とキイキイ声にほんとに疲れてしまっているんだなと思います。ストレスのはけ口。働くって、こんなふうにいたずらにただただ心身のエネルギーを消耗してしまう辛いものなのでしょうか。みんなそうなんでしょうか。自分は何をやっているんだろうとむなしくなります。

 今度の土日の、エリザベートの補助席抽選予約に、どうせあたらないだろうと軽い気持ちで申し込んでみたらなんと当選のメールが届いてしまいました。23日(土)夜の部17時30分開演。2階席補助席。よく考えたら出勤日でした。都会のはずなのにど田舎のような就労場所からから帝劇に向かうには1時間半ぐらいかかりそうです。誰もがみたい最高のキャスト。あきらめていた山崎さんルキーニ。クレジットカードでの決済期限は18日(月)。どうしましょうか。昨日来週の休みに追加変更はないか確認されたとき、まさか当たるとは思わなかったので、変更があるかもしれませんって言いませんでした。なのでがちがちにシフトを組まれてしまいました。土曜日のこと、連休明けに今さら言ったら、キイキイ声でどんだけピリピリなるやら。わたしに、急用ができたので早退させてくださいって言い出す勇気があるやら。あるいは急用できたので休ませてくださいって言い出す勇気があるやら。嘘つくのが下手なのでたぶんできないと思いますが当日具合悪いですって朝電話を入れて休んでしまうか。自分の段取りと裁量だけではどうにもならず、けっこう目立ってしまうのでかなり面倒くさい。決済しなければキャンセル扱いになるだけなのでそれで終わりですけどね。仕事が終わってからだと急いでもたぶん終演まで一時間あるかどうか。それでも見納めなので無理してかけつけるか。電車の遅れがないかぎり30分ぐらいは間違いなく観ることができます。いつも一人で観ているのでお譲りできそうな観劇友達がいるわけじゃなし。つまらない仕事のせいで、せっかくのチケットをあきらめざるを得ないとか、わたしだけじゃやにですよね。どうしましょうか。決められないですね。疲れを感じる土曜日です・・・。