たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『この地球で私が生きる場所』_1990年ハリウッドへ OLから女優へ

2015年11月22日 15時48分54秒 | 本あれこれ
「*舞台の上で自分をさらけ出したい 中村佐恵美

 どうしたら自分に自信が持てるようになるのだろうか・・・。様々な分野で成功した人たちの苦労話を読みながら、そんな思いを巡らす時期がありました。そしてあるアメリカの役者のコメントを読み、演劇を学ぶことが自分を知り、精神的な成長に役立つかもしれない、とひらめき、アメリカの演劇学校へ通いたい気持ちが強くなっていったのです。
 
 言葉も知らない国の演劇学校で、芝居のまね事をし、恥をかいて笑われながら自分をさらけ出し、見えとか虚栄心、偽善的な考え方や姿勢を徐々にそぎ落してゆきたい。自分にとってほんとうに大切なものと、それほど大切でないものを見極めるための価値観を持ちたい。そして、自分と正直に向かい合って生きていければうれしい。渡米を決意しました。
 
 ロサンゼルスでは、英語の勉強や家探しなど無我夢中でした。アクティングクラスを探し、英語の芝居を読破し、舞台の上で英語をエクササイズ、カメラマンを選びヘッド・ショットを作るなど、目の前にハードルが並び、飛び越えるのに一生懸命でした。
 
 ひとつハードルを越えるとまた次の小さな目標が目の前にあり、常に全力疾走していました。人と自分を比べたり、今の生活に満足しているかどうかなど考える余裕すらありませんでした。恥ずかしいと感じる暇もなく、思い返すと、ひたむきで真っすぐな私がいたんですね。
 
 夢や情熱に駆り立てられ行動している人たちを見ていると、それだけで励みになります。物事のプロセスに身を投じて成長している人たちの笑顔はとびきり輝いて見え、彼らの流す涙は心の奥まで響いてきます。職業や学歴や肌の色に関係なく、真っすぐに自分の人生を歩き続ける人たちから勇気を分けてもらいながら、私もこれまで生活してくることができました。
 
 9月11日のテロ後、多くの人々がそれまでと違った角度から物事を見たり、受けとめたりするようになりました。そして、生きることにはなんの保証も無いという事実を目の当たりにし、ほんとうに大切なことは何か、周りに踊らされやっていることはないか、やりたいと思いながらも引き延ばしてきたことはないか、と自分の価値観を見つめ直し始めました。そして、死ぬ間際に後悔しないように、普段から大切なものや愛するもの、本当に価値あるものに囲まれて生きたいと、考えるようになったのです。
 
 こんな風に世が乱れている今、私たちひとりひとりが、生活を大切にしながら、さらに思いやりと感謝の気持ちをもって生きてゆくべきではないかと考えます。


夢をもった時、一歩は始まっている-平山亜理
 夜のニューヨーク・マンハッタン。少女が街角でショーウインドーをのぞき込む。中には舞台衣装。少女は目を輝かせ、さっと両手を挙げポーズをとる。いつかダンサーとしてスポットライトを浴びる日を夢見て。
 高校生の時、私(記者)が大好きだったソニーのCMだ。「オーバー・ナイト・サクセス」とテンポの速い曲が流れるたび、テレビの前に飛んでいった。
 夢はかなう。そんなメッセージが込められているような気がした。小中高と演劇部員だった私は、いつかアメリカで舞台に立ってみたいなとあこがれた。
 だれもが夢をみる。そして、その夢を心の隅に追いやり、いつの間にか忘れてしまう。「いつまでばかなことを言っているの」と、自分に言い聞かせて。
 彼女もそんなOLだった。ある日、このままの生き方でいいのかな、と思うまではー。
光そそぎ込む店内、香ばしいコーヒーの香り
 土曜日の昼下がりのハリウッド。「アクション!」という声が響く。
 マリリン・モンローやジェームズ・ディーンらスターを描いた壁画の前で、ホラー映画の撮影中だった。厳しい表情の監督が、台本を片手にじっと二人を見つめていた。
 撮影風景はこの街の一部だ。
 壁画から近いウエスト・ハリウッドに中村佐恵美さんは住む。自宅近くの「アースカフェ」で待ち合わせた。光がふりそそぎ込む店内は、香ばしいコーヒーの香りで満ちていた。
 軟らかそうな長い髪を揺らし、笑顔を佐恵美さんは現れた。小柄だが、大きなひとみと意志の強そうな唇が印象的だ。
 窓際のカウンターでベルギーワッフルの朝食を食べながら、画用紙ほどの大きさの茶色い日記帳をつづるのが、佐恵美さんの日課だ。顔なじみのウエートレスが「ハーイ」と声をかけ、肩をたたいていく。
 佐恵美さんが渡米して11年になる。もとはごく普通の女性だった。短大生の時、夏休みに滞在したアメリカのホームスティ先で「将来の夢は」と尋ねられ、「外資系の会社の秘書」と答え、「それがあなたの好きなこと?」と驚かれた。いいところにお勤めして、英語が話せたら恰好いいな、という位の感覚だった。同級生たちのように。
 短大卒業後、大手不動産会社に4年勤めた。いい給料で有給休暇がとりやすい職場だったが、ある日プロポーズされたのを機に、どう生きたいのかを考えたくなった。
 休暇を取って出かけたパリ。街角の広場の階段に座って行き交う人たちを眺めながら、考えた。もっとわがままに生きてもいいんじゃないか。
「何が好きなの」と佐恵美さんが自分自身に尋ねた時、ふと、高校生の時に見た映画「フラッシュダンス」やソニーのCMを見て、鳥肌が立ったのを思い出した。夢をもってひたむきに生きる主人公の姿は、輝いてまぶしかった。
 「アメリカに行っちゃおうかな」。ふと頭をよぎった。踏み出そうとする自分と、「無理よ、そんな夢物語」と引き留める自分がいた。
 家族と婚約者を説き伏せ、ハリウッドに来た。語学学校に通い演劇のクラスを受けながら、売り込んでくれる事務所を見つけ、CMや映画のオーデションを受け続けた。
 ある日「プラトーン」のオリバー・ストーン監督が、アジア系の女性を探しているという雑誌の記事を見つけた。子役だった。オーデションはうまくいかなかった。
 逃げるように会場を離れながら、「このまま帰ったら、一生後悔する」ともう一人の自分がささやいた。きびすを返し、もう一度と頼み込んで回してもらったカメラに、「あなたと仕事がしたくてアメリカまで来たんですよ。ミスター・オリバー・ストーン!」と笑いかけた。その熱意が買われ、小さい役ながらも子役とリポーター役を二役もらえた。
 だが、外国でひとりで暮らす寂しさも募った。日本の婚約者と別れてさらにつらくなった。だれにも必要とされていないと感じ、心の穴を埋めようとアイスクリームやピラフを大量に口に運んでは、のどに指を突っ込み吐いた。みじめだった。
 「死にたい」。友達が紹介してくれたグループセラピーに行った。自分の番になり、「日本から来ました」と言うと、涙がぼろぼろこぼれた。日本を離れてから、「助けて」と心が叫ぶのに、「もっと頑張らなきゃ」「弱音を吐いてはだめ」と自分をしかりつけていた。我慢してきたが堰を切った。
「話してくれてありがとう」と帰り際、電話番号を書いた名刺を数人が手渡してくれた。
 ある日、「サエミの夢は何?」と、友達に聞かれた。
 「苦労はしても、夢に向かって、一生懸命生きること」
 「じゃあ、夢はかなったんだね」。女優になるために、頑張っている姿。そのこと自体が自分の夢だったことに気づいた。
 夢がかなうまでの自分を書くようになった。二年後、「ハリウッド女優になったOL奮戦記』の題名で日本で出版された。

夢をもちながら、一歩を踏み出せない
 反響に驚いた。300通近くの手紙が日本から届いた。多くは、20、30代の女性からだった。夢をもちながら、一歩を踏み出せない。そんな思いが、切々と書かれていた。
 アメリカに留学し永住するのが夢だった28歳の主婦は、「私には勇気がなかった。先のことを考えすぎて何もできず、無理だと自分に言い聞かせていた」ときれいな字で書いてきた。
 派遣社員の仕事に疑問をもち、過食症で悩む28歳の女性は「このまま何もしなかったら、きっと将来後悔する。心の声に耳をすまし、夢に向かって進みたい。勇気をありがとう」と丸文字を書いていた。
 ハリウッドまで会いに来た女優志望の女性もいた。「きれいな人だから、成功して当り前ね」と、佐恵美さんの写真の表紙にひかれ本を手にした人が、いつしか自分の姿を重ねていた。
 みんな迷っていた。夢と現実の折り合いをどうつければいいのか、探していた。
「女の子は結婚すればいい、と育てられてきた。でもある日、実は選択肢があることに気づき、がく然とする」と、佐恵美さんは手紙をながめた。
 「でも、何とかしたいと思った時点で、すでに一歩踏み出している。私ってこういうことが好きだったんだと気づき、自分に興味をもってほしい」
 今、佐恵美さんは日本舞踊を習い、ヨガで体を鍛える。演技のレッスンを受け、映画のオーディションを受ける。コーヒーのCMロケで南アフリカへ出かけたり、北海道に出かけたり、芝居やダンスを見て、時間をつくって本を読む。
「強く望めば、行きたいところに行けるのかもしれない。手ごたえを感じるんです」
肩の力も抜けた。二冊目のエッセーは一冊目ほど売れなかったが、「次がある」と切り替えられるようになった。今度は、男女の関係について書かれた英語の本を翻訳、出版した。つらい仕事の後、よく頑張ったね、と自分に「ご褒美」の高級車BMWを買ったこともある。
 佐恵美さんの通うヨガ教室を訪ねた。
 明るい光が差し込む部屋。健康そうな若い男女40人ほどが床に座って目を閉じ、呼吸を整えていた。合掌のポーズを取る佐恵美さんが肩を並べているのは、俳優仲間のマイケル・パークさん。9年来の親友という。
 マイケルさんはレッスン後、彼女のほほに軽くキス。佐恵美さんは「またね」と笑顔を返す。家路につく佐恵美さんを見送ったマイケルさんは、大きな体をちょっとかがめて、こう話した。「サエミはね、以前はよく、朝に『私、いいことないの』と言って電話をかけてきた。『有名になりたい』『役がもらえないの』ってさ。ぼくは『そんな風に考えるのはやめなよ』と励ましたりしてた。今はリラックスして自由に楽しみながら、力を出している」
 ヨガ教室を出ると、カリフォルニアの真っ青な空が広がっていた。ふと、私も高校時代の夢を思い出し、無性にあのコマーシャルの歌が聴きたくなった。レコード店に行ったがあの歌のCDはなかった。ただ、メロディーが頭を駆けめぐった。

(朝日新聞 日曜版編集部『この地球で私が生きる場所 海外で夢を追う女たち13人』  
  2002年9月24日平凡社発行、43-53頁より)。

 
 9.11から一年後の2002年9月に発行されたこの本。本屋さんをウロウロしていた時、タイトルに惹かれて購入したと思います。海外で生きる13人の女性たち、ひとりひとりの物語に憧れを抱き、一気に読んだ記憶があります。ここに引用した中村さんは日本を飛び出して単身ハリウッドへ渡りました。

 「OLから女優へ」の「OL」の前には、書いてなくても「平凡な、普通の」といった言葉が隠されているであろうことは言うまでもありません。読んだ当時自分は平凡なOLだと思っていた私は、自分もこのままではいけない、なにかしなければ・・・そんな思いにとりつかれ、憧れのような気持ちを抱きながら中村さんの物語を読んだと思います。20代の頃の私は、「夢」という言葉を追いかけていたようなところがありました。「夢」「本当の自分さがし」といった言葉は今も私の中でくすぐったい感じで響きます。

 中村さんの物語を読んでから13年が過ぎました。9.11の後イラク戦争があり、日本は3.11の大震災と原発事故。一週間前にはパリでのテロ事件が大きく報道され、日本も、日本を取り巻く世界の状況も大きく変わりさらに混沌してきました。同時に自分は平凡なOLではなかったこともわかりました。かつては嫌悪感すら抱き、抜け出したとばっかり思っていた、「平凡な」「普通の」といった言葉がちがう響きをもって、私にささやきかけています。普通に暮らすことがむずかしくなってきた社会の中で、普通に暮らしていくことが実は一番むずかしいことなんだと思うようになったからです。

 何歳までをOLというのか、そもそも就労形態が多様化し、特に女性の非正規雇用が増える一方の昨今OLという言葉が今も生きているのかよくわかりませんが、私が普通のOLに戻ることは、いくつもの意味でもうあり得ないだろうと思います。平凡に、普通に生きることが社会全体としてすごくむずかしくなっているのです。平凡なOLでいることは、組織体の中で自分の感情を押し殺して無色透明な人でいられること、あるいは無色透明な人の無理ができること。私にはもう到底無理なので、平凡なOLを続けることは私にはとってもむずかしいことになりました。そこに戻りたいと思っても、もう無理なんです。そんなことを考えながら中村さんの物語を振り返ってみると、13年前は「平凡な、普通な」はつまらないものだとささやきかけてきた物語もちがってみえてきます。今はだれにも必要とされない孤独に耐えかねて食べ吐きをしていたくだりにとても共感できます。私自身が今社会からの孤立という孤独感と日々闘っているからです。

『レ・ミゼラブル』の観劇日記で書いたことがあると思いますが、平凡なようでも波乱万丈でも、こうして一日一日を生きていくことこそが闘い。誰にも必ず終わりの時が訪れます。生計を維持しながら自分にとって本当に大切なものを見極めながら生きていくこと、明日人生の終わりが訪れた時にやり残したことがあると後悔しない生き方をしていくことは容易なことではありません。自分は今何をすべきなのか。何をして生きていきたいのか。そのひとつがやっぱりグリーフケアに関わること、あり得ないような苦労を重ねて合格した精神保健福祉士の資格を生かすこと。それが自分の役割なのではないかと、だれに必要とされているというわけでもありませんが思います。具体的にどこへ踏み出していけばいいのか。やっとまた気力を取り戻していった場所は本当に自分がやりたいことなのか。問いかけは続いています。あー、家賃が重い。NPOをやっている人たちはどうやってごはんを食べているのかとっても気になります。

 フェイスブックをしばらく前に始めましたがやっぱり苦手。求めていない情報なのに、全然知らない人の名前が「友達になる」って毎回どんどん表示されて疲れちゃいます。オリジナルの文章を書くのもブログとずいぶん勝手が違います。ブログはこころのふるさとに帰って来たような感じです。長文を読んでいただき、ありがとうございました。

 昨日の夕方左上の奥歯の神経を三本抜きました。麻酔をがんがん注射したうえに、口が小さくてあまり大きく開けられないのを一生懸命に開けていたので疲れました。さらに鎮痛剤を飲み続けているのにあまり効かなくって繰り返し飲んできているので胃がやられてしまって、昨夜はかなり辛い状態でした。夜食べたものをほとんどはいてしまいました。胃薬さえも受け付けない状態でしたが、たっぷり眠ったら復活しました。こんな時1人暮らしは不安です。疲労の蓄積はいつも歯に現れます。去年から続いている緊張感の疲れがでてきているような気がします。もう実家に引き揚げるか、もう少しがんばってみるか、選択をしなければいけない時に来ています。5月-6月にしばらく帰って休んでおけばよかったと思いますが、その時はその時で気になることがあったし、なんとか生活を立て直さなければと、疲弊しているのにがんばろうとしていたから仕方ないかな。商業施設はクリスマスとかってやっているけれど、今年はまだ終わりません。わたしまだやることがあるような気がします。それとも本当にもう立て直すの無理なのかなー。思い悩む日々なので書くことがやめられせん。また美しい写真と一緒にあれやこれや、書ければいいなと思います。今日はこれでおしまいです。


 
この地球で私が生きる場所――海外で夢を追う女たち13人
クリエーター情報なし
平凡社

あれやこれやで毎日が・・・

2015年11月21日 00時12分54秒 | 日記
 昨日はお昼前に取材を受けて、お昼を記者さんにご馳走になり、午後は過労死等防止対策推進シンポジウムを拝聴。久しぶりにたくさんの人と会った一日でした。シンポジウムを拝聴した記事を最近はじめたフェイスブックに先に書いてしまいました。SNSはブログと勝手が違ってやっぱり苦手だなあと思いながら、でも心に残ったことを昨日中に書かずにはいられず、書き始めるとつい力が入ってしまい、途中でパソコンが固まってしまうなどもあって結局夜中の1時近くまでかかってしまいました。その記事は明日以降このブログにも載せようと思います。

 フェイスブックも始めてしまうと書きたい記事をまとめていくのに結構時間を使っています。個人のフェイスブックではなく社会に訴えかけていくために仲間と運営しているフェイスブックの最新に私の記事を載せています。もうすぐまた新しい記事を載せたくて今日の夕方は下書きをしていました。できるだけ短くわかりやすく書かなければ人に読まれないのに、私にはそれがすごくむずかしいです。個人のフェイスブックも気になるニュースをネットで読んで人にも伝えたいと思うとついシェアしてしまったりします。そんなことをお互いにやっているので、友達10人ぐらいですが毎日情報の洪水になっています。でもSNSをやっていなければ知り得なかった大事なニュースもあるんですよね。インド人の女性ジャーナリストの、世界に祈りを捧げようという内容の詩は、SNSで知りました。

 心配なニュースが続く毎日の中で自分に何ができるんだろう、何をすべきなんだろうと考えつづけています。実際にはすでに決して小さくはない社会に貢献することを私はやっています。昨日の取材で話させていただいたことは、私個人の問題ではなく、社会に訴えかけていくべき小さくはない問題を内包するものです。私自身もささやかに書いて発信していますが、記者さんがどうまとめてくださるのか、期待しています。私がハードルをあげてしまいました。専門誌ですが、早ければ年内に、おそくても年明けには記事になるそうです。大事なことを私、ちゃんとやっていますね。ほとんどの人が泣き寝入りしてきてここまでやってきたのはほんとに数少ない人しかいないということに、全身のエネルギーを注いでやってきました。あまり実利はなかったですが、目にはみえないけれど大切なものたちと出会うことができたと思います。この苦労が糧となり、なにかのかたちで実を結んでいく日が訪れるでしょうか。そう信じたいと思います。

 ちひろ美術館を訪ねたことをまだ書き切れていないし、旅日記や美術館日記に本あれこれ、書くことはとまりません。書かないではいられません。やっぱりブログはいいですね。心がやすまります。書きながらほっとします。SNSでいいね!を誰かしてくれたのかなとかついつい承認欲求が出て気になってしまうので落ち着きません。友達が500人、1000人、2000人とかって、どう認識し情報を整理されているのか。私はとてもそこまで無理ですね。心の揺れまどいを綴っていくのはやはりブログです。また心を落ち着けて、あれやこれや綴っていきたいです。よろしければ引き続き訪問してください。

 疲労の蓄積がまた歯に現れました。昨日のお昼、あったかいおうどんをご馳走になっていた時、左の葉の奥に激痛が。今日お世話になりっぱなしの歯医者さんにいったら一番奥の上の歯の神経が炎症しているそうです。明日神経三本抜かなければなりません。こうやってちゃんと体がおしえてくれるんですね。

 市村さんがスクルージを演じる『クリスマス・キャロル』を観たい。どうしよう。花ちゃんのソロコンサートも・・・。ゲストはずんこさん、井上さん、育三郎さん、行きたいなー、って収入途絶えているのになにいってんだ、って感じですね。どうなっていくのがいいのか。一昨日出向いた所が本当に自分にとってふさわしい居場所なのか考えれば考えるほどわからなくなっています。またおそくなってしまったのでこれでおしまいにします。おやすみなさい。


心にしみることば

2015年11月18日 23時14分20秒 | 日記
若松英輔さんのツィッターを読んでいて珍しくフェイスブックに先に記事を書いてしまいました。なんだかすぐにでも書かずにはいられない瞬間がたびたび訪れます。そんなひとこまだったかもしれません。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

どれだけ泣いても涙があとからあとからあふれだしてきてどうしようもなかった。ただただ泣くことしかできなかった日々があった。言いようのない悲しみを抱きしめ続けた。そんな日々のあったことが、いつしか私の中で生きる糧となり力を与えてくれているように思う。安らかであれと祈りながら、先に逝ったいのちの分まで生きていきたい。

*******************

若松英輔 @yomutokaku · 11月16日
同じ悲しみなど存在しない。大きな悲しみも小さな悲しみもない。世に一つの悲しみがあるだけだ。だから自分の悲しみが完全に理解されることはない。また他者の悲しみを知り尽くすこともまた、ないのである。だが、響き合う事はできる。内なる悲しみを目覚めさせよ。悲しみはいつか祈りに変わるだろう。

若松英輔 @yomutokaku · 11月16日
悲しんでばかりいるな、と人は言う。そんな相手には造り笑顔を見せてやれ。安堵して、そうした事は言ってこなくなる。悲しむなという人には、もう元気になったと伝えれてやれ。面倒な応対も不要になる。そんな人には、泣くときにだけ悲しむのではないと言ってみても、けっして伝わりはしないのである。

世界への祈りを捧げる

2015年11月17日 21時32分51秒 | 日記
 入江杏さんがフェイスブックで紹介されているいるパリのテロ事件をうけてインドの女性ジャーナリストが書いた詩を、入江さんのコメントと一緒にフェイスブックでシェアさせて
いただきました。

「祈り」という言葉をかみしめます。

自死遺族として自分は何ができるのだろう、何をすべきなのだろうという問いかけは続いています。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

何度も読み返しています。
★パリのため(だけ)ではなく、世界のために祈るべきとき…と美しい言葉で訴える、インドの女性ジャーナリストの書いた詩(翻訳は幾島博子さんのお姉様です)

*******************

私たちが捧げるべきなのは、パリへの祈りではない。
世界への祈りだ。
パリの2日前に連続自爆攻撃にさらされたベイルートのことは
ニュースで伝えられない、そういう世界に祈りを捧げよう。
バグダッドの葬儀場が爆撃されても、死者に白人がいなかったから、
誰も「バグダッド」について投稿しない、そういう世界に。
祈りを捧げよう、
テロ攻撃を難民危機のせいにする世界に。
攻撃者と、あなたと全く同じものから逃げようとしている人とを
区別しようとしない世界に。
祈りを捧げよう、
背中に背負ったもの以外何ひとつ持たず、
何ヵ月もかけて国境を越えてきた人びとが
おまえたちに行くところはないと言われる世界に。
パリのために、ぜひとも祈りを捧げよう、
でもそれだけではいけない。
祈ろう、
祈りを持たない世界のために。
もはや守るべき家を持たない人びとのために。
身近な高層ビルやカフェだけでなく
いたるところで崩壊しつつある世界のために。


Pray for the world

Pray for a world

英語の原文は下記サイトに掲載されています。

https://instagram.com/p/-DmUOwJ0tC/

いわさきちひろ『戦火のなかの子どもたち』より_あとがき

2015年11月16日 15時27分35秒 | いわさきちひろさん
「絵本にそえて  いわさきちひろ

 ベトナムでは長いこと戦争が続いておりました。
いまだってほんとうは戦争はおわっていないのです。
アメリカの爆弾が、おとなりのカンボジアの国にまで
おとされているそうなんですから。

 わたしは日本の東京のせまい仕事場で、それらの戦
争のことと、わたしの体験した第二次世界大戦のこと
を、こころのなかでいつもダブらせてかんがえていま
した。

 戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどう
しているのか、どうなってしまうのかよくわかるので
す。子どもは、そのあどけない瞳やくちびるやその心
までが、世界じゅうみんなおなじだからなんです。
そういうことは、わたしがこどもための絵本をつく
っている絵描きだからよけいわかるのでしょうか。」

(いわさきちひろ『戦火のなかの子どもたち』1973年9月10日第一刷発行、1985年7月10日第二十五刷発行、岩崎書店より)

 
 1939年第二次世界大戦が勃発した年、三姉妹の長女だったちひろさんは家を継ぐため親の勧めるままに結婚せざるを得ませんでした。結婚式を挙げると、いやいや旦那さんの赴任先の大連に渡りましたが、ちひろさんは旦那さんの手に触れられることすらいやがりました。傷ついた旦那さんの自死により、二年間の、かたちだけの結婚が終わりちひろさんは大連から帰国しました。ちひろさんは盛大な結婚式の写真を全て捨て、旦那さんの名前がわかるものも全て封印されたそうです。

 その後1944年、お母さんが勧めていた満州没利女子開拓団一行とともに満州に渡りました。ちひろさんがそこで目にした現実は、日本で聞かされていたことと大違いの、それまでちひろさんが経験したことのない悲惨なものでした。痩せた土地を耕し、泥の家に住む人々。心身を病んだちひろさんの様子を見かねた部隊長がちひろさんを、数カ月後に帰国させてくれました。1945年8月第二次世界大戦終結。一緒に満州に渡った女性のほとんどは亡くなるか残留花嫁になったそうです。

 ちひろさんのこの前半生を本で読んで知ったのは、私自身が自死遺族という立場になってからのことだったと思います。ちひろさんは、自分が人を死に追いやってしまった罪悪感、自分だけが満州から帰国して生き残った罪悪感・・・はかり知れない重い荷物を背中に背負いながら生き続けた人であったからこそ、世界中の子どもたちが平和であれとの想いが強く、9,000点余りにおよぶ子どもたちの絵を描き続けられたのだと、一昨日ちひろ美術館で、ドキュメンタリー映画『ちひろ_27歳の旅立ち』をみながら、あらためて深く感じました。

 世界はますます混沌としてきています。日本も再び戦争へと濃き出してしまうような法案が成立してしまいました。憎しみからは憎しみしか生まれません。「世界中のこどもみんなに平和としあわせを」と願い続けたちひろさんの想いが、世界中にひろがっていきますようにと心から祈ります。



戦火のなかの子どもたち (創作絵本 14)
岩崎 ちひろ
岩崎書店

ちひろ美術館_「まるごとちひろ美術館」展に行ってきました(2)

2015年11月15日 23時44分15秒 | いわさきちひろさん
 ちひろさんの『戦火のなかの子どもたち』『絵のない絵本』の原画に涙した日の夜、インターネットのニュースでパリの襲撃事件のニュースを知りました。世界はますます混沌としてきています。日本もよその国のことではない状況になりつつあるはずなのに、なんだか早くも商業的なクリスマスムードがつくられていて違和感をおぼえてしまいます。

 パリの中心部、地図を見るとルーブル美術館から近かったりするようで、私も行ったことがあるだけに、ヨーロッパも安全ではなくなったのだとあらためて気づかされました。カフェの写真、私が宿泊先のホテルから一人で地下鉄に乗って行った、サルトルらが集ったというデュ・マ・ゴネと同じ光景、当たり前すぎるパリの街の風景。本当に世界は混沌とするばかりです。ネットのニュースをいろいろと読みながらちひろさんのこんな言葉を思い出しました。

「もちろんこの地球上に人間が安心して暮らせるところがあるなどとは、私もずっと前から思わなくなっていたけれど。」

昭和53年発行の『ちひろのことば』からの引用で、全文は下記ブログで紹介しています。


http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dd9858ecf24c02fc21102ed4fd154ec4


「世界中のこどもみんなに平和としあわせを」ということばを残されたちひろさん。どんな思いで今の日本を、世界をご覧になっているでしょう。

 「ちひろさんが画家として立つきっかけとなった紙芝居『おかあさんの話』(アンデルセン作)の原画は存在せず習作一点しか残っていません。ちひろの絵を職人が写し取って版を作る、かき版という方法で印刷されました。この紙芝居がちひろの筆をそのまま伝えているとはいえませんが、初期の画風を知る上では貴重な資料です。ちひろはこの作品で、1950年に文部大臣賞を受賞しました。」(『ちひろのアンデルセン』講談社文庫より)

 貴重な一枚をみることができました。アンデルセンの作品はハッピーエンドではありませんが、紙芝居ではおかあさんが子どもと出会って終わる物語になっていると解説にありました。

 『おやゆびひめ』『絵のない絵本』の他に、文庫版の本で繰り返しみてきた「アトリエの自画像」「暖炉の前で猫を抱く少女」「毛糸を編む少女」の原画との出会いも嬉しかったです。原画でしかわからない赤い色のにじみ具合、紙のしわなど、ちひろさんが描かれたものそのものなのだと思うと、ちひろさんと対話しているような言葉にならない思いがありました。

 昨日の続きを書こうとしていましたがあまりまとまりませんでした。『おやゆびひめ』『絵のない絵本』『戦火のなかの子どもたち』からまた書きたいと思います。

 ちひろさん、55歳での旅立ちは本当に早過ぎました。世界はもっとちひろさんの絵が必要でした。空から世界を見守っていてくださいと祈りたいと思います。

ちひろ美術館_「まるごとちひろ美術館」展に行ってきました

2015年11月14日 23時20分24秒 | いわさきちひろさん
 雨の降る寒い一日でしたが一年ぶりにまた友人と二人でちひろ美術館を訪れました。ずっと頭の中が休まることなく満タンになっていたので、久しぶりに心あらわれる一日となりました。 

『絵のない絵本』より原画4点。インドの少女、玉座の少年、晴れ着の少女と犬たち、道に投げ出された棺。原画の前に佇んでいると描いたちひろさんと対話しているようで涙が流れてしまいました。

『おやゆびひめ』、『赤い靴』、『ことりのくる日』の原画も嬉しかったです。

『戦火の中の子どもたち』より原画6点。焔の中の母と子(母さんといっしょにもえていったぼうや)、川を渡る牛と少女、焼け跡の子どもたち、少年(あの子は風のようにかけていったきり)、表紙にもなっている戦火のなかの少女。発行されたのが1973年9月10日。ちひろさんがベトナム戦争の終結を知ることなく旅立たれのが1974年8月8日。55歳は早過ぎました。病を押して命を削るように描かれた作品の前にたつと心がふるえ、涙があふれました。

 15時からの「いわさきちひろー27歳の旅立ち」上映会にも参加しました。絵を描くという神様が与えられた役割を55歳の生涯で全うされたちひろさんの人生を描いたドキュメンタリー映画です。ずっと泣きながら観てしまいました。

 大手出版社に対して絵の著作権がまだ認められていなかった時代に著作権を主張し、孤立しながらも毅然として譲らず絵本画家という地位を確立させていったちひろさんの芯の強さ。若い頃のお見合い結婚が相手に自死によって終わるという過去を封印し、終戦後画家として立つことを目指して疎開先の長野から焼跡の東京に1人旅立ち、家も仕事も収入もなんにもないところから絵を描きたいという想いだけを胸に再出発していったちひろさん。どんな時もあきらめてはいけないのだということをあらためて教えられました。悲しみや苦しみの数だけ人は深くなっていくのだということをあらためて教えられました。ちひろさんへの想いは尽きることがありません。

 私のような喪失や混乱を体験した人たちで、ちひろさんの絵本を読み語り合う会をやれたらいいなと思います。漠然と思っていることのひとつです。

 まだ書き足りないので後日改めたいと思います。

http://www.chihiro.jp/tokyo/museum/schedule/2015/0119_1650.html

少し気力が戻ってきたか・・・・?!

2015年11月11日 23時30分24秒 | 日記
 ぜひご覧いただきたいとみなさんに宣伝したクロ現。テレビ持っていないので今ウエブサイトで全文テキストで読んだら、全く体制寄りのとんでもない内容になっていました。肝心の問題のポイントを全部避けて踏み込まず、なんか労働者の生産性が低いとか、って意味わかりません。なんでこうなってしまうのか、言葉が出ません。一生懸命伝えたつもりのことが全く伝わっていなかったのか。体制の中でこういうものしかつくれなかったのか。費やした時間の意味がなかったです。

 気力が失せて5日目。ようやくまた少しずつ戻ってきたのかな、っていう感じです。一回エネルギーそがれて気力が戻るまでに一週間。そこにまたダメージ受けて気力が戻ってくるまでにまた一週間。この繰り返しであっという間に時間は過ぎていきます。辛いこと、この上ないです。それでも来週の次の機会に向けて、やっぱり諦めてはいけないと気力を奮い立たせようとしています。一生懸命にやって次につながっていく道があるかもしれないし、苦労して合格した精神保健福祉士が生きてくる場面だってゼロじゃないです。これからかもしれません。今は頭が満タンで疲れ過ぎちゃってこれが精一杯。はあっ、よいしょっ、って感じで気持ちを立て直して素直な私で臨むしかないです。

 会社、という言葉にまだすごく傷つく私がいるので今はそれはいいです。違うところで新たな居場所を見つけたいです。言えない苦しさを背負いながらは辛いけれど、言えなくても自分のしてきたことは間違っていなかったと思っているので胸を張って、お腹に力を入れていこうと思います。ほんとになー、大変なことだよ。よくやりました。自分で自分に恥ずかしくないからそれでいいです。間違っていなかったと思えるのだからそれでいいです。社会に後ろめたさを感じるような、そんないじけたことはやめて言えないけれど正々堂々といればいいんです。こうやって思えるようになっただけ、また私はきっと強くなることができました。色々な思いはあります。焦らずに、でも生きている間に道筋がつけられるように、今心に思っていることを叶えられるように、見守っていてほしいと祈り続けるしかありません。不安だけれど、きっと大丈夫と言い聞かせます。断捨離もまだまだあるし、整理のつかないことたくさんでモノがあふれています。今年いっぱいはこんな感じで続いていきそうです。くじけるでない、わたし。いつかきっと収支のあう時が訪れると信じてもう少し。くじけるでない、わたし。

 東京都美術館でモネ展やっているので今月中に行きたいです。何年前になるのかな、オランジェリー美術館で睡蓮の絵に包まれて過ごした時間、忘れられません。まだブログにアップしていないので、もう少し先にアップしようと思います。

 さびしんぼの毎日。パソコンとお友達の日々は続いていきます。辛いっす!! 

 それでも、社会から孤立しながらもふんばり続けたことはまちがっていなかったっす!!

 自分で自分をほめてあげることができるから、それでいいんです!!

 明日はまた明日の一日を過ごしたいと思います。おしまい。


これからやりたいこと_その1

2015年11月10日 23時16分57秒 | 日記
 長時間労働でモーレツに働いていた頃やりたくても叶わず、これから生きている間にやりたいと思うこと、その一。「いのちの電話」の相談員養成講座を受講する。交通費も含めて完全ボランティアの「いのちの電話」。研修を繰り返して相談員としてスタートできるまで一年以上かかります。週に一回の講座を何カ月も受講して、ロールプレイやったりするの、時間的に無理でした。今は時間あるけれど収入ありません。去年雇用保険を受給している間に受講しておけばよかったとふと思いました。でも去年は混乱にエネルギーを集中していて全く思い出すことができませんでした。頭の中をかすめませんでした。それはそういう時。仕方なかったです。働いていた間は、2011年の秋に公開講座を3カ月受講したのがやっとでした。このブログに書いたことがあると思いますが、色々な意味でかなり辛かったです。それ以来叶えないと思いながら叶えていないことのひとつ。

 傾聴やファシリテータとしての経験を積んでいけるきっかけをつかみたいです。家賃という基本的な生計維持を背負いながらはもう無理かなーと思います。年齢やその他いろいろでなんか、がんばっても先がみえてこないです。白旗あげるほどがんばっていないじゃないかと言われそうですが、混乱でエネルギー消耗し過ぎた上にやっているので疲れちゃいました。

 ボツになって一度気力が失せると回復までに一週間かかり、またいっとき気持ちが盛り上がってがんばってみればまボツになって気力が失せるの繰り返し。なんか社会のひずみばっかり見えてしまってさらに辛くなります。このプロセスを繰り返す先に希望がある感じが全くしません。エネルギー消耗し過ぎたので家に帰ってしばらくゆっくり休みたいです。せまいひとり住まいの部屋で近くに知りあいもおらず、さみしんぼに暮らすのかなり辛くなってきました。広い家でまずは休みたいです。

 そろそろ持たなくなってきたし、やりたいことを叶えていくためには、家賃のプレッシャーから自分を解放してあげる選択をしなければと考え始めています。これ以上がんばれそうにないので、帰ろうかな、って・・・。家賃がいちばんデカイです。

 花ちゃんのコンサートのゲスト。ずんこさんに井上さんに育三郎さんに春野さんにと超スペシャル。チケットとりづらくなっただろうし、行きたいけど我慢でしょう。辛いところ。はあっ・・・。ためいき・・・。

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若松英輔 ‏@yomutokaku · 11月6日
魂が渇くとき、ひとは、潤いをもとめて、涙を流す。涙は、頬を、ときに見えない姿で心をつたう。涙の道を生きることは、悲嘆の底にあった者が立ち上がり、行いつつある勇気の営為である。どうしてそれを見て世は、元気になれなどと言うのか。そこに小さき勇者の姿を見ないのか。

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あまりにも心が枯れてしまって涙さえ出なかった。ようやく泣けたとき、涙を流すことができたとき、ほっとしました。

白旗あげようとしています。これ以上がんばれません。もう十分過ぎるぐらいがんばってきたから。
 

『就職・就社の構造』より_揺らぐ日本型雇用システム_奥村宏(2)

2015年11月10日 20時07分36秒 | 本あれこれ
「かつて私は『朝日ジャーナル』1987年6月12日号に「就社」でなく、好きな仕事の発見を!」という題で次のように書いたことがある。

 「アメリカの会社のように、いまこういう職種の仕事をする人を求めていると学生を募集するのではなく、入ってから営業をやるか、総務に回されるか、それとも工場に行かされるか全くわからないが、ともかくこの会社に入れとうのが日本の就職なのである。仕事ではなく会社、就職ではなく就社なのである。」

 この「就職」ではなく、「就社」であるという日本式システムは、まさに会社本位のあらわれである。欧米では職種、すなわちどういう仕事をするか、ということで求職者は職業を選ぶが、日本では、どういう仕事をするのかよくわからないままに会社に就社する。欧米では職種ごとに労働市場が形成されており、新卒者はその市場に入っていくのだが、日本では会社という組織に入っていくのだから、それは市場とはいえない。

 このような会社本位主義の日本型就職システムについて、以下、みていこう。

 日本型就職システムの第一の特色は、全国一斉採用ということである。ほとんどの会社が毎年4月1日、まるで学校の入学式と同じような入社式を行って社長が訓示をし、新入社員代表が
宣誓をする。(略)

 このように毎年4月1日に全国一斉採用を行うということは、3月末に学校の卒業式が行われる日本では当たり前のことと思われているが、考えてみればこれは当然のことではない。6月に学期が終り、それから夏休みに入るアメリカの大学では、卒業したあと学生は就職先を探し、仕事が見つかればその時から会社に勤めだす。したがって同じ日に一斉に入社するようなことはない。

 4月一斉入社、その前の年の夏、あるいは春から就職活動をする、という日本式就職システムでは「職選び」ではなく「会社選び」、すなわち就職ではなく就社になる傾向がある。自分に適した仕事が見つかるまで探すのではなく、会社の採用試験日に合わせて、それまでに会社を決めなければならないからだ。

 第二の特色は人事部一括採用ということである。日本の大企業はどこでも人事部が新規採用を担当し、試験や面接を行っているが、この人事部が毎年一括採用をし、そのあとかなり長い期間、新人教育を行って、それから各職場に配置するという方式をとっている。

 欧米の場合、会社の中の各セクションのヘッドが、どういう仕事に、どういう人間が必要か、ということを考えて採用するのが普通であり、したがって職種、すなわち仕事で採用人員が決まってくる。これに対して日本型システムでは人事部が一括採用して、そのあと各セクションに配置する。(略)

 この人事部一括採用というやり方はいうまでもなく、先に述べた「就職」ではなく「就社」であるという日本型システムとつながっている。「就職」であるなら、職種のヘッドが採用するのが普通だが、「就社」である以上、会社の人事部が一括採用するしかない。日本の会社では、人事部の占めるウエイトが非常に高いのが欧米の会社に比べて大きな特色になっているが、このような「就社」システムがますます人事部の役割を大きくする。そしてこれが会社本位主義に通ずる道であることはいうまでもない。」

 第三の特色として就職における大学間格差ということがあげられる。全国一斉、人事部一括採用ということになれば、会社側は必然的に「良い」大学の学生を大量に採用しようとして競争する。そして一流会社は一流大学卒を、三流会社は三流大学卒を採るということになっていく。

(略)

 採用に際して日本の会社は、どのような大学を出たかを第一の基準とし、大学でどのような勉強をしたかということはほとんど問題にしない。ということはどのような大学を出たか、ではなく、どのような大学に入ったか、ということを最重視するということである。こうして大学入試の偏差値のランクと就職=採用試験がリンクするということになる。

 このことは日本の大会社は大学に対して教育機能を期待しているのではなく、入学試験という選別昨日だけを求めていることを意味している。一流大学に入ったということは、それまで小学生の頃から、あらゆる重圧に耐えて、受験勉強に励んできた学生であり、それこそが大会社にふさわしい人間であるということである。

 このような耐性のある人間を採用して、会社で教育する。これが日本の大企業の人事方針である。会社本位主義の教育を受け入れるのにふさわしい人間を採用するということがここにもあらわれている。」

(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、34-38頁より引用)。



就職・就社の構造 (日本会社原論 4)
クリエーター情報なし
岩波書店