「*舞台の上で自分をさらけ出したい 中村佐恵美
どうしたら自分に自信が持てるようになるのだろうか・・・。様々な分野で成功した人たちの苦労話を読みながら、そんな思いを巡らす時期がありました。そしてあるアメリカの役者のコメントを読み、演劇を学ぶことが自分を知り、精神的な成長に役立つかもしれない、とひらめき、アメリカの演劇学校へ通いたい気持ちが強くなっていったのです。
言葉も知らない国の演劇学校で、芝居のまね事をし、恥をかいて笑われながら自分をさらけ出し、見えとか虚栄心、偽善的な考え方や姿勢を徐々にそぎ落してゆきたい。自分にとってほんとうに大切なものと、それほど大切でないものを見極めるための価値観を持ちたい。そして、自分と正直に向かい合って生きていければうれしい。渡米を決意しました。
ロサンゼルスでは、英語の勉強や家探しなど無我夢中でした。アクティングクラスを探し、英語の芝居を読破し、舞台の上で英語をエクササイズ、カメラマンを選びヘッド・ショットを作るなど、目の前にハードルが並び、飛び越えるのに一生懸命でした。
ひとつハードルを越えるとまた次の小さな目標が目の前にあり、常に全力疾走していました。人と自分を比べたり、今の生活に満足しているかどうかなど考える余裕すらありませんでした。恥ずかしいと感じる暇もなく、思い返すと、ひたむきで真っすぐな私がいたんですね。
夢や情熱に駆り立てられ行動している人たちを見ていると、それだけで励みになります。物事のプロセスに身を投じて成長している人たちの笑顔はとびきり輝いて見え、彼らの流す涙は心の奥まで響いてきます。職業や学歴や肌の色に関係なく、真っすぐに自分の人生を歩き続ける人たちから勇気を分けてもらいながら、私もこれまで生活してくることができました。
9月11日のテロ後、多くの人々がそれまでと違った角度から物事を見たり、受けとめたりするようになりました。そして、生きることにはなんの保証も無いという事実を目の当たりにし、ほんとうに大切なことは何か、周りに踊らされやっていることはないか、やりたいと思いながらも引き延ばしてきたことはないか、と自分の価値観を見つめ直し始めました。そして、死ぬ間際に後悔しないように、普段から大切なものや愛するもの、本当に価値あるものに囲まれて生きたいと、考えるようになったのです。
こんな風に世が乱れている今、私たちひとりひとりが、生活を大切にしながら、さらに思いやりと感謝の気持ちをもって生きてゆくべきではないかと考えます。
夢をもった時、一歩は始まっている-平山亜理
夜のニューヨーク・マンハッタン。少女が街角でショーウインドーをのぞき込む。中には舞台衣装。少女は目を輝かせ、さっと両手を挙げポーズをとる。いつかダンサーとしてスポットライトを浴びる日を夢見て。
高校生の時、私(記者)が大好きだったソニーのCMだ。「オーバー・ナイト・サクセス」とテンポの速い曲が流れるたび、テレビの前に飛んでいった。
夢はかなう。そんなメッセージが込められているような気がした。小中高と演劇部員だった私は、いつかアメリカで舞台に立ってみたいなとあこがれた。
だれもが夢をみる。そして、その夢を心の隅に追いやり、いつの間にか忘れてしまう。「いつまでばかなことを言っているの」と、自分に言い聞かせて。
彼女もそんなOLだった。ある日、このままの生き方でいいのかな、と思うまではー。
光そそぎ込む店内、香ばしいコーヒーの香り
土曜日の昼下がりのハリウッド。「アクション!」という声が響く。
マリリン・モンローやジェームズ・ディーンらスターを描いた壁画の前で、ホラー映画の撮影中だった。厳しい表情の監督が、台本を片手にじっと二人を見つめていた。
撮影風景はこの街の一部だ。
壁画から近いウエスト・ハリウッドに中村佐恵美さんは住む。自宅近くの「アースカフェ」で待ち合わせた。光がふりそそぎ込む店内は、香ばしいコーヒーの香りで満ちていた。
軟らかそうな長い髪を揺らし、笑顔を佐恵美さんは現れた。小柄だが、大きなひとみと意志の強そうな唇が印象的だ。
窓際のカウンターでベルギーワッフルの朝食を食べながら、画用紙ほどの大きさの茶色い日記帳をつづるのが、佐恵美さんの日課だ。顔なじみのウエートレスが「ハーイ」と声をかけ、肩をたたいていく。
佐恵美さんが渡米して11年になる。もとはごく普通の女性だった。短大生の時、夏休みに滞在したアメリカのホームスティ先で「将来の夢は」と尋ねられ、「外資系の会社の秘書」と答え、「それがあなたの好きなこと?」と驚かれた。いいところにお勤めして、英語が話せたら恰好いいな、という位の感覚だった。同級生たちのように。
短大卒業後、大手不動産会社に4年勤めた。いい給料で有給休暇がとりやすい職場だったが、ある日プロポーズされたのを機に、どう生きたいのかを考えたくなった。
休暇を取って出かけたパリ。街角の広場の階段に座って行き交う人たちを眺めながら、考えた。もっとわがままに生きてもいいんじゃないか。
「何が好きなの」と佐恵美さんが自分自身に尋ねた時、ふと、高校生の時に見た映画「フラッシュダンス」やソニーのCMを見て、鳥肌が立ったのを思い出した。夢をもってひたむきに生きる主人公の姿は、輝いてまぶしかった。
「アメリカに行っちゃおうかな」。ふと頭をよぎった。踏み出そうとする自分と、「無理よ、そんな夢物語」と引き留める自分がいた。
家族と婚約者を説き伏せ、ハリウッドに来た。語学学校に通い演劇のクラスを受けながら、売り込んでくれる事務所を見つけ、CMや映画のオーデションを受け続けた。
ある日「プラトーン」のオリバー・ストーン監督が、アジア系の女性を探しているという雑誌の記事を見つけた。子役だった。オーデションはうまくいかなかった。
逃げるように会場を離れながら、「このまま帰ったら、一生後悔する」ともう一人の自分がささやいた。きびすを返し、もう一度と頼み込んで回してもらったカメラに、「あなたと仕事がしたくてアメリカまで来たんですよ。ミスター・オリバー・ストーン!」と笑いかけた。その熱意が買われ、小さい役ながらも子役とリポーター役を二役もらえた。
だが、外国でひとりで暮らす寂しさも募った。日本の婚約者と別れてさらにつらくなった。だれにも必要とされていないと感じ、心の穴を埋めようとアイスクリームやピラフを大量に口に運んでは、のどに指を突っ込み吐いた。みじめだった。
「死にたい」。友達が紹介してくれたグループセラピーに行った。自分の番になり、「日本から来ました」と言うと、涙がぼろぼろこぼれた。日本を離れてから、「助けて」と心が叫ぶのに、「もっと頑張らなきゃ」「弱音を吐いてはだめ」と自分をしかりつけていた。我慢してきたが堰を切った。
「話してくれてありがとう」と帰り際、電話番号を書いた名刺を数人が手渡してくれた。
ある日、「サエミの夢は何?」と、友達に聞かれた。
「苦労はしても、夢に向かって、一生懸命生きること」
「じゃあ、夢はかなったんだね」。女優になるために、頑張っている姿。そのこと自体が自分の夢だったことに気づいた。
夢がかなうまでの自分を書くようになった。二年後、「ハリウッド女優になったOL奮戦記』の題名で日本で出版された。
夢をもちながら、一歩を踏み出せない
反響に驚いた。300通近くの手紙が日本から届いた。多くは、20、30代の女性からだった。夢をもちながら、一歩を踏み出せない。そんな思いが、切々と書かれていた。
アメリカに留学し永住するのが夢だった28歳の主婦は、「私には勇気がなかった。先のことを考えすぎて何もできず、無理だと自分に言い聞かせていた」ときれいな字で書いてきた。
派遣社員の仕事に疑問をもち、過食症で悩む28歳の女性は「このまま何もしなかったら、きっと将来後悔する。心の声に耳をすまし、夢に向かって進みたい。勇気をありがとう」と丸文字を書いていた。
ハリウッドまで会いに来た女優志望の女性もいた。「きれいな人だから、成功して当り前ね」と、佐恵美さんの写真の表紙にひかれ本を手にした人が、いつしか自分の姿を重ねていた。
みんな迷っていた。夢と現実の折り合いをどうつければいいのか、探していた。
「女の子は結婚すればいい、と育てられてきた。でもある日、実は選択肢があることに気づき、がく然とする」と、佐恵美さんは手紙をながめた。
「でも、何とかしたいと思った時点で、すでに一歩踏み出している。私ってこういうことが好きだったんだと気づき、自分に興味をもってほしい」
今、佐恵美さんは日本舞踊を習い、ヨガで体を鍛える。演技のレッスンを受け、映画のオーディションを受ける。コーヒーのCMロケで南アフリカへ出かけたり、北海道に出かけたり、芝居やダンスを見て、時間をつくって本を読む。
「強く望めば、行きたいところに行けるのかもしれない。手ごたえを感じるんです」
肩の力も抜けた。二冊目のエッセーは一冊目ほど売れなかったが、「次がある」と切り替えられるようになった。今度は、男女の関係について書かれた英語の本を翻訳、出版した。つらい仕事の後、よく頑張ったね、と自分に「ご褒美」の高級車BMWを買ったこともある。
佐恵美さんの通うヨガ教室を訪ねた。
明るい光が差し込む部屋。健康そうな若い男女40人ほどが床に座って目を閉じ、呼吸を整えていた。合掌のポーズを取る佐恵美さんが肩を並べているのは、俳優仲間のマイケル・パークさん。9年来の親友という。
マイケルさんはレッスン後、彼女のほほに軽くキス。佐恵美さんは「またね」と笑顔を返す。家路につく佐恵美さんを見送ったマイケルさんは、大きな体をちょっとかがめて、こう話した。「サエミはね、以前はよく、朝に『私、いいことないの』と言って電話をかけてきた。『有名になりたい』『役がもらえないの』ってさ。ぼくは『そんな風に考えるのはやめなよ』と励ましたりしてた。今はリラックスして自由に楽しみながら、力を出している」
ヨガ教室を出ると、カリフォルニアの真っ青な空が広がっていた。ふと、私も高校時代の夢を思い出し、無性にあのコマーシャルの歌が聴きたくなった。レコード店に行ったがあの歌のCDはなかった。ただ、メロディーが頭を駆けめぐった。
(朝日新聞 日曜版編集部『この地球で私が生きる場所 海外で夢を追う女たち13人』
2002年9月24日平凡社発行、43-53頁より)。
9.11から一年後の2002年9月に発行されたこの本。本屋さんをウロウロしていた時、タイトルに惹かれて購入したと思います。海外で生きる13人の女性たち、ひとりひとりの物語に憧れを抱き、一気に読んだ記憶があります。ここに引用した中村さんは日本を飛び出して単身ハリウッドへ渡りました。
「OLから女優へ」の「OL」の前には、書いてなくても「平凡な、普通の」といった言葉が隠されているであろうことは言うまでもありません。読んだ当時自分は平凡なOLだと思っていた私は、自分もこのままではいけない、なにかしなければ・・・そんな思いにとりつかれ、憧れのような気持ちを抱きながら中村さんの物語を読んだと思います。20代の頃の私は、「夢」という言葉を追いかけていたようなところがありました。「夢」「本当の自分さがし」といった言葉は今も私の中でくすぐったい感じで響きます。
中村さんの物語を読んでから13年が過ぎました。9.11の後イラク戦争があり、日本は3.11の大震災と原発事故。一週間前にはパリでのテロ事件が大きく報道され、日本も、日本を取り巻く世界の状況も大きく変わりさらに混沌してきました。同時に自分は平凡なOLではなかったこともわかりました。かつては嫌悪感すら抱き、抜け出したとばっかり思っていた、「平凡な」「普通の」といった言葉がちがう響きをもって、私にささやきかけています。普通に暮らすことがむずかしくなってきた社会の中で、普通に暮らしていくことが実は一番むずかしいことなんだと思うようになったからです。
何歳までをOLというのか、そもそも就労形態が多様化し、特に女性の非正規雇用が増える一方の昨今OLという言葉が今も生きているのかよくわかりませんが、私が普通のOLに戻ることは、いくつもの意味でもうあり得ないだろうと思います。平凡に、普通に生きることが社会全体としてすごくむずかしくなっているのです。平凡なOLでいることは、組織体の中で自分の感情を押し殺して無色透明な人でいられること、あるいは無色透明な人の無理ができること。私にはもう到底無理なので、平凡なOLを続けることは私にはとってもむずかしいことになりました。そこに戻りたいと思っても、もう無理なんです。そんなことを考えながら中村さんの物語を振り返ってみると、13年前は「平凡な、普通な」はつまらないものだとささやきかけてきた物語もちがってみえてきます。今はだれにも必要とされない孤独に耐えかねて食べ吐きをしていたくだりにとても共感できます。私自身が今社会からの孤立という孤独感と日々闘っているからです。
『レ・ミゼラブル』の観劇日記で書いたことがあると思いますが、平凡なようでも波乱万丈でも、こうして一日一日を生きていくことこそが闘い。誰にも必ず終わりの時が訪れます。生計を維持しながら自分にとって本当に大切なものを見極めながら生きていくこと、明日人生の終わりが訪れた時にやり残したことがあると後悔しない生き方をしていくことは容易なことではありません。自分は今何をすべきなのか。何をして生きていきたいのか。そのひとつがやっぱりグリーフケアに関わること、あり得ないような苦労を重ねて合格した精神保健福祉士の資格を生かすこと。それが自分の役割なのではないかと、だれに必要とされているというわけでもありませんが思います。具体的にどこへ踏み出していけばいいのか。やっとまた気力を取り戻していった場所は本当に自分がやりたいことなのか。問いかけは続いています。あー、家賃が重い。NPOをやっている人たちはどうやってごはんを食べているのかとっても気になります。
フェイスブックをしばらく前に始めましたがやっぱり苦手。求めていない情報なのに、全然知らない人の名前が「友達になる」って毎回どんどん表示されて疲れちゃいます。オリジナルの文章を書くのもブログとずいぶん勝手が違います。ブログはこころのふるさとに帰って来たような感じです。長文を読んでいただき、ありがとうございました。
昨日の夕方左上の奥歯の神経を三本抜きました。麻酔をがんがん注射したうえに、口が小さくてあまり大きく開けられないのを一生懸命に開けていたので疲れました。さらに鎮痛剤を飲み続けているのにあまり効かなくって繰り返し飲んできているので胃がやられてしまって、昨夜はかなり辛い状態でした。夜食べたものをほとんどはいてしまいました。胃薬さえも受け付けない状態でしたが、たっぷり眠ったら復活しました。こんな時1人暮らしは不安です。疲労の蓄積はいつも歯に現れます。去年から続いている緊張感の疲れがでてきているような気がします。もう実家に引き揚げるか、もう少しがんばってみるか、選択をしなければいけない時に来ています。5月-6月にしばらく帰って休んでおけばよかったと思いますが、その時はその時で気になることがあったし、なんとか生活を立て直さなければと、疲弊しているのにがんばろうとしていたから仕方ないかな。商業施設はクリスマスとかってやっているけれど、今年はまだ終わりません。わたしまだやることがあるような気がします。それとも本当にもう立て直すの無理なのかなー。思い悩む日々なので書くことがやめられせん。また美しい写真と一緒にあれやこれや、書ければいいなと思います。今日はこれでおしまいです。
どうしたら自分に自信が持てるようになるのだろうか・・・。様々な分野で成功した人たちの苦労話を読みながら、そんな思いを巡らす時期がありました。そしてあるアメリカの役者のコメントを読み、演劇を学ぶことが自分を知り、精神的な成長に役立つかもしれない、とひらめき、アメリカの演劇学校へ通いたい気持ちが強くなっていったのです。
言葉も知らない国の演劇学校で、芝居のまね事をし、恥をかいて笑われながら自分をさらけ出し、見えとか虚栄心、偽善的な考え方や姿勢を徐々にそぎ落してゆきたい。自分にとってほんとうに大切なものと、それほど大切でないものを見極めるための価値観を持ちたい。そして、自分と正直に向かい合って生きていければうれしい。渡米を決意しました。
ロサンゼルスでは、英語の勉強や家探しなど無我夢中でした。アクティングクラスを探し、英語の芝居を読破し、舞台の上で英語をエクササイズ、カメラマンを選びヘッド・ショットを作るなど、目の前にハードルが並び、飛び越えるのに一生懸命でした。
ひとつハードルを越えるとまた次の小さな目標が目の前にあり、常に全力疾走していました。人と自分を比べたり、今の生活に満足しているかどうかなど考える余裕すらありませんでした。恥ずかしいと感じる暇もなく、思い返すと、ひたむきで真っすぐな私がいたんですね。
夢や情熱に駆り立てられ行動している人たちを見ていると、それだけで励みになります。物事のプロセスに身を投じて成長している人たちの笑顔はとびきり輝いて見え、彼らの流す涙は心の奥まで響いてきます。職業や学歴や肌の色に関係なく、真っすぐに自分の人生を歩き続ける人たちから勇気を分けてもらいながら、私もこれまで生活してくることができました。
9月11日のテロ後、多くの人々がそれまでと違った角度から物事を見たり、受けとめたりするようになりました。そして、生きることにはなんの保証も無いという事実を目の当たりにし、ほんとうに大切なことは何か、周りに踊らされやっていることはないか、やりたいと思いながらも引き延ばしてきたことはないか、と自分の価値観を見つめ直し始めました。そして、死ぬ間際に後悔しないように、普段から大切なものや愛するもの、本当に価値あるものに囲まれて生きたいと、考えるようになったのです。
こんな風に世が乱れている今、私たちひとりひとりが、生活を大切にしながら、さらに思いやりと感謝の気持ちをもって生きてゆくべきではないかと考えます。
夢をもった時、一歩は始まっている-平山亜理
夜のニューヨーク・マンハッタン。少女が街角でショーウインドーをのぞき込む。中には舞台衣装。少女は目を輝かせ、さっと両手を挙げポーズをとる。いつかダンサーとしてスポットライトを浴びる日を夢見て。
高校生の時、私(記者)が大好きだったソニーのCMだ。「オーバー・ナイト・サクセス」とテンポの速い曲が流れるたび、テレビの前に飛んでいった。
夢はかなう。そんなメッセージが込められているような気がした。小中高と演劇部員だった私は、いつかアメリカで舞台に立ってみたいなとあこがれた。
だれもが夢をみる。そして、その夢を心の隅に追いやり、いつの間にか忘れてしまう。「いつまでばかなことを言っているの」と、自分に言い聞かせて。
彼女もそんなOLだった。ある日、このままの生き方でいいのかな、と思うまではー。
光そそぎ込む店内、香ばしいコーヒーの香り
土曜日の昼下がりのハリウッド。「アクション!」という声が響く。
マリリン・モンローやジェームズ・ディーンらスターを描いた壁画の前で、ホラー映画の撮影中だった。厳しい表情の監督が、台本を片手にじっと二人を見つめていた。
撮影風景はこの街の一部だ。
壁画から近いウエスト・ハリウッドに中村佐恵美さんは住む。自宅近くの「アースカフェ」で待ち合わせた。光がふりそそぎ込む店内は、香ばしいコーヒーの香りで満ちていた。
軟らかそうな長い髪を揺らし、笑顔を佐恵美さんは現れた。小柄だが、大きなひとみと意志の強そうな唇が印象的だ。
窓際のカウンターでベルギーワッフルの朝食を食べながら、画用紙ほどの大きさの茶色い日記帳をつづるのが、佐恵美さんの日課だ。顔なじみのウエートレスが「ハーイ」と声をかけ、肩をたたいていく。
佐恵美さんが渡米して11年になる。もとはごく普通の女性だった。短大生の時、夏休みに滞在したアメリカのホームスティ先で「将来の夢は」と尋ねられ、「外資系の会社の秘書」と答え、「それがあなたの好きなこと?」と驚かれた。いいところにお勤めして、英語が話せたら恰好いいな、という位の感覚だった。同級生たちのように。
短大卒業後、大手不動産会社に4年勤めた。いい給料で有給休暇がとりやすい職場だったが、ある日プロポーズされたのを機に、どう生きたいのかを考えたくなった。
休暇を取って出かけたパリ。街角の広場の階段に座って行き交う人たちを眺めながら、考えた。もっとわがままに生きてもいいんじゃないか。
「何が好きなの」と佐恵美さんが自分自身に尋ねた時、ふと、高校生の時に見た映画「フラッシュダンス」やソニーのCMを見て、鳥肌が立ったのを思い出した。夢をもってひたむきに生きる主人公の姿は、輝いてまぶしかった。
「アメリカに行っちゃおうかな」。ふと頭をよぎった。踏み出そうとする自分と、「無理よ、そんな夢物語」と引き留める自分がいた。
家族と婚約者を説き伏せ、ハリウッドに来た。語学学校に通い演劇のクラスを受けながら、売り込んでくれる事務所を見つけ、CMや映画のオーデションを受け続けた。
ある日「プラトーン」のオリバー・ストーン監督が、アジア系の女性を探しているという雑誌の記事を見つけた。子役だった。オーデションはうまくいかなかった。
逃げるように会場を離れながら、「このまま帰ったら、一生後悔する」ともう一人の自分がささやいた。きびすを返し、もう一度と頼み込んで回してもらったカメラに、「あなたと仕事がしたくてアメリカまで来たんですよ。ミスター・オリバー・ストーン!」と笑いかけた。その熱意が買われ、小さい役ながらも子役とリポーター役を二役もらえた。
だが、外国でひとりで暮らす寂しさも募った。日本の婚約者と別れてさらにつらくなった。だれにも必要とされていないと感じ、心の穴を埋めようとアイスクリームやピラフを大量に口に運んでは、のどに指を突っ込み吐いた。みじめだった。
「死にたい」。友達が紹介してくれたグループセラピーに行った。自分の番になり、「日本から来ました」と言うと、涙がぼろぼろこぼれた。日本を離れてから、「助けて」と心が叫ぶのに、「もっと頑張らなきゃ」「弱音を吐いてはだめ」と自分をしかりつけていた。我慢してきたが堰を切った。
「話してくれてありがとう」と帰り際、電話番号を書いた名刺を数人が手渡してくれた。
ある日、「サエミの夢は何?」と、友達に聞かれた。
「苦労はしても、夢に向かって、一生懸命生きること」
「じゃあ、夢はかなったんだね」。女優になるために、頑張っている姿。そのこと自体が自分の夢だったことに気づいた。
夢がかなうまでの自分を書くようになった。二年後、「ハリウッド女優になったOL奮戦記』の題名で日本で出版された。
夢をもちながら、一歩を踏み出せない
反響に驚いた。300通近くの手紙が日本から届いた。多くは、20、30代の女性からだった。夢をもちながら、一歩を踏み出せない。そんな思いが、切々と書かれていた。
アメリカに留学し永住するのが夢だった28歳の主婦は、「私には勇気がなかった。先のことを考えすぎて何もできず、無理だと自分に言い聞かせていた」ときれいな字で書いてきた。
派遣社員の仕事に疑問をもち、過食症で悩む28歳の女性は「このまま何もしなかったら、きっと将来後悔する。心の声に耳をすまし、夢に向かって進みたい。勇気をありがとう」と丸文字を書いていた。
ハリウッドまで会いに来た女優志望の女性もいた。「きれいな人だから、成功して当り前ね」と、佐恵美さんの写真の表紙にひかれ本を手にした人が、いつしか自分の姿を重ねていた。
みんな迷っていた。夢と現実の折り合いをどうつければいいのか、探していた。
「女の子は結婚すればいい、と育てられてきた。でもある日、実は選択肢があることに気づき、がく然とする」と、佐恵美さんは手紙をながめた。
「でも、何とかしたいと思った時点で、すでに一歩踏み出している。私ってこういうことが好きだったんだと気づき、自分に興味をもってほしい」
今、佐恵美さんは日本舞踊を習い、ヨガで体を鍛える。演技のレッスンを受け、映画のオーディションを受ける。コーヒーのCMロケで南アフリカへ出かけたり、北海道に出かけたり、芝居やダンスを見て、時間をつくって本を読む。
「強く望めば、行きたいところに行けるのかもしれない。手ごたえを感じるんです」
肩の力も抜けた。二冊目のエッセーは一冊目ほど売れなかったが、「次がある」と切り替えられるようになった。今度は、男女の関係について書かれた英語の本を翻訳、出版した。つらい仕事の後、よく頑張ったね、と自分に「ご褒美」の高級車BMWを買ったこともある。
佐恵美さんの通うヨガ教室を訪ねた。
明るい光が差し込む部屋。健康そうな若い男女40人ほどが床に座って目を閉じ、呼吸を整えていた。合掌のポーズを取る佐恵美さんが肩を並べているのは、俳優仲間のマイケル・パークさん。9年来の親友という。
マイケルさんはレッスン後、彼女のほほに軽くキス。佐恵美さんは「またね」と笑顔を返す。家路につく佐恵美さんを見送ったマイケルさんは、大きな体をちょっとかがめて、こう話した。「サエミはね、以前はよく、朝に『私、いいことないの』と言って電話をかけてきた。『有名になりたい』『役がもらえないの』ってさ。ぼくは『そんな風に考えるのはやめなよ』と励ましたりしてた。今はリラックスして自由に楽しみながら、力を出している」
ヨガ教室を出ると、カリフォルニアの真っ青な空が広がっていた。ふと、私も高校時代の夢を思い出し、無性にあのコマーシャルの歌が聴きたくなった。レコード店に行ったがあの歌のCDはなかった。ただ、メロディーが頭を駆けめぐった。
(朝日新聞 日曜版編集部『この地球で私が生きる場所 海外で夢を追う女たち13人』
2002年9月24日平凡社発行、43-53頁より)。
9.11から一年後の2002年9月に発行されたこの本。本屋さんをウロウロしていた時、タイトルに惹かれて購入したと思います。海外で生きる13人の女性たち、ひとりひとりの物語に憧れを抱き、一気に読んだ記憶があります。ここに引用した中村さんは日本を飛び出して単身ハリウッドへ渡りました。
「OLから女優へ」の「OL」の前には、書いてなくても「平凡な、普通の」といった言葉が隠されているであろうことは言うまでもありません。読んだ当時自分は平凡なOLだと思っていた私は、自分もこのままではいけない、なにかしなければ・・・そんな思いにとりつかれ、憧れのような気持ちを抱きながら中村さんの物語を読んだと思います。20代の頃の私は、「夢」という言葉を追いかけていたようなところがありました。「夢」「本当の自分さがし」といった言葉は今も私の中でくすぐったい感じで響きます。
中村さんの物語を読んでから13年が過ぎました。9.11の後イラク戦争があり、日本は3.11の大震災と原発事故。一週間前にはパリでのテロ事件が大きく報道され、日本も、日本を取り巻く世界の状況も大きく変わりさらに混沌してきました。同時に自分は平凡なOLではなかったこともわかりました。かつては嫌悪感すら抱き、抜け出したとばっかり思っていた、「平凡な」「普通の」といった言葉がちがう響きをもって、私にささやきかけています。普通に暮らすことがむずかしくなってきた社会の中で、普通に暮らしていくことが実は一番むずかしいことなんだと思うようになったからです。
何歳までをOLというのか、そもそも就労形態が多様化し、特に女性の非正規雇用が増える一方の昨今OLという言葉が今も生きているのかよくわかりませんが、私が普通のOLに戻ることは、いくつもの意味でもうあり得ないだろうと思います。平凡に、普通に生きることが社会全体としてすごくむずかしくなっているのです。平凡なOLでいることは、組織体の中で自分の感情を押し殺して無色透明な人でいられること、あるいは無色透明な人の無理ができること。私にはもう到底無理なので、平凡なOLを続けることは私にはとってもむずかしいことになりました。そこに戻りたいと思っても、もう無理なんです。そんなことを考えながら中村さんの物語を振り返ってみると、13年前は「平凡な、普通な」はつまらないものだとささやきかけてきた物語もちがってみえてきます。今はだれにも必要とされない孤独に耐えかねて食べ吐きをしていたくだりにとても共感できます。私自身が今社会からの孤立という孤独感と日々闘っているからです。
『レ・ミゼラブル』の観劇日記で書いたことがあると思いますが、平凡なようでも波乱万丈でも、こうして一日一日を生きていくことこそが闘い。誰にも必ず終わりの時が訪れます。生計を維持しながら自分にとって本当に大切なものを見極めながら生きていくこと、明日人生の終わりが訪れた時にやり残したことがあると後悔しない生き方をしていくことは容易なことではありません。自分は今何をすべきなのか。何をして生きていきたいのか。そのひとつがやっぱりグリーフケアに関わること、あり得ないような苦労を重ねて合格した精神保健福祉士の資格を生かすこと。それが自分の役割なのではないかと、だれに必要とされているというわけでもありませんが思います。具体的にどこへ踏み出していけばいいのか。やっとまた気力を取り戻していった場所は本当に自分がやりたいことなのか。問いかけは続いています。あー、家賃が重い。NPOをやっている人たちはどうやってごはんを食べているのかとっても気になります。
フェイスブックをしばらく前に始めましたがやっぱり苦手。求めていない情報なのに、全然知らない人の名前が「友達になる」って毎回どんどん表示されて疲れちゃいます。オリジナルの文章を書くのもブログとずいぶん勝手が違います。ブログはこころのふるさとに帰って来たような感じです。長文を読んでいただき、ありがとうございました。
昨日の夕方左上の奥歯の神経を三本抜きました。麻酔をがんがん注射したうえに、口が小さくてあまり大きく開けられないのを一生懸命に開けていたので疲れました。さらに鎮痛剤を飲み続けているのにあまり効かなくって繰り返し飲んできているので胃がやられてしまって、昨夜はかなり辛い状態でした。夜食べたものをほとんどはいてしまいました。胃薬さえも受け付けない状態でしたが、たっぷり眠ったら復活しました。こんな時1人暮らしは不安です。疲労の蓄積はいつも歯に現れます。去年から続いている緊張感の疲れがでてきているような気がします。もう実家に引き揚げるか、もう少しがんばってみるか、選択をしなければいけない時に来ています。5月-6月にしばらく帰って休んでおけばよかったと思いますが、その時はその時で気になることがあったし、なんとか生活を立て直さなければと、疲弊しているのにがんばろうとしていたから仕方ないかな。商業施設はクリスマスとかってやっているけれど、今年はまだ終わりません。わたしまだやることがあるような気がします。それとも本当にもう立て直すの無理なのかなー。思い悩む日々なので書くことがやめられせん。また美しい写真と一緒にあれやこれや、書ければいいなと思います。今日はこれでおしまいです。
この地球で私が生きる場所――海外で夢を追う女たち13人 | |
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