「実際、悲惨な体験だった。
最初のうちこそ冗談半分、こんな立派な社屋にこんな美人の受付嬢を備えた大会社がよもや俺のような人間を採用してしまい、万に一つも採用されたらめっけものと分相応に割り切っているものの、二次、三次と面接のハードルを乗り越えていくごとに否応なく熱気を孕み、徒な期待を抱いてしまう。
不採用のショックと試験の段階は比例し、最終面接で落ちた時は再起不可能のなる。気力体力をすり減らした挙げ句、海より深い絶望にどーんと突き落とされる。
僕の友人で、大手出版社四社の試験を受け、全社ゴール寸前で落とされた男がいた。彼は社長に嫌われる男として恐れられた。廃人同然にはった彼は心身のリハビリのため、翌春、チベットへと旅立っていき、その後の消息を知る者はいない。
試験結果を待っている間の精神的重圧は並大抵でなく、当時は笑うに笑えない話をよく聞いた。(略)
布団の中に入って自分の将来を考えると、不安のあまり眠れないという友人がいた。これがたび重なって不眠症となり、彼は医者の診察を受けて、睡眠薬を処方してもらった。不採用通知の枚数が増えるごとに睡眠薬の量も増えていき、用量の何倍も飲み続けた結果、肝臓が壊れてしまった。
彼の話にはオチがついていて、ようやく一社で最終面接まで進めた。面接と同時に健康診断を受け、検尿でウルビリノーゲンが検出された。試験結果との因果関係は不明だが、その男は不合格になった。冗談のようだが、事実だ。涙を禁じ得なかった。
最も強烈な実話として覚えているのは、数日先に発表される試験結果が待ちきれず、居ても立ってもいられなくなった友人だ。彼は居ても立ってもいられなくなった末に、真夜中、家を飛び出し、その会社まで走っていった。彼の家は武蔵野市にあり、会社の所在は文京区だ。夜更けの街を15キロも走り通した彼は、会社の正門前に着くと、柏手を打ち、ご縁がありますようにと五円玉の賽銭を投げ、また走って帰ってきたという。
正常な人間の行動とは思えないが、人の頭をおかしくするのが就職活動だった。
(略)
正気を疑われる奇行さえしなかったが、僕も決して心安らかに眠れたわけではなかった。性懲りもなく落ち続けた。恨みに思うなというほうが無理だった。
(略)
就職活動の精神的重圧がひどくなる原因に周囲の人間の期待がある。
十数年にわたり、さんざん教育費をかけてきた総決算として親は子供の就職を位置づけている。いい中学に入れたのはいい高校に入れるためだったし、いい高校に入れたのはいい大学に入れるため、いい大学に入れたのは、疑う余地なく、我が子をいい会社に入れるためなのだ。就職は双六の上がりだ。
僕の両親は良くできた人なので、子供に過剰な期待を抱かず、どうか人様に迷惑だけはかけてくれるな、という教育方針だった。親戚に「うちの長男は三歳の時に流行り病で死んだと思っている」と話していたくらいだから、家庭内のプレッシャーはなかった。
その代わり、当時付き合っていたガールフレンドが僕の焦りを焚きつけた。
(略)
マスコミに比べれば、彼女の希望する類の大企業は採用人数が圧倒的に多く、まだしも紛れ込める可能性は高かったが、既に秋になり、軒並み試験は終わっていた。軌道修正は効かなくなっていた。
結局、僕の就職戦線は全滅だった。もはや薄ら笑いも浮かべられなくなり、仏頂面をして、過酷な運命に白旗を上げた。
大学を出ても行く所がない。こんなことなら、頑張って卒業見込みを出すんじゃなかった、と恨めしく考えた。
就職課に求人が出ていないわけではなかったが、業務内容や給料を考えると(当然のことだ)、二の足を踏んだ。大手出版社がなくなった時点で僕はスーツを選択に出し、箪笥の奥にしまいこんだ。
仕方ないから、取り敢えずアルバイトで生活し、来年の夏を待ってもう一度戦線に復帰しようというのが当面の生活設計になった。ガールフレンドは呆れ果てて去っていった。
季節は初冬、吹く風がことのほか肌に寒かった。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、105-109頁より)。
最初のうちこそ冗談半分、こんな立派な社屋にこんな美人の受付嬢を備えた大会社がよもや俺のような人間を採用してしまい、万に一つも採用されたらめっけものと分相応に割り切っているものの、二次、三次と面接のハードルを乗り越えていくごとに否応なく熱気を孕み、徒な期待を抱いてしまう。
不採用のショックと試験の段階は比例し、最終面接で落ちた時は再起不可能のなる。気力体力をすり減らした挙げ句、海より深い絶望にどーんと突き落とされる。
僕の友人で、大手出版社四社の試験を受け、全社ゴール寸前で落とされた男がいた。彼は社長に嫌われる男として恐れられた。廃人同然にはった彼は心身のリハビリのため、翌春、チベットへと旅立っていき、その後の消息を知る者はいない。
試験結果を待っている間の精神的重圧は並大抵でなく、当時は笑うに笑えない話をよく聞いた。(略)
布団の中に入って自分の将来を考えると、不安のあまり眠れないという友人がいた。これがたび重なって不眠症となり、彼は医者の診察を受けて、睡眠薬を処方してもらった。不採用通知の枚数が増えるごとに睡眠薬の量も増えていき、用量の何倍も飲み続けた結果、肝臓が壊れてしまった。
彼の話にはオチがついていて、ようやく一社で最終面接まで進めた。面接と同時に健康診断を受け、検尿でウルビリノーゲンが検出された。試験結果との因果関係は不明だが、その男は不合格になった。冗談のようだが、事実だ。涙を禁じ得なかった。
最も強烈な実話として覚えているのは、数日先に発表される試験結果が待ちきれず、居ても立ってもいられなくなった友人だ。彼は居ても立ってもいられなくなった末に、真夜中、家を飛び出し、その会社まで走っていった。彼の家は武蔵野市にあり、会社の所在は文京区だ。夜更けの街を15キロも走り通した彼は、会社の正門前に着くと、柏手を打ち、ご縁がありますようにと五円玉の賽銭を投げ、また走って帰ってきたという。
正常な人間の行動とは思えないが、人の頭をおかしくするのが就職活動だった。
(略)
正気を疑われる奇行さえしなかったが、僕も決して心安らかに眠れたわけではなかった。性懲りもなく落ち続けた。恨みに思うなというほうが無理だった。
(略)
就職活動の精神的重圧がひどくなる原因に周囲の人間の期待がある。
十数年にわたり、さんざん教育費をかけてきた総決算として親は子供の就職を位置づけている。いい中学に入れたのはいい高校に入れるためだったし、いい高校に入れたのはいい大学に入れるため、いい大学に入れたのは、疑う余地なく、我が子をいい会社に入れるためなのだ。就職は双六の上がりだ。
僕の両親は良くできた人なので、子供に過剰な期待を抱かず、どうか人様に迷惑だけはかけてくれるな、という教育方針だった。親戚に「うちの長男は三歳の時に流行り病で死んだと思っている」と話していたくらいだから、家庭内のプレッシャーはなかった。
その代わり、当時付き合っていたガールフレンドが僕の焦りを焚きつけた。
(略)
マスコミに比べれば、彼女の希望する類の大企業は採用人数が圧倒的に多く、まだしも紛れ込める可能性は高かったが、既に秋になり、軒並み試験は終わっていた。軌道修正は効かなくなっていた。
結局、僕の就職戦線は全滅だった。もはや薄ら笑いも浮かべられなくなり、仏頂面をして、過酷な運命に白旗を上げた。
大学を出ても行く所がない。こんなことなら、頑張って卒業見込みを出すんじゃなかった、と恨めしく考えた。
就職課に求人が出ていないわけではなかったが、業務内容や給料を考えると(当然のことだ)、二の足を踏んだ。大手出版社がなくなった時点で僕はスーツを選択に出し、箪笥の奥にしまいこんだ。
仕方ないから、取り敢えずアルバイトで生活し、来年の夏を待ってもう一度戦線に復帰しようというのが当面の生活設計になった。ガールフレンドは呆れ果てて去っていった。
季節は初冬、吹く風がことのほか肌に寒かった。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、105-109頁より)。
就職・就社の構造 (日本会社原論 4) | |
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