「はじめに会社への入口と出口がつながっていると言ったが、その間の会社の中での経歴のあり方ももちろんつながっている。そこで大きな特色になっているのがゼネラリストとしてさまざまな職種を経験し、その間に一段ずつ出世していくという昇進の仕方である。多くの日本の大企業ではそういう経歴をたどって出世し、やがて定年退職するというのがたてまえになっている
そこで新入社員を人事部が一括採用したあと、かなりの期間をかけて社員教育を行って、その後に各職場に配置する。(略)新入社員を白地のまま、会社人間に適したように教育するのが新入社員教育のあり方とされている。
日本の会社には社是や社訓があるのが普通だが、そこで強調されるのは社風ということである。新入社員を早くその会社の社風に慣らせることが必要だが、いうまでもなく社風は会社ごとに違うから、こうした教育によって、会社人間はその会社にしか通用しない人間になっていく。そのかわり社内のいろんな職場を経験させて、ゼネラリストになっていく。ここでゼネラリストというのは、どんな会社にでも通用するゼネラリストという意味ではなく、その会社の内部だけのゼネラリストである。
ゼネラリストとしての会社人間は転勤をくり返すことで出世するが、やがてその会社でしか通用しない人間になっていく。そこで人材斡旋会社で「あなたは何ができますか」と聞かれて、「部長ならできます」と答えたという笑い話が生まれる。いうなれば社内の地位は高いが、手に職のない人間ができていく。
もうひとつ日本の大企業で強調されるのは規律を守るということだが、これは会社の組織を守るためであると同時に、大量生産、大量販売に適した人間を作るためである。大量生産、大量販売は総じて20世紀の大企業システムの原理になっているが、日本ではとりわけ高度経済成長期以後これが徹底していた。そこで強調されたのが規律を守るということであり、その結果画一化された会社人間が生まれてくる。
このようなゼネラリストに適した会社人間、そして大量生産、大量販売に適した画一化された人間、そういう人材が日本型就職システムによって採用され、教育されていく。
(略)
日本の大企業が全国一斉、人事部一括採用をしかも大量に行うようになったのは昭和30年代からのことである。(略)なによりも大学卒の大量採用は高度経済成長時代になってからであり、それは私の言う法人資本主義が確立した頃とほぼ同時期である。
日本経済の高度成長とともに若年労働力が不足し、当初は中学卒の不足が問題になったが、やがて高校卒、そしてさらに大学卒にまでそれは及んでいった。1970年代の石油危機のあと、日本の大会社は「減量経営」につとめ、新規採用人数も一時的に減らしたが、80年代になると、大量採用を復活し、会社間での採用競争が激しくなった。
80年代の大量採用競争の中でそれまでの買い手市場から売り手市場に変わったと言われた。一方でのバブル経済、他方での労働力不足にせまられて大会社は一斉に新規採用競争に走り、とりわけ金融、証券、サービス分野などの大会社がその競争を激化させていった。
こうして一斉、一括、大量採用はますます激化していったが、一方で新規採用した者が短期間で転職するという傾向が強まり「第二新卒」という言葉が流行するようになった。それまで会社についての十分な知識もなく、どんな仕事をするのかも分らないまま就職した若者が、会社にはいったとたん失望し、選択を間違っていたと転職するのはある意味では当然のことであった。そして労働力不足によって転職市場が開かれたことがこういう傾向をさらに強めた。ここで会社側は一斉、一括、大量採用という日本型就職=採用システムを強化することで、逆にこのシステムは裂け目をみせはじめたのである。
こうして日本型就職システムが裂け目をみせはじめた80年代からやがて90年代に入るとともに平成不況が押し寄せてきた。
そこでまず起こったことは新規採用のストップ、あるいは大幅減少であった。(略)
こうして90年代に入って大学生の就職戦線は一挙にきびしくなり、就職難が大きな社会問題になってきた。もちろんこれは不況によって企業が採用人数を減らしたためだが、しかし同時に構造的な変化が起り、日本型就職システムが続けられなくなったためでもある。
構造変化はまず出口=退職のところにあらわれた。終身雇用が崩れはじめたのである。(略)90年代の不況が進行するなかで、かなりの大会社がホワイトカラー、しかも中間管理職層を対象に早期退職を勧め、出向や系列会社への派遣という形で事実上の首切りをやりはじめた。
こうして出口が変われば入り口も変わらざるを得ない。従来のような一斉、一括、大量採用、そしてゼネラリスト養成というやり方を反省せざるをえなくなった。
(略)
さらに企業経営者、あるいは人事担当者がこれまでのようなゼネラリストはいらないと言いだした。というのも大量生産、大量販売というやり方が行き詰まってきたからである。大量生産、大量販売方式にはゼネラリストが必要であり、画一的な人材が適していたが、もはやそういう時代ではなくなった。「これからはスペシャリストが必要だ」と言いだしたのである。
こうなるとこれまでの日本型就職システムは揺らいでくる。スペシャリストを採るには人事部一括採用では駄目である。独創的な人間はこれまでのやり方では集まらない。
(略)管理職がこれまで肥大化していたのが日本の大会社の特色だが、今後それは縮小されていくだろう。とすれば管理職のための従来型の日本型就職システムはもはや主流ではありえなくなる。
こうして、法人資本主義のもとで会社本位主義の原理によって行われた日本型就職システムはいま崩壊しようとしている。偶然によって「天職」を選ぶという、人間にとってはあまり幸せでないこのようなやり方が崩れることは歓迎すべきことではあるが、その転換のためには犠牲が伴うことも否定できない 最後に、これまでの日本型就職システムで果たした大学の機能は、ただひとつ選別機能だけだったとすれば、それはさびしいことだが、今後このシステムが崩れるとあらためて大学のあり方が問われるだろう。大学とは何をするとことなのか、ということが問われているが、これは18歳人口の減少という大学の経営危機以上に大きな問題である。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、38-44頁より引用)。
高度経済成長期が日本人にとってなんだったのか、考えるべき時にきていると思います。残念ながら大きな組織の意思決定権をもつ男性たちはとっくに死んでいるはずの高度経済成長期の幻影を今も追いかけていると思わざるを得ません。大会社が生き残っていくために一生懸命に働いてきた人が犠牲になっています。年に一度の株主総会が開かれる日の朝は、人事・総務部が赤い絨毯を引き、三台あるうちの1台エレベーターをとめて株主たちを丁重に迎え入れていました。その光景をみるたびに株主への利益還元のために自分は二人分働らかなければならないのかという言葉に言いようのないストレスを感じたことが今も鮮やかによみがえってきます。会社は誰のものなのでしょうか。そんな疑問を抱かざるを得ません。私なりの社会への問いかけが続いています。
そこで新入社員を人事部が一括採用したあと、かなりの期間をかけて社員教育を行って、その後に各職場に配置する。(略)新入社員を白地のまま、会社人間に適したように教育するのが新入社員教育のあり方とされている。
日本の会社には社是や社訓があるのが普通だが、そこで強調されるのは社風ということである。新入社員を早くその会社の社風に慣らせることが必要だが、いうまでもなく社風は会社ごとに違うから、こうした教育によって、会社人間はその会社にしか通用しない人間になっていく。そのかわり社内のいろんな職場を経験させて、ゼネラリストになっていく。ここでゼネラリストというのは、どんな会社にでも通用するゼネラリストという意味ではなく、その会社の内部だけのゼネラリストである。
ゼネラリストとしての会社人間は転勤をくり返すことで出世するが、やがてその会社でしか通用しない人間になっていく。そこで人材斡旋会社で「あなたは何ができますか」と聞かれて、「部長ならできます」と答えたという笑い話が生まれる。いうなれば社内の地位は高いが、手に職のない人間ができていく。
もうひとつ日本の大企業で強調されるのは規律を守るということだが、これは会社の組織を守るためであると同時に、大量生産、大量販売に適した人間を作るためである。大量生産、大量販売は総じて20世紀の大企業システムの原理になっているが、日本ではとりわけ高度経済成長期以後これが徹底していた。そこで強調されたのが規律を守るということであり、その結果画一化された会社人間が生まれてくる。
このようなゼネラリストに適した会社人間、そして大量生産、大量販売に適した画一化された人間、そういう人材が日本型就職システムによって採用され、教育されていく。
(略)
日本の大企業が全国一斉、人事部一括採用をしかも大量に行うようになったのは昭和30年代からのことである。(略)なによりも大学卒の大量採用は高度経済成長時代になってからであり、それは私の言う法人資本主義が確立した頃とほぼ同時期である。
日本経済の高度成長とともに若年労働力が不足し、当初は中学卒の不足が問題になったが、やがて高校卒、そしてさらに大学卒にまでそれは及んでいった。1970年代の石油危機のあと、日本の大会社は「減量経営」につとめ、新規採用人数も一時的に減らしたが、80年代になると、大量採用を復活し、会社間での採用競争が激しくなった。
80年代の大量採用競争の中でそれまでの買い手市場から売り手市場に変わったと言われた。一方でのバブル経済、他方での労働力不足にせまられて大会社は一斉に新規採用競争に走り、とりわけ金融、証券、サービス分野などの大会社がその競争を激化させていった。
こうして一斉、一括、大量採用はますます激化していったが、一方で新規採用した者が短期間で転職するという傾向が強まり「第二新卒」という言葉が流行するようになった。それまで会社についての十分な知識もなく、どんな仕事をするのかも分らないまま就職した若者が、会社にはいったとたん失望し、選択を間違っていたと転職するのはある意味では当然のことであった。そして労働力不足によって転職市場が開かれたことがこういう傾向をさらに強めた。ここで会社側は一斉、一括、大量採用という日本型就職=採用システムを強化することで、逆にこのシステムは裂け目をみせはじめたのである。
こうして日本型就職システムが裂け目をみせはじめた80年代からやがて90年代に入るとともに平成不況が押し寄せてきた。
そこでまず起こったことは新規採用のストップ、あるいは大幅減少であった。(略)
こうして90年代に入って大学生の就職戦線は一挙にきびしくなり、就職難が大きな社会問題になってきた。もちろんこれは不況によって企業が採用人数を減らしたためだが、しかし同時に構造的な変化が起り、日本型就職システムが続けられなくなったためでもある。
構造変化はまず出口=退職のところにあらわれた。終身雇用が崩れはじめたのである。(略)90年代の不況が進行するなかで、かなりの大会社がホワイトカラー、しかも中間管理職層を対象に早期退職を勧め、出向や系列会社への派遣という形で事実上の首切りをやりはじめた。
こうして出口が変われば入り口も変わらざるを得ない。従来のような一斉、一括、大量採用、そしてゼネラリスト養成というやり方を反省せざるをえなくなった。
(略)
さらに企業経営者、あるいは人事担当者がこれまでのようなゼネラリストはいらないと言いだした。というのも大量生産、大量販売というやり方が行き詰まってきたからである。大量生産、大量販売方式にはゼネラリストが必要であり、画一的な人材が適していたが、もはやそういう時代ではなくなった。「これからはスペシャリストが必要だ」と言いだしたのである。
こうなるとこれまでの日本型就職システムは揺らいでくる。スペシャリストを採るには人事部一括採用では駄目である。独創的な人間はこれまでのやり方では集まらない。
(略)管理職がこれまで肥大化していたのが日本の大会社の特色だが、今後それは縮小されていくだろう。とすれば管理職のための従来型の日本型就職システムはもはや主流ではありえなくなる。
こうして、法人資本主義のもとで会社本位主義の原理によって行われた日本型就職システムはいま崩壊しようとしている。偶然によって「天職」を選ぶという、人間にとってはあまり幸せでないこのようなやり方が崩れることは歓迎すべきことではあるが、その転換のためには犠牲が伴うことも否定できない 最後に、これまでの日本型就職システムで果たした大学の機能は、ただひとつ選別機能だけだったとすれば、それはさびしいことだが、今後このシステムが崩れるとあらためて大学のあり方が問われるだろう。大学とは何をするとことなのか、ということが問われているが、これは18歳人口の減少という大学の経営危機以上に大きな問題である。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、38-44頁より引用)。
高度経済成長期が日本人にとってなんだったのか、考えるべき時にきていると思います。残念ながら大きな組織の意思決定権をもつ男性たちはとっくに死んでいるはずの高度経済成長期の幻影を今も追いかけていると思わざるを得ません。大会社が生き残っていくために一生懸命に働いてきた人が犠牲になっています。年に一度の株主総会が開かれる日の朝は、人事・総務部が赤い絨毯を引き、三台あるうちの1台エレベーターをとめて株主たちを丁重に迎え入れていました。その光景をみるたびに株主への利益還元のために自分は二人分働らかなければならないのかという言葉に言いようのないストレスを感じたことが今も鮮やかによみがえってきます。会社は誰のものなのでしょうか。そんな疑問を抱かざるを得ません。私なりの社会への問いかけが続いています。
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