たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

梅雨空の下で・・・

2014年07月18日 21時59分52秒 | 祈り
自死遺族の会に参加させていただきました。
自分の体験を語っていくことは、社会の中で必要とされていることなんだとあらためて感じました。
いろんな方がいらっしゃいます。
それぞれに事情が違います。状況も違います。
私が誰かと同じになって同じ気持ちを体験することはできません。
ただお話をきかせていただくことしかできません。

お話をきかせていただくと21年前のことが自分の中でリアルに思い起こされるきつさがあります。大きく心の中が揺れ動きます。
なんで死んだりしたんだと妹を責めたくなってしまう気持ち、
なんで話をきいてやろうとしなかったんだと自分を責める気持ち、
不憫なことをしてしまったという気持ち、悔しいという気持ち、
後悔し始めれば切りがなく、いろんな思いがあらためて交錯します。

直後は自分が生きているのか死んでいるのかよくわからなかった。
電車に乗って坐っていても涙がこぼれてくる、アルバイト先で入力したデータを
付け合わせるために下を向いていると涙がこぼれてくる。
そんな日々を思い出してしまいます。
自分の家族がどうしてこうなったのか、考え始めるとグチャグチャになります。
なんども同じことを書いていると思いますが、どうして?の答えがどこかにあるはずだと思って探し続けたけれど、答えはどこにもありませんでした。どこにもないということを引き受けながら生きていかなければなりません。

藁にすがる思いでカウセリングルームの扉を開けたとき、Y先生はよくいらっしゃいましたねと迎えてくださいました。50分間の面接の間、とめどなく涙を流しながら一生懸命に自分のことを語る私をY先生がうけとめてくださった、私の生きる力を信じてくださったことで私は救われました。

こうして今ブログを書くことであらためて自分と向き合いながら前に進んでいこうとしています。私が外に向かって語っていくことで妹の30年の人生にもちゃんと意味があったんだと、私自身が納得したい。これからも共に生きていきます。

今の混乱に区切りがついたら、大きな組織とは全く違うところで、私の力を必要としてくれる場所があればそこで生きていきたいと思います。妹の分まで生きるという大切な役割があることを忘れなければきっと大丈夫、進みべき道にきっと妹が導いてくれる、守ってくれる、そう信じて今は進んでいくしかありません。
30年で自ら人生にピリオドを打ってしまった妹の生きていた証を私が一生懸命に生きることで残したいです。
生きていくことは試行錯誤の連続、大変だけれどひたむきに自分の感性を信じて、これからも歩いていこうと思います。

20年前の私も一般的にみればかなり情けない状況でしたが、振り返ってみれば、やり直したいと必死でした。かなりきつかったと思います。よくやっていました。

「1995年7月16日(日)

外の梅雨空は、まだすっきりと晴れず、わたしの心もまだBlueのまま。
夜、ぐっすり眠れないものだから、さっきまたぐっすりと昼寝、まだぼうっとしていて、
かくして休日はあっという間に終わる。
早く夏休み旅行をしたいなあと思う。黒姫高原にいきたいけど、でもまだなんにもかんがえてない。
ほんとはもう今すぐやめてしまいたい、なんて思うけど、ただ逃げ出すみたいだし、かといってやめることを前提にいるなんて、キツイなあ。
やっぱり向いてないんだろね。この通りの字だし、もうすっかり自信を失っている。
くよくよ考えて落ち込んでも仕方ないけどね。
あまりつまらないことを気にするのはやめようと思うけど、なかなかできそうにない。
昨日、二度目の『回転木馬』をみたけど、リフレッシュになっていないかな。
まだ二幕目で泣いているうちに終わってしまった。
天国の入り口から、また地上に舞い戻ることを一日だけ許されて、我が子と妻にエールを送る姿にMちゃんのことを重ね合わせてしまうのだ。ジュリーにはビリーの姿がみえていないのに、ジュリーにはちゃんとわかっている、ビリーがそばにいるってことーこのポーチでのシーンがいちばん好きだ。9月の千秋楽の前にもう一度みたいなあ。
好きなミュージカルを楽しむためには、働かねばならないか。
役者さんの芝居もノッてきている。
また、近いうちにジュリーとビリーに会いたい。」

1995年のミュージカル『回転木馬』でジュリーを演じた涼風真世さん、ビリーを演じた石川禅さんは、今年5月-6月に帝劇で上演された『レディ・ベス』で素晴らしいパフォーマンスを魅せてくださり、感慨深いものがありました。またあらためて書ければと思います。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。













いつの間にか笑顔・・・

2014年07月17日 22時50分23秒 | 日記
梅雨のような、梅雨でないようなはっきりとしない天気が続いていて,
相変わらずすっきりしません。
ここ数日ドカッと暑くなっていますが、今年も今のところ、
ノーエアコン、ノー扇風機で過ごしています。

今日も暑い中、がんばって都心に出かけて行きました。
震災以来都心に出る時はいつも一抹の恐怖心や不安感と背中あわせですが、
大事なことは都心であることが多いので、必要な時出られるように練習も兼ねて自然と人が集まる場所に行ってきました。そして、いつの間にか、「こんにちは」と笑顔で挨拶している自分に気がつきました。
長い間閉塞感と息苦しさの中で、何かおかしいなと思いながら過ごしているうちに、笑顔を忘れていました。
鎧をまとって歯を食いしばりながら必死でがんばっているうちに、素直に「こんにちは」を言えなくなっていました。

共通の目的意識があるわけではない、なんとなくそこに集う人たちに「こんにちは」と迎えられるうちに、ひきつり続けてきた心が解けてきていました。そんな場所があることを心からありがたく思います。

今の成り行きについていくのが大変で頭の中はかなり疲れています。
折れそうになる私を、少しずつ励ましてくれたり、お勤めがあって忙しいのにメールの返信をくれたり、話を聞いてくれる人がいたり、たくさんの人の支えがあってここまでくることができていると思います。心から感謝です。

ゴールはまだ見えません。いつ見えてくるのかも今のところわかりません。
ひとつひとつ進んでいくたびに自分の気持ちと向き合い整理して精算へと向かっていく、
このプロセスは今まで経験したことのないことの連続で、緊張感を強いられ、仕事をしていた時よりも大変な感もあります。
争いとなると勝敗がつかないと終わらない、気がついたらそうなっていて、自分が望んでいなくても争いごとにならざるを得ないものと理解するしかありません。
かなりのエネルギーを消耗しているし、何を信じていいのかわからなくなってしまうこともたびたびありますが、ここまできたので折れずに少しずつ進んでいきます。
今は自分がどこからも、誰からも必要とされていないように感じてしまうこともありますが、そんなことはないはずですね。
まずは気持ちに区切りをつけて精算すること、その先にきっとまた新しい道もみえてくると信じたいと思います。

どんよりとしたお天気の日、プリンス・エドワード島の緑は心を休ませてくれます。

オーウエル・コーナー歴史村での一枚です。

20年前の自分を振り返りたかったのですが、おそくなってしまったのでまた後日あらためます。






秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(10)

2014年07月16日 22時35分32秒 | プリンスエドワード島への旅
橙色の陽が沈んでいこうとしています。
でもほんとうにゆっくり、ゆっくりで、沈み始めてからも長い間残照が輝いています。

ここまで行かないとこの風景を楽しむことはできないので、また行きたいですね。

きっとまた行ける日もくると信じて、今はまだ辛抱の時を過ごし続けています。






ロンドン『オペラ座の怪人』

2014年07月15日 16時21分16秒 | イギリスへの旅
1992年5月のイギリスへの旅日記を振り返ってみると、5月14日にロンドンの劇場で『オペラ座の怪人』を観ています。朝一番で当日券を購入し、日中はピカデリーサーカスをウロウロしたあと、公園でぼんやりとした時間を過ごし、夜観劇したと記録しています。15.5£でした。舞台に一番近い席に正装した紳士・淑女の姿をみかけて、さすがロンドンだと思った記憶があります。私の席は一番安いところで、目の前に大きな柱がありました。シャンデリアが降りてくる場面は迫力があったと思います。


イギリスへ行く前に予習として劇団四季の『オペラ座の怪人』を観劇しましたが、正直あまり覚えていないので、どんな話だったのか、原作と舞台化についてインターネットで調べてみました。

アンドリュー・ロイド=ウェバー氏による舞台化
 原作者はフランスの推理小説家・ガストン・ルルー(1868~1927)。『オペラ座の怪人』は1910年に「怪奇ロマン」として刊行されました。1925年にロン・チャニーが主演した「無声映画」以来半世紀に渡り、ファントムの「醜さ」や「怪奇ぶり」が印象的な映画化とテレビ放映が続きます。1943年に公開され、第16回アカデミー賞を2部門受賞した映画『オペラの怪人』は、ファントムをクリスティーヌの「実の父親」と設定するなど、原作とはかなりかけ離れた内容になっています。
 
 そんなこれまでの作風とは一線を画し、『オペラ座の怪人』を「究極のラブストーリー」として世界的に大ヒットさせたのが、「現代のモーツアルト」とも称される作曲家、アンドリュー・ロイド=ウェバー氏です。「ブックフェアで50セントだった」と後に話されている「原作本」との出会い。その後2年をかけて自ら手がけた美しい曲は全て、当時の奥様であり、有能な歌手でもあったサラ・ブライトマンさんの為に書き上げられたとも言われています。若手からベテランまで、多彩なスタッフの起用によって誕生したミュージカル『オペラ座の怪人』は、1986年10月にロンドンで開幕しました。「クリスティーヌ」にはサラ・ブライトマンさん、「怪人」には当時喜劇俳優として人気のあったマイケル・クロフォードさんがオリジナルキャストとして抜擢。今でも伝説となっている魅力的なキャストに加え、観客が一瞬も目を離すことが出来ない「ドラマティックな展開」と「大掛かりな舞台芸術」は高く評価され、名曲の数々もまた世界的な大ヒットとなりました。

宝塚歌劇団で上演された『ファントム』のプログラムからも引用してみます。

「宝塚歌劇団が『ファントム』を上演するときいて、アンドリュー・ロイド=ウエーバー版『オペラ座の怪人』を頭に思い浮かべるのは、おそらく筆者だけではないだろう。原作は、両作品ともフランスの小説家ガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」である。1911年に出版されたこの怪奇小説は、1925年にロン・チャニー主演の映画化によって世界的な名声を博した。その後も、映画、テレビ、ミュージカルと数多くの作品がつくられている。」

 
アナウンサーのひとりごと 藤川奈々さんのブログから転用させていただきます。


【オペラ座の怪人あらすじ】

19世紀末のパリ、オペラ座の若手女優クリスティーヌは、自分の楽屋の裏から聞こえる『天使の声』の指導で歌唱力を付け頭角を現すが、オペラ座には謎の怪人が住み着いていた。


クリスティーヌの恋人ラウル子爵は天使の声の主に嫉妬し謎を解こうとするが、その主こそ『怪人』であり、オペラ座の地下に広がる広大な水路の空間に住み着いた男エリックであった。


エリックは生来の醜悪な人相に壊死した皮膚を持つ、見るもおぞましい異形の男であったが、クリスティーヌに恋をしていた。


エリックは遂にクリスティーヌをさらってオペラ座の地下深く消え、残されたラウルは警察とクリスティーヌを追ってオペラ座の地下へ潜入しエリックを捕らえる・・・



1992年日生劇場の劇団四季のキャストをインターネットで調べてみました。

1992年1月17日~4月13日:日生劇場   

ファントム   山口祐一郎・沢木順・芥川英司・青山明
クリスティーヌ 鈴木京子・花岡久子・中澤孝子
ラウル     佐野正幸・石丸幹二・岡幸次郎
カルロッタ   金井小夜子・斉藤和代・横山幸江
メグ・ジリー  青山弥生・秋本みな子
マダム・ジリー 西島美子・柴垣裕子・横山幸江
ピアンジ    蔵田雅之・石井健


山口祐一郎さん、石丸幹二さんを観たのかもしれませんが、その頃は舞台を観る目も全くもっておらず、
残念なことに何も覚えていません。

2014年3月ー4月に日生劇場で上演された『ラブ・ネバー・ダイ』は、『オペラ座の怪人』から十年後という設定でした。


ロンドン『オペラ座の怪人』のプログラムの表紙です。



キャスト一覧表




ファントム役の俳優さん




クリスティーヌ役の女優さん




ラウル役の俳優さん




アンドリュー・ロイド=ウエーバーさん


落ち着かない

2014年07月15日 08時17分22秒 | 日記
はっきりしない空模様が続いておりなんとなく落ち着きません。

次の山場に向けて書類を作成したり、何度も打ち合わせに行かなければならなかったり、
何も新しく始めることもできず、緊張感を強いられる日が続いています。
生活のリズムも定まらず、色んな意味で落ち着きません。
心が折れそうになりますが、ここまで辛抱してきたのでふんばるしかありません。

ミュージカルのことがなかなか書けないでいますが、『ラブネバーダイ』と『レディベス』のことを近いうちに書きたいと思っています。

空に届くように・・・

2014年07月13日 15時23分10秒 | 祈り
昨日読み返していた本の中にこんな文章がありました。

「親がその子のために与えることのできる最上の贈り物は、安心感と自己肯定感である。
この二つを授けられた子どもは、多少の逆境に出会おうと、方法を模索しながら、わが道を
切り開いていく。苦しい状況に置かれても、自分を追い詰め過ぎず、希望を持ち、一歩一歩進んでいける。少々生き方が不器用だろうと、世渡りが下手だろうと、自分を信じ、自分が進んでいる道を肯定することができれば、やがてその人は、自分にふさわしい生き方にたどりつく。不器用で飾り気のない純粋さゆえに、その価値はいったん認められれば、揺らぐことはない。」


(岡田尊司著『アスペルガー症候群』幻冬舎新書、2009年発行、167-168頁より)


母に急性期の最初の症状が出る前に言った「私は子育てをまちがえた」という言葉を今も忘れることができません。

今私がこうしてどうにかこうにか自分の足で立つことができているのは、母が一生懸命に育ててくれたからだと思います。妹のことに答えはないけれど、私が今生きている。だから、そんなことないんだよ、と伝えたいです。人生の終わりの方の25年ぐらいを病気で過ごした母の人生にもちゃんと意味はある。そう私自身が納得したいです。

友人の中には、お勤めしながら子どもを育ててきて毎月十万円ぐらいの家賃や学費を払い続けている女性がいます。自宅とオフィスの両方で、二十万円ぐらいの家賃を払い続けている女性もいます。私にはそこまでの力はありませんが、こうして家賃を払い続けながら暮らしています。当たり前のことのようですが大変なことです。
これからどこに進めばいいのかわからないし、このまま暮らし続けていけるのか不安ですが、
自分の感性を信じて歩み続けます。
ヘンなふうに頭を使わなければならない作業はまだ続くので負荷がかかっていますがふんばります。

昨日サイエンスカフェに行って、クマムシの話をききました。
地球の生命って深いんだなってあらためて思いましたが、ミュージカルのことなども書きたいので、もう少し先にきちんと書ければと思います。

ブログへの訪問、ありがとうございます。

秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(9)

2014年07月12日 12時01分35秒 | プリンスエドワード島への旅
厳しい冬を前にした北の海、吹きつける風は芯から冷たかったですが、空は本当にきれいでした。

書類作成のためにヘンなふうに頭を使ったので、こうして更新しながら私自身気持ちが休まっています。

いろいろと少しずつ書いていきますので、よろしかったらまた訪問してください。





夏色の青空が広がっています

2014年07月11日 13時32分34秒 | 祈り
平日にパソコンを背負いながらあっちへこっちへと一日中出かける生活を続けていたら
股関節を痛めてしまいました。治療中なので過度な無理はできませんが、人が自然と集まる場所にちょこちょこと顔を出すようにしています。
そうしないと誰にも会わずに一日が終わってしまいます。
それはよくないので、ちょっとがんばりながらどうにかこうにかやっています。

たぶん、あのまま9-10時間労働の日々を続けていたら出会うことはなかったであろう人たちと出会うことができました。一緒にお昼を食べたりしながら、何気なくお喋りをしているうちに、自分の気持ちも少しずつ変わってきていることに気がつきました。大きな組織はもういい。それじゃあ何をしていけばいいのかわからないのが苦しいですが、なにかできることがきっとある、必要とされる場がある、そう信じてまずは精算をめざします。

その場所には、ベビーカーをひいたお母さんたちもいらっしゃいます。
私は結婚・出産・子育てを経験することなく年を重ねてしまったので、子供たちが成長していく様子に出会うこともできて、本当によかったと思います。
あらためて自分の母を思います。父を信じながら、一生懸命に育ててくれたんですね。

おぼろげに思い出すのは、私たちがまだ本当に幼かった頃の光景。
父は仕事で帰りがおそかったんだろうと思います。
母が私と妹をお風呂にいれてくれていました。乳飲み子だった弟がハイハイしてしまわないように開け放ったお風呂のドアにひもでくっつけて、母は一人で奮闘していました。
そんな光景を断片的に時々思い出します。

「あなたが今生きている、そのことが大切なのよ」
乳幼児精神保健学会のW先生が仰ってくださいました。

私が今こうして生きている、大変な時だけどなんとかやっている、
それでいいんだと思います。

21年前の私は自分に全く自信をもつことができずに苦しかったです。
でも妹とのお別れからまだ10カ月、本当に冴えなかったですが必死でしたね。
こうして振り返ってみるとかなり無理していました。

13年間同じ時間に同じ場所に行って過剰な業務量をこなしたのだから、わたし少しは強くなれたのかもしれませんね。今は自信もっていいですね。

「1994年7月8日(土)

ジメジメ、しとしと、雨の日が続いている。
この梅雨空のように、心身ともにミジメである。
梅雨に入ってから調子が悪くて、朝起きるのがツラかったのは事実だ。
あまり、眠れなかったし・・・。
だが、病人のように見える、と言われたのはショックだ。
今までも元気がなさそうだといわれたことはあるものの、そこまでいわれたのは始めてだから。精神的に限界にきていたのだろう。
わたしの説明の仕方が悪かったのか、結果として社長のカンちがいで採用されたということがわかって、経験あると思って採ったのにだまされたといわれ、校正なんかやってみれば基礎知識がないから仕事にならない、ひとつひとつきくこともできないし、5人しかいない所で各自黙々とやっている。続けていけるのかなあ、いいのかなあ、自分のペースがおそいんだかどうだかわかんないや、なんて不安を持ちながら続けられるはずがない。もう一度基礎から勉強し直して出直すしかない、ずっと仕事はしていきたいし、なにかひとつ、これはっていうものを見つけたい。
それにしても、わたしはきっちりと社会生活を営めるだけの体力と人間性に欠けるのだろうか。30才を過ぎてからめっきり体力が落ちたのはたしかだし、冷え症はキツイ、眼も疲れやすい、肩こりはひどいし、毎日の通勤に耐えられないのかな。睡眠への不安がいつもあるし、熟睡できないし、毎日同じ時間に同じ場所へいくってことが無理なのかな。すっかり自信がなくなってしまった。声が小さいことも、猫背なことも、ふらふらと歩いていることも、今までずっとそうだったし、誤解されやすいってことはわかってるけど、
特に今回は経験がないっていう負い目があって、自信のなさがよけいそんなふうに現われてたのかな。少ない所ってほんとにキツイね、わたしなりに吸収していこうっていう気持ちがなかったわけじゃないし、努力したつもりだけど、生来のんびりしているし、のみ込みがほんとうに悪いし、慣れるまでに時間がかかっちゃってなんかズレてるよね、やっぱりー。
3年前、Iさんにいわれたことがよみがえってくる。すごく無理してるみたいで、痛々しくってみていられない、さっさと田舎に帰って結婚しろよ、って。
そうした方がいいのかな、一人は向いてないのかな、あんまり人に相手にされないなんで、魅力ないのかな。存在感ないのかな。
でも帰りたくない。郷里は好きだけど、両親のもとへは時折帰るだけの場所だ。
Mちゃんのことを思い、父と母のことを考えるとわけがわからなくなってしまう。
どんどんマイナス方向へいってしまう。背負っていくのは重過ぎる。
まだまだつらいんだと思う。表面に出すべきことではないし、ひとりで泣けばいいんだって
強がっても、やっぱり強がりでわたしは弱い。妹は自ら命を絶ち、母はわけのわからないことを口走っていて・・・、なんてわたし自身への誤解につながりかねない。人に言えない、わたしもどっかおかしいんじゃないかなって不安が消えない。どう受けとめていいのかわからない。
閉鎖的なわたしに戻りたくない。
前だけみようと努めてきたけど、すっかり自信喪失。どんどん小さくなっていって、うずもれてしまいそうだ。自分自身も人も、なおのこと、こわくなってしまった。
Yクンに話すと、おれはそんなことまで考えない、って笑われるけど、わたしはあの父と母のもとに生まれたことがいまわしいとさえ思ってしまうのだ。
血のつながっていることがいやなんだ。
だってもういないMちゃんはどうなるの。こうしてほしかった。ああしてほしかった。
なぜ、こうしてくれなかった。ああしてくれなかった。社会生活を営んでいくための肝心なことをどうしてなにもおしえてくれなかった。
考え始めるとどうしようもなくなってしまうのだ。
あんなに一般常識からズレている人たちのもとで育ったんだもの、ズレてないはずないじゃない、どうでもいいところで、やたらと神経質なだけじゃやないの、なんて、否定的・・・。
逃げ出したくなってしまうヨ
自分自身のことで悩みたくはないのに、
なんかすっかり自信喪失・・・。
やっていけるのかな・・・。
力ぬけちゃった。」



ルピナスは、『赤毛のアン』には登場しないので、100年ほど前のプリンス・エドワード島にはまだなかったのかもしれませんね。今は島を代表するようなお花になっています。



信じつづけよう

2014年07月09日 15時24分23秒 | 祈り
外は雨、気持ちがいくらか落ち着きます。
就寝中何度も目がさめてしまいます。それだけ不安定な状態なんだろうと思います。
歯を食いしばり続けていたら、食いしばり過ぎて、奥歯がボロボロになっていました。
それでも、お薬の力を少し借りながらこのまま進んでいくしかありません。


社会の仕組みは弱者に冷たい。そうわかった時、愕然とし言葉を失いました。
だれのための、なんのための仕組みなのだろう・・・。
歯ぎしりするような思いがしました。
そういうところへ、でもおかしいよねと言おうとしているのでかんたんではありません。
時間もまだまだかかりそうです。がんばっても無駄かもしれません。
でもだれかががんばらないと何も変わらない。
これが自分の役割なんだと思って、きっと妹が守っていてくれると信じて今はこのまま
進んでいきます。
妹の分まで生きるという大切な役割があることを心に刻みつづけます。


母との突然のお別れから一年後の私を振り返ってみます。
いろんなことになんだかヘンだなと感じ続けていました。
日航機事故関連本を読んでいた頃で、大きく心が揺れ動いていました。


「2013年1月25日(金)

心が揺さぶられて、言葉がオリのように沈澱して書かずにはいられない。
私にできることが・・・やるべきことがあるのではないか。
発信できることがあるのではないか、何を、どうやって・・・。
思いは空を舞い、空回りし続ける。

心が揺り動かされてどうしようもなく、Y先生に電話して話をきいてもらった。
物事には出会うべくして出会うタイミングというものがある。本との出会いもそうだ。
断捨離を続けて、母の一周忌を機にあらたに生き直していきたいと思い続けている今、
亡き人と共に生きていく、そのことがようやくストンとおりてきた。
自分を責め始めればキリがない。真っ白な時間を体が忘れることはない。
その事実を引き受けて生きていかなければならない。
引き受けられる自分でいるためには、ピアカウンセリングも必要かな。
私の話は、普通に喋るにはとりとめもなく、内容もきついようだ。
のたうち回るような思いの日々を糧に生きていくしかないんだ。
どうしてなのかはわからない。それが私に与えられた役目なんだ・・・。

アルジェリアの人質事件、80才を過ぎて我が子に先立たれた母がいる。こんな地獄のような時が何故訪れるのか、その答えはどこにもない。思いは空をさまよってどこにもたどり着くことができない。心がいたい。どんなに大変だろうと思うと言葉にならない。

1988年5月3日から一週間の北海道旅行の旅日記を間もなく捨てようとしている。
Mちゃんのbirthdayじゃないか。それから6年後に自死する日が訪れようとは、
こんな思いの日々が訪れることになろうとは、夢にも思わなかった私がいる。
家にTELしたら母の様子が変だった、と私は書いている。発症の予兆はあったのだろうか。
今となってはもう何をどうすることもできない。愚かだった私、若かった私とサヨナラするために断捨離を続ける。
サヨナラ、若かかりし頃の私・・・ひとつひとつ別れを告げていく。
新しい一歩のために・・・。」


今をがんばり通せたら、プリンス・エドワード島の風の音をききにいきたいですね。

秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(8)

2014年07月08日 22時13分26秒 | プリンスエドワード島への旅
赤土の海岸が夕陽に照らされる中にいると全身が夕陽に包まれて、ほんとうに夢をみているような心地がしました。

最近プリンス・エドワード島を旅された方がいらっしゃいます。
ブログにアップされたエア・カナダの機内食やシャーロットタウンの小さな空港の写真を
懐かしさいっぱいで拝見しました。お花の写真も素敵です。

私もきっとまた旅する日が来る、そう信じて今は辛抱の時を過ごしつづけます。
(仕組みとしてはおかしくないことを、でもおかしいでしょというのでかんたんではありません。)