「おそろしい怨霊-
話は少しまえにもどりますが、紫の上がひどい苦しみに突然おそわれたのは、六条の御息所の死霊のたたりでした。紫の上は、その後、ずっと健康がすぐれず、衰弱していったのですから、いわば、六条の御息所の怨霊に、とり殺されたようなものです。
そして、女三の宮も、やはり同じ御息所のたたりで、若い身空で入道せざるをえないようなはめに追いこまれたと、もののけはいっています。宮が、髪をそいだその夜、
わたしのさしがねでこうしてやった。
と、からからとうち笑う御息所の怨霊の声を、光源氏はまざまざと聞いているのです。
六条の御息所は、さきに生き霊となって葵の上をとり殺し、あとには死霊となって、紫の上を死に追いやり、女三の宮をして世を捨てさせました。光源氏のまわりにいた。もっとも正式な妻に、つぎつぎにたたっていった、おそろしい怨霊でした。」
「光源氏の力もおよばずー
光源氏は、御息所の思いをなだめるために、そのわすれがたみの姫宮を宮中に入れ、中宮にまでしたのでしたが、それでも御息所の思いは解消しなかったのです。光源氏はどの人も、結局、御息所の怨霊の活躍をおさえきれませんでした。自分自身は被害を受けなかったのですが、自分にもっとも近い人々を、つぎつぎと不幸にさせられました。
源氏物語は、こういう、おそろしい怨霊について、まざまざと書き記している点でも興味があります。ことに、六条の御息所の思いが、どういう原因で、もののけとして発動し始めたかという、ことのおこり-車の争いをきっかけとした、ふたりの妻の争い-を説いており、さらに25年間もしずまっていた怨霊が、また活動し始めるいきさつなども書いていて、その点でも、ひじょうに興味があります。
日本の古い家々には、いつのころからか始まった、ある一つの家筋の者にたたっていく、怨霊があります。
光源氏の家は、光源氏から始まったので、怨霊も過去の歴史を負うているものではありません。光源氏自身がひき出したものです。」
「そのしつこさ-
それを、源氏物語は、生き生きと描き出しました。
こういう怨霊を、「もののけ」といいました。ただ、もののけという語が怨霊を意味するようになるまでには、多少の変遷がありました。
元来、「もの」とは、鬼とか化け物とか怨霊とかいうことで、「もののけ」は、「物の気(け)」で、怨霊などによって生じる病気のことをいいました。そのうちに、「け」を「怪(け)」というような意味に解するようになっていって、もののけは「物の怪」すなわち「怨霊」ということになりました。源氏物語はに盛んに出没するもののけは、怨霊そのものを意味しています。
もののけが人にとりつくと、よりましという役の者をおいて、祈り伏せて、もののけをよりましに移し、さんざんにこらしめて、退散させます。簡単なもののけは、すぐによりましに移ってしまいますが、六条の御息所のもののけのように、しぶといものになると、とりついたらなかなか離れません。」
「平安時代の社会の心理現象-
そして、いつまでもとりつかれていれば、つまりその人が、病気の状態でいる、ということになるわけです。
こういうことが、じっさいにあったのかと、疑う人々も多いと思いますが、今日でもなお、民間の信仰では、お盆のときに、あの世の人を呼び出して、よりましにつけて、いろいろと聞いたりしているくらいですから、いわば「もののけ」は、平安朝の社会では、ごく一般的にひろまっていた、一種の社会心理的なものだったのでしょう。
そういう、世間にありふれたもののけや、もののけによるたたりなどは、多分に、現実性をもっていました。
それを、光源氏の一生の事跡にからませて描いていったのが、源氏物語でした。光源氏は、氏の長者として、こうした家にたたる怨霊なども、その恨みを断ち切っていかねばならなかったのです。」
(池田弥三郎『光源氏の一生』昭和29年4月1日第一刷発行、講談社現代新書、226-231頁より)
話は少しまえにもどりますが、紫の上がひどい苦しみに突然おそわれたのは、六条の御息所の死霊のたたりでした。紫の上は、その後、ずっと健康がすぐれず、衰弱していったのですから、いわば、六条の御息所の怨霊に、とり殺されたようなものです。
そして、女三の宮も、やはり同じ御息所のたたりで、若い身空で入道せざるをえないようなはめに追いこまれたと、もののけはいっています。宮が、髪をそいだその夜、
わたしのさしがねでこうしてやった。
と、からからとうち笑う御息所の怨霊の声を、光源氏はまざまざと聞いているのです。
六条の御息所は、さきに生き霊となって葵の上をとり殺し、あとには死霊となって、紫の上を死に追いやり、女三の宮をして世を捨てさせました。光源氏のまわりにいた。もっとも正式な妻に、つぎつぎにたたっていった、おそろしい怨霊でした。」
「光源氏の力もおよばずー
光源氏は、御息所の思いをなだめるために、そのわすれがたみの姫宮を宮中に入れ、中宮にまでしたのでしたが、それでも御息所の思いは解消しなかったのです。光源氏はどの人も、結局、御息所の怨霊の活躍をおさえきれませんでした。自分自身は被害を受けなかったのですが、自分にもっとも近い人々を、つぎつぎと不幸にさせられました。
源氏物語は、こういう、おそろしい怨霊について、まざまざと書き記している点でも興味があります。ことに、六条の御息所の思いが、どういう原因で、もののけとして発動し始めたかという、ことのおこり-車の争いをきっかけとした、ふたりの妻の争い-を説いており、さらに25年間もしずまっていた怨霊が、また活動し始めるいきさつなども書いていて、その点でも、ひじょうに興味があります。
日本の古い家々には、いつのころからか始まった、ある一つの家筋の者にたたっていく、怨霊があります。
光源氏の家は、光源氏から始まったので、怨霊も過去の歴史を負うているものではありません。光源氏自身がひき出したものです。」
「そのしつこさ-
それを、源氏物語は、生き生きと描き出しました。
こういう怨霊を、「もののけ」といいました。ただ、もののけという語が怨霊を意味するようになるまでには、多少の変遷がありました。
元来、「もの」とは、鬼とか化け物とか怨霊とかいうことで、「もののけ」は、「物の気(け)」で、怨霊などによって生じる病気のことをいいました。そのうちに、「け」を「怪(け)」というような意味に解するようになっていって、もののけは「物の怪」すなわち「怨霊」ということになりました。源氏物語はに盛んに出没するもののけは、怨霊そのものを意味しています。
もののけが人にとりつくと、よりましという役の者をおいて、祈り伏せて、もののけをよりましに移し、さんざんにこらしめて、退散させます。簡単なもののけは、すぐによりましに移ってしまいますが、六条の御息所のもののけのように、しぶといものになると、とりついたらなかなか離れません。」
「平安時代の社会の心理現象-
そして、いつまでもとりつかれていれば、つまりその人が、病気の状態でいる、ということになるわけです。
こういうことが、じっさいにあったのかと、疑う人々も多いと思いますが、今日でもなお、民間の信仰では、お盆のときに、あの世の人を呼び出して、よりましにつけて、いろいろと聞いたりしているくらいですから、いわば「もののけ」は、平安朝の社会では、ごく一般的にひろまっていた、一種の社会心理的なものだったのでしょう。
そういう、世間にありふれたもののけや、もののけによるたたりなどは、多分に、現実性をもっていました。
それを、光源氏の一生の事跡にからませて描いていったのが、源氏物語でした。光源氏は、氏の長者として、こうした家にたたる怨霊なども、その恨みを断ち切っていかねばならなかったのです。」
(池田弥三郎『光源氏の一生』昭和29年4月1日第一刷発行、講談社現代新書、226-231頁より)