たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「甘え」を考える②

2024年05月21日 00時07分21秒 | グリーフケア

「甘え」を考える①

(乳幼児精神保健学会誌Vol.23 2010年3月号より)

「テーゼⅡ;「甘え」は分離を前提としているので充たされることはない。

 母子関係には、素直な甘えがある。誰でもがそのことを知っている。しかし、事態はもっと複雑である。何らかの意味で甘えは屈折する。そこに病的な甘えが生ずる。神ならぬ人の愛は不完全である。人は皆、幾分か屈折した甘えを生きる。結論的には、人の甘えは素直な甘えと病的な甘えの両価性を持つ。ここに甘えと恨みのアンビバレンツ(両価性)が生ずる。人は甘えの二面性をもって生きることになる。それ以外の選択肢はない。

 甘えが両価的なのは、甘えが分離を前提としているからである。甘えの欲求は一体化の欲求である。自分と対象が一体となりたいとする欲求である。比喩的にいえば、それは子供が胎内にいる時へと復帰する願望である。母体の中では胎児は完全に守られ充足している。しかし、赤子は出生と共に母体から分離し無力で傷つきやすいまま、厳しい外界へと投げだされてしまう。胎児は臍の緒を切った瞬間に母胎と分離してしまったのである。つまり、この世に生まれた以上は一体化の欲求、甘えは完全には充たされることはない。

 この理由からフロイトも土居も「無力感、寄る辺なさ(helplessness)」と「傷つきやすさ(vulnerabillty)」という一見、悲観的で救いのない状況から思考を始める。土居先生の観察は鋭い。赤子に甘えの行為が認められるのは、この分離を前提としてである。それ故に甘えには本来、挫折が含まれる。甘えから受容と禁止の二面性を払拭できないのはこのためである。むしろ、その二面性こそが甘えの大事な特性である。

 

テーゼⅢ;人は甘えを超越しようとする

 外界の危機に対して、子どもは本能的に防衛手段をとる。傷つきやすさから本能的に身を守る。先ず子供は自ら甘えを恐れ禁止する。甘えがなければ傷つかない。甘えなんか初めからないという否認の態度を学習する。「甘え」ては「いけない」という禁止を心の内におく。原初的な罪悪感の発生である。ここで罪悪感とは恐怖感である。甘えの欲求とそれを禁止する罪悪感の間で葛藤が生ずる。こうして甘えの欲求そのものも両価的に分裂する。ここに「甘え」と「恨み」の両価性が生ずる。人は依存対象を求め、必然的に挫折し、痛みを体験する、「恨み」を身に着ける。つまり甘えを取り上げる以上は甘えの傷つきやすさ、両価性、罪悪感に注目することになる。土居先生が頻繫に「なぜ甘えてはいけないと思うのか」と問い掛けるのは、この原初的な罪悪感に切り込む定型的な技法であった。

 人の甘えは挫折する。甘えは傷つきやすい。そして、大人になるにつれて人は甘えを罪悪感とタブーの中におく。無意識の中におく。つまり、大人では幼児的な甘えは超越されねばならない。しかし、甘えの超越とは甘えがなくなることではない。甘えは形を変え都合の良い依存対象に向かうだけのことである。大人になるにつれて甘えの挫折を先取りして、より確かな依存対象を求めることになる。大人が手に入れる新しい依存対象の一つが「自分」のイメージでる。確かな「自分」というイメージを幻想的に確立する。ここに「自分」の意識が形成される。自己と他者のイメージが分化する。こうして確かな自分、「自我の確立」という幻想が形成される。

 ウィニコット、D.W.のホールディング(抱く)という概念を引用し、「抱っこしてあげれば甘えは充たされる」と安易に紹介する本もある。当人がそんなに甘い主張をしているとは思わない。これでは甘えの挫折という本来の宿命的テーマが見えなくなる。つまり、甘えにあるのは宿命的な葛藤であり挫折であり痛みなのだ。甘えを受け止めるとは、甘えをめぐる痛みを受け止めることである。子や親の痛みを受け止める。甘えを完全に満たすことなどは人には出来ない。そこには何らかの意味で甘えからの超越が必要になる。超越。一歩、踏み出すこと、その方法を個人に応じて探り出すのが実践である。

 

テーゼⅣ;信頼は甘えを超越する

 甘えの挫折は自他の分離を生み、そこに「自分」の意識が成立する。しかし、確立された自我だけでは、他者と交わることは出来ない。孤独し自閉的な自己愛的な自我となる。そこでは甘えは形を変え「自分」と他者を結び付けて、「私たち」を形成する。一度、確立した自我は自分の壁を超える。土居先生はその新しいつながりの中心に「信頼」という語を置いた。この意味で、信頼は甘えを超越するのである。信頼の本体は甘えである。しかし、それは甘えを超えた甘えである。この信頼の語こそが重要であるが、現代思想のアキレスの踵といわれる言葉でもある。考えるほど複雑さが分かり、分かりにくいテーマであると分かる。思索者が主題化することを避けてしまうテーマである。

要するに、子供と大人の間の甘えも、いずれは信頼関係に発展しなくてはならない。人とのむすびつきの何処に信頼の端緒を見出すか。こうして「信頼」の一語とともに、土居先生の思考は「信じること」、「祈ること」へと展開していく。ここには信仰問題につながる土居先生の深い思考が展開する。

 実は、「素直な甘え」と「病的な甘え」の対比にも信仰問題が形を変えて内在している。まずは、土居先生のいう「素直な甘え」の原型を見てみよう。ミケランジェロの「ピエタ」の彫刻。それは十字架から降ろされたイエスを膝の上に抱くマリアの姿である。他にもある。聖書のマリアとマルタの物語。イエスの言葉を無心で傾聴するマリア。そこで赤子のような「素直な甘え」が語られる。赤子のようでなければ天国には入れないという聖書の一説が語られる。土居先生の「甘え」の両価性という言葉の背後には、キリスト者として、神の愛と人の愛の対比がある。

 要するに生身の人間は純粋で素朴な甘えの世界にとどまるのは困難なのだ。神の愛のように完全ではないが、決して無意味とは言えない人の愛への共感的で両価的な評価。ここでは、これ以上、この問題に深入りは避けよう。関心ある方は参考文献を当たってほしい。

 要するに人間は不完全であり、甘えも不完全であり、その受け止めも不完全である。その限界から新たな一歩を如何に踏み出すか。これが本来の甘えのテーマである。

 

3.「甘え」という人間関係

 ここまでは土居先生の書いたものに添って、彼の思索過程を紹介した。全体を振り返ってみると、子供であれ大人であれ、甘えからは人と人との関係が見えてくる。この意味では「甘え」理論とは対人関係論なのだ。

「甘え」の欲求は対象との一体化の欲求と定義される。しかし、実際に土居先生によって記載され分析される甘えの現象はこの定義には収まらない。幼児期の母子関係に限っても、依存関係には二つの意味が含まれる。それは縦の関係と横の関係の二つである。縦の関係とは一方の人が絶対的優位にあり、他方がそれに依存する関係である。それは乳を与える母と与えられる赤子の関係である。母は絶対者、子は依存者である。一方的な依存関係である。これはフロイトのいう口唇期の名にふさわしい。

 一方、甘え合う母子の姿はお互いに甘え合っているのであるから、その関係は上下ではなくて相互的である。横の関係である。それは触れて触れられる皮膚感覚に似ている。「ふれあい」、「やさしさ」という言葉が似つかわしい。

 こうして甘えに縦と横の関係の二面性を見る。つまり対人関係における権威性(autority)と相互性(reciprocity)の二つである。まさに土居先生の「甘え」理論は対人関係論である。

 

4.おわりに

 人の愛は不完全である。つまり、甘えについて子も親も援助者も確かな答を持ってはいない。在るのは禁止と受容の両価性だけである。挫折と痛みである。それ故に援助者と母が協力して一緒に「素直な甘え」の発現を試行錯誤で求めていくことになる。そこに「信頼」関係を探っていく。でも、人を信頼することは、人にとって、もっとも勇気が要る難しい行為である。こうして甘えについての問は将来に向かう「生」の探索行為へと私たちを導く。

 冒頭に上げた弁当のエピソード。先生が母へ向けたほのかな敬意と信頼。甘えで大切なのは、この些細な気付きである。その発見が人と人を結び付け、時に、子を人を救う。甘えはあくまでも人間という不可解な存在の深部、誕生の謎に関わる言葉である。ところが、甘えに関わる者は甘えという余りにも馴染みのある言葉によって、「甘えなんかは分かっている」という態度をとってしまう。それこそが「甘い」のである。「甘え」のトリックに落ちたのである。自己の内なる甘えを卒業した人、甘えの本質を知り尽くした人、ましてや甘えを支配できる人、そんな人はいない。「私は甘えを抱きとめられる」と信じるのは大人が持つ幻想の最たるものである。甘えの現場に必要なのは何らかの意味で、超越、つまり、援助者自身が一歩、踏み出すことである。」」

 

 

 

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