たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「東洋医学とカウンセリング」-2004年セスク「論理療法」資料より

2024年05月24日 20時21分52秒 | グリーフケア

「東洋医学とカウンセリング-聖心女子大学教授 橋口英俊

 

 東洋医学はよく「気の医学」「未病を治す医学」といわれます。その根底には心身一如(心と体は本来一つである)や天地人合一(宇宙=大自然と人間は本来一つである)という考え方があります。同時に相対的二元論が基礎概念としてあり、気血や陰陽、虚実などはその例です。これらの考え方を前提としてなりたっているのが東洋医学で、「気」とは生命のもと、生命のエネルギーを意味しています。そして気は宇宙にみちあふれており、宇宙(大自然)そのものが気であるともいえます。つまり生まれた時に授かった生命には親また親、すべての先祖、辿っていくと宇宙の歴史が刻み込まれています。今日的にいえばさしずめDNAで、これを先天の気といいます。出生後は呼吸、食物、水、衣服、自然との語らい、社会(人間関係)の中で気(いのち)は育まれ、個性となり豊かな人生や文化を創造し、また最終的には自然に戻ります(死9。これを後天の気といいます。

 この気は心と体、人と人、人と自然の中を大きな循環となって流れており、スムーズに流れている時が健康、その流れが滞った時が、気が止(病)むつまり病気ということになります。すなわちどこがなぜ滞ったかを発見し、円滑に流れるようにするのが治療で、「気の医学」といわれるゆえんです。

 また、できるだけ気の流れが滞らないように日常生活で気をつける。病気には必ず病気になる前つまりベッドに横たわる前の段階がある。この時点でいち早く危険を察知して手当をする。これは日常生活の中で誰でもどこでも比較的簡単にできしかも効果も大きい。これが「未病を治す医学」といわれるゆえんです。病気になってから、つまり既病を治すのはその性質からいっても西洋医学がすぐれていますが、未病の段階だと東洋医学が最も得意とします。気の滞りは様々な形で表れますが、心理的には感情がその主役です。いらいら、怒り、おびえ、興奮、敵意、悲しみ、抑うつ、不安などです。また身体的にはこりや痛み、冷え、ほてり、むくみ、疲れる、肌の状態、運動、食、排尿、排便などこれが心身一如で複雑に重なりあって表出されやすい。その背後には衣食住その他の物理的環境問題もさることながら、より心理的な人と人との心の交流や認知(うけとり方)などの滞りが心身の流れをさえぎり、さまざまな未病を作り出していることが多いのです。

 まず相談を受けたらともあれその訴えにじっくり耳を傾けることです。滞りは感情として意識されやすいのです。つまり感情は滞っているぞ、何とかしてくれという体の奥からの切なる願い、衝動であり、気のかたまりです。つまり安心してその気を流し出せる受け皿が受容共感ということで、すべての治療やカウンセリングの第一歩です。無条件に相手の苦しみ、辛い感情をできるだけ自分の感情の中で味わう。辛いだろうなあ、苦しいだろうな、私でよかったらどうぞ存分に流してねという気持ちです。同時に痛みやこり、冷えの部分に心をこめて手を当てる。自他合一、これが手当ての心理です。できるのは心からのうなづき、くりかえし、確認です。たまった感情や思いがある程度流れると相手からこちらのことばを待つことが多い。その段階で相手におって最善だと思う気持ちを率直に述べる。その間可能な限りの手当を施す。私の持てる技のすべてを投入する。実はこのくり返しで思いがけない発見がしばしば経験されます。あれほどの苦しみ、つらさがいつのまにか克服され逆にそれが強い自信になり創造的に前向きに生きようとする心身の力です。それを支えているのが万物に対する感謝の念、生きる喜び、生かされている自分に気づく心です。多分先天の気として万人に備わった力であり、それを魂と魂のふれあいによって、より豊かに自らの生を全うする力としての気に高める。これが東洋医学の真髄であり、カウンセリングや今話題の「心の教育」の原点ではないかと思います。

 この自主グループは、相互学習を通しての「心の教育」の気づきの場、お互いの「癒しの場」であり、魂と魂の交流によるすばらしい生命の文化の創造の場であったのではないかと思います。ますますのご発展と皆様のお幸せとご健康をお祈りしております。」

 

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