たんぽぽの心の旅のアルバム

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『東北歴史紀行』より‐千歳のかたみ<みちのく遠(とお)の朝廷(みかど)>

2024年06月14日 17時08分03秒 | 本あれこれ

「‐東の都護符‐

 まず、多賀城は、陸奥国府に鎮守府をあわせ、これに陸奥出羽按察使府(でわあぜちふ)を重ねたものでした。ですから、これらの官庁がどういう役所かわかれば、城の性格も重要性もわかります。

 陸奥国は、今日の福島・宮城・岩手・青森四県にあたります。これは、普通の国を十近くあわせた超大国です。しかも、エゾの故国、さいはての辺境です。ですから、その国府は特別規模の別格国府だったのです。

 鎮守府は、エゾ経営のために特設された地方軍政府です。そして、すべて国府に準じて扱われたものです。国府並みの軍政府というのは、これだけです。しかも、エゾ経営というのは北に残された未組織日本(まだ国家に編入されていない別日本)を、経営し統治して、北方に国家を拡大し、北辺からの脅威に備えるという性質のものでしたから、その予定支配区域は、奥エゾの国、すなわち北海道もふくんでいました。それも多賀城を鎮府としていたのですから、多賀城は、辺境組織区域は国府として、辺境未組織区域は鎮守府として、支配・統治にあたるという、他にまったく例をみない大政治の府になったのです。

 平安初期の延暦21(802)年、胆沢城(いさわじょう)(岩手県水沢市)ができてからは、鎮守府はここに移ります。でも、多賀城で、胆沢鎮守府の政治も調整する伝統は、ずっとつづき、多賀城はひきつづき、上級鎮守府でもあったのです。按察使(あぜち)というのがすなわちそれです。

 按察使というのは、奈良初期に置かれた国の監察機関です。多く近接の数国を兼ねましたが、臨時のものでした。そして、奈良末期までには設置を見なくなります。しかし、陸奥国だけ例外でした。ここでは、陸奥・出羽を兼ねて、常置の形になり、按察使は、国司の上の定員となりましたから、ここでは、両国の上に道州(どうしゅう)制(広域行政制度)の総督を置いたと同じ体制になったのです。その按察使府も多賀城にあり、鎮守府もその管轄下でした。

 こうして、多賀城は、直接・間接をとわず、東北全域・北日本一帯に責任をもつ最高政治の所在地ということになりました。古代日本で、こういう別格の広域行政府の実(じつ)を備えていたのは、西では九州大宰府、東では多賀城しかなかったのです。中国ふうにいえば、東西の都護府(とごふ)ということになります。制度上は、大宰府がすべて格が一つ上でした。しかし、実質的には、北の広大なエゾの国の征服・統治に責任をもつ域として、多賀城に、より大きい重責が課せられていたといえるのです。

 

‐遺跡に見る多賀城‐

 そのことを反映して、遺跡・遺物の実際について見ても、多賀城は、東日本における最大規模かつ最高の地方官衙(かんが)(官庁)だったことがわかるのです。『万葉集』では、地方の国府のことを「大王(おおきみ)の遠(とお)の朝廷(みかど)」にふさわしい、堂々たる威容を備えた大府城だったのです。

 多賀城の規模は、江戸時代から、内城(ないじょう)は南北65間・東西55間、外城(がいじょう)は南北10町・東西8町と称され、いわゆる方八丁(ほうはっちょう)の外城と、政庁施設を置く内城の二段構えの構成であることが知られていました。おびただしい数の古代瓦の出土も知られておりました。これでつくった瓦硯(がけん)(瓦製すずり)は、多賀城のゆかしい名を江戸の文人・学者たちの間にも広めていたのです。戦後、継続的に発掘調査がすすめられ、それにもとづく史跡整備も進行し、都平城宮(へいぜいぐう)に次ぎ、西の大宰府と並称される東の都護府(とごふ)の全容が、ほぼ明らかになっているのです。

 その規模は、正確には、外城(がいじょう)が北辺860・南辺880・東辺1000・西辺700メートルの梯形型、その内側中央北よりに、南北170・東西106メートルの内城(ないじょう)ということがはっきりしています。その中で、古代だけでおよそ四期ほどに、その時期を分けることができると考えられています。第一期は掘立柱(ほったてばしら)の建物の時代で、まだ瓦ぶきになっていない時期です。第二期以降が瓦ぶきの時代で、したがって土台に礎石を用いる時代です。第二期の瓦ぶきになるのが、だいたい、奈良初期養老‐神亀(じんき)の交(こう)、720年ごろと考えられていますから、大体としては、多賀城碑の神亀元年説は、結果的に正しかったことになります。もっともりっぱだったのは、第二期・第三期で、それは720年代から860年代までです。貞観11(869)年、この地方に大地震と大津波があって、多賀城はつぶれてしまい、城下は津波に洗われてしまいました。それからは、いま一つ盛り上がりを欠く守りの時代に入ります。

 多賀城は、平安末期には平泉藤原氏の支配下にあり、また鎌倉時代にも、幕府任命の留守式(国司が下向しない国府の代行職)がおり、建武中興(1334年)には、小さな幕府ほどの規模の大国府をここにおこして、南朝方の一大基地になるなど、中世にも存続しました。しかし、遺跡や遺構の上での中世多賀城の確認はおくれております。

 外郭はりっぱな築地塀(ついじべい)(粘土でかためた上に瓦をおいた塀)でした。二期・三期では、この中に置かれた建物は、全面瓦ぶきになっていました。古代では、寺院は全面瓦ぶきですが、官庁は主要なものだけが瓦ぶきでした。そういうことからも、多賀城が、東の都護府だった威容のほどがうかがわれます。

 肝腎のはじまりが、はっきりつかまえられていません。しかし、これについては、こんなふうに考えておいてよいのです。基本文献の『続日本紀(しょくにほんぎ)』という正史には、養老6(722)年には陸奥鎮所(むつしんしょ)という大軍政府が、活発に動き出していることが伝えられています。これが多賀城の前身になるものです。そのはじまりは、それから7年ほど前の霊亀元(715)年のころにあったと思われます。この年、大規模な武装農民のこの方面への植民があったのですが、これがおそらくその鎮所の成立にかかわっていたのです。

 このころまでには、宮城県の北よりの地に、いくつも開拓・経営のよりどころとなる前線基地の城柵(じょうさく)ができていて、最後にそれらの統合基地として多賀城が成立する‐そういう見こみになります。そしてこの城とともに、日本古代における北方の国生みの歴史もあゆむことになります。

 ここからは、漆紙文書(うるしがみもんじょ)とよばれる古代史料が出土するという、まったく珍しい学問上の新発見がありました。古代の多賀城の国家施設としての営みを証明する公文書の類が、泥まみれになって地下から出土したのです。砂漠地帯の乾燥した砂中からならいざ知らず、日本のような湿潤(じめじめした)な国で、土中から紙が紙質をとどめて出土するということは、考えられていませんでした。ましてそれが古文書となり、字が判読され、構文としての体をなすにいたったのですから、一つの驚異にもなったのです。これは、紙に漆がつき、その性分のため、紙が保存され、紙に書かれていた字も残ることになったものです。役所で使われていた公文書の類で廃棄処分になったものが、城内にあった漆使用の工房などで、そのハケのようなものに再使用されて、さらに廃棄されたものが、小さな団子状にまるまって発見されたのです。それを水に入れ、ていねいにのばし、赤外線カメラで、その文字を解読し、漆紙文書とよばれるようになったのです。「地下の正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」(奈良の正倉院には、奈良時代の古文書がたくさん残っている)。歴史家はそんなふうに言っています。多賀城の一角に、東北歴史資料館があって、多賀城関係の各種遺物を展示するなかに、このような発見も紹介されています。忘れないで見学し、新知識を豊富にしたいものです。

 

‐多賀城廃寺‐

 多賀城には、遺跡としては、城跡以上にみごとな遺跡が、もう一つあります。それは、多賀城廃寺という多賀城付属寺院跡です。城跡からは東南1・5キロにあります。昔から礎石や基壇(建物を建てるため、平地より高く築いた壇)が認められ、奈良朝瓦の出土もありましたので、奈良朝寺院のあったろうことは推定されていました。城跡に先立って発掘調査され、その全容が判明しているのです。

 これは、奈良の法隆寺の塔と金堂とを東西入れ替えただけで、ほとんどこれとそっくりのプランであることがわかりました。法起寺(ほっきじ)様式といいます。ただ、一番前の南大門だけは確認できませんでした。金堂が西、三重塔が相対して建ち、その前に中門、その中間うしろに講堂、そのさらにうしろに僧坊(僧の住居)・正倉(そうこ)などがおかれ、鐘楼(鐘つき堂)・経蔵(お経を納める蔵)の跡もたしかめられました。史跡公園に整備されていますが、古代寺院跡で、このようにりっぱにその跡を残している例は、全国的にそう多くありません。年代は、国分寺よりひとまわり古く、八世紀初期、多賀城創建のころには、城よりもひと足先に、全国瓦ぶきの奈良朝文化を、みちのくに誇っていたのです。国府寺(こくふでら)。そんなふうによんでよいものです。

 平安時代に入りますと、国府は、都下りの官人たちが、みちのくにあって都をしのぶ風流のサロンのようになり、付近に遊楽の地を求めて歌枕のような歌の名所がめぐるようになります。多賀城は、文化の面でもみちのくの都になったのです。」

(岩波ジュニア新書『東北歴史紀行』67~74頁より)

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