たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「甘え(amae」について

2023年05月04日 00時37分04秒 | グリーフケア

(乳幼児精神保健学会誌Vol.23 2010年3月号より)

「「甘え」といえば日本ではあまりにも日常語的過ぎるが、欧米ではこれに該当する単語がないことに気づいた故土居健郎先生(2009年7月ご逝去)が、著書「甘えの構造」(1971年)で「甘え」について考察したことで、その概念が改めて見直された。最近えは英語でも「AMAE」という単語ができるほど、欧米でもこの「甘え」の概念は重要なものとして受け入れられ、2008年の世界乳幼児精神保健学会世界大会では土居先生はRene Spitz賞を受賞し、またEmdeらによる「AMAE」に関するシンポジウムも開かれた。

何故それほどまでに、「甘え」が重要なのであろうか。発達的にみると甘えの心理は母子関係における乳児の心理にあるといえるが、日本で特に甘えの感覚が重要とされたことは、日本が古来より「母子関係」を大切にしてきたことを意味している。もちろん、甘えの現象は日本の赤ちゃんと母親に原曲しているものではなく、すべての乳幼児とその親に認められるものである。また土居先生が「甘えなくしてはそもそも母子関係の成立は不可能であり、母子関係の成立なくしては幼児は成長することもできないであろう。さらに成人した後も、新たに人間関係が結ばれる際には少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果たしていることになる。」(「甘えの構造」より)と述べているように、「甘え」の概念は人間の関係性そのものに関する重要な示唆を与えてくれるものなのである。

 日本の社会には、京都における「おぷぷはいかがですか?」という言葉に表されるような、表と裏のやり取りに代表されるような関係性が存在する。その言葉の意味するところ、「早くお帰りになってください、これ以上はもっと親しい間柄だけで許される(甘えられる)範囲で、そこにあなたははいろうとしているのですよ」に気付かず、甘えすぎてしまうと相手に嫌われ。社会から排斥されるという社会なのである。つまり、日本人の心理的特性としての「甘えの構造」は、「甘えがどこまで許されるかを見極めなければならない。社会的、心理的構造」であると換言できるだろう。「甘えても良い」という一方で、「甘えすぎるとだめ」というメッセージを常に突きつけられるため、甘えを意識化せずにはおられず、そこに存する不安から言葉の必要性が生じる。甘えは相手次第で自分の思いが成就するかどうか決まるという意味で極めて不安定なため、無意識の中で生じる気持ちも多種多様なのである。例えば、甘えられなかったときに抱く「恨む」、うまく甘えられないさまを「すねる」、甘えと恨みが混じり合っている「むずがる」などのように、さまざまな甘えに関する語えいが豊富な社会になったと思われるわけである。つまり、甘えはアンビバレンス(両価的感情)の原型であるといえ、人間の関係性をその言葉自体に含んでいるという意味でも愛着の概念よりも幅のある概念であるといえるのである。

 このように、母子関係を重視してきた日本では古くよりいろいろな育児にまつわる言葉がある。妊娠中の母親の精神状態を穏やかに保つことが大切であることを教える「胎教」や、産褥期の母子を見守る「里帰り」、乳幼児の心の発達がそれ以降にも大きく影響を及ぼすという「三つ子の魂百までも」という言葉なども、日本の子育ての誇るべきところでおそらく「甘え」と関連が深いものだろう。また、これからの乳幼児保健にとっても示唆に富む教えであろう。しかし、最近では、子どもへの虐待の増加や落ち着かない子どもや対人関係を結びにくい子どもの増加など、子どもを取り巻く環境や子どもたちの変化が言われて指摘されている。そのことは、日本の社会において「甘え」に基づいた子育ての文化が損なわれつつあることと関連が深いように思われる。

 今回は「甘え」と子育て、そしてその後の子どもの成長との関連に注目し、考察が深められることを期待し、「甘え」を特集として企画した。本特集によって、赤ちゃんやその親たちと関わる者が、「甘え」の感覚を身近なものにして、より治療的な関わり合いが持てるために活用できればと期待しているところである。」

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