たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ヒルティ『眠られぬ夜のために(第一部)』より-3月1日~3月29日

2024年05月21日 15時54分09秒 | 本あれこれ

「3月1日

 エゴイズムは何にもまして宗教と一致しないものである。したがって、われわれが何でもすべてを正しく、また心やすらかに所有しようとすれば、いったんそれをすてて(少なくとも心のなかで、ときには実際にも)、あらためて神から返してもらわねばならない。財産、名誉、よい評判、健康、働く力、家族、生活の喜びなどがそうである。いや、生命そのものでさえも例外ではない。そうしておかないと、これらすべての財宝はわれわれにとって破滅のもととなるかもしれないからだ。これが、いわゆる「試練」の意味である。われわれがすすんでそれをするか、またそれをなしうるかどうかの、検査である。創世記22。」

 

「3月2日

 さらに、気分が全般的に喜ばしさや元気にあふれているのは、これらとはまた違ったものである。こういう気分もわれわれの精神がみずから生み出したものではなく、むしろ、自然的な抑圧状態から精神を立ち直らせようとするものであって、人生の最も大きな喜びの一つである。このような気分だけは、われわれの思想を内面化して、神にしっかり結びつくことによって、ある程度よび起すことができる。」

 

「3月3日

 人生のどんな境遇においても、神の導きと助けとをかたく信じることができ、ヨハネによる福音書15の7にいわれていることをしばしば実際に経験したならば、この地上で堪えなければならない最も苦しいこと、すなわち、憂いや恐れが全くひとりでに消えうせ、人生のあらゆる困難がこの信仰を深めるための単なる修練となるであろう。しかもこの修練はついには勝利をもって飾られるが、これこそ地上の最も生きいきとした幸福である。」

 

「3月4日

 病弱はすこしも善い事を行う妨げとはならない。これまで最も偉大な仕事をなしとげたのは、むしろ病弱者であった。それに、完全な健康をもっていると、必ずとはいわないが、精神的感受性の繊細を欠くようになることが実際少なくない。あなたが健康にめぐまれているなら、神に感謝しなさい。しかし健康でなくても、そのことにできるだけ心を労せず、また妨げられないようにしなさい。たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、教養ある人にふさわしくないものだと思うがよい。」

 

「3月6日

 厭世感は、決してよい徴候ではない。これをいだく人には、肉体的か精神的に、かならずなにかが欠けている。たいてい、こういう人は、厭世感などを絶対に認め給わぬ神と親しい個人的なつながりを持たないか、あるいは全く神を信じないかのいずれかである。そのような場合、かえって精神的にすぐれた人が、時とり厭世感に見舞われるのは全く当然のことである。なぜなら、彼らは自己についても、同じような人間との交りにも、また彼ら自身の仕事にも、十分な満足を見出しえないからである。しかも、彼らが精神的にすぐれていればいるほど、一層満足がえられないのである。」

 

「3月7日

 力の許すかぎり、中絶せずに有益な仕事をすることは、たえず神の近くにあることと並んで、およそ人生が与えうる一切のうちで、最も良い、最も心を満たしてくれるものである。しかも、一旦この原則を生活の中にしっかり取り入れたならば、過度な仕事や不必要なこと、あるいはあまりにもせっかちな仕事ぶりや神経質なやり方を早くから避けることができる。」

 

「3月10日

 この世には、少なくとも見たところ罰せられもせずに、数多くの不正が行われているということは、深くものを考えない多くの人たちにとって、真に生ける正義の神の実在を信じる妨げとなっている。すべての不正にかならず内的な罰が伴わないかどうかの疑問は、かんたんに証明できないことゆえ、この際しばらく措いて、ただこう言うだけにとどめたい、すなわち、地上で罰が加えられないことがあるのは、われわれの見解からすれば、むしろ、この世ですべての勘定が清算されるのでなく、必然的になおそのさきの生活があるにちがいない、という推論を正当化するであろう、と。なぜなら、もしそういうことがなく、また、神も実在しないとすれば、およそ不正も、不正の意識もこの世にないであろうし、そして人間は、森林の野獣と同じように生まれながらの自然的必然により平気で、互いに奪い合い、殺し合うであろうから。しかし、そのような事実は明らかに存しないのだから、正義が償いを求めるのは理性の要請であって、このような神聖な正義を信じようとしない人は、理性に対し、人類に対し、神に対して、重い罪を犯すものである。エレミヤ書12ノ1・5。」

 

「3月11日

 生活を(肉体的生活をも)、十分健康で力強いものにしたければ、生活に喜びがなくてはならない。だから、なんらかの正しい喜びを持つようにしなさい。けれども、あなたが賢明であるなら、永続的な、つねに得られる喜びを、決して不正でない、つまり自責や後悔を伴わない喜びを、求めなさい。世間一般の喜びの多くは、とかくこのような感情をまぬかれないものである。」

 

「3月13日

 どんな幸福な生活にも数多く起る試練や心労を、堪えがたい重荷だと考えるか、それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのでる。」

 

「3月15日

 イザヤ書30ノ15・18。主はあなたに恵みを施される日を待っていられる。だから、あなたはいたずらに心配をしたり、いろいろ将来の計画を立てたりして、そのために、最もよい仕事の時間を多くつぶすことは全くいらない。神を信じて、神の道を誠実に進もうと努めるならば、万事はひとりでに、しかもあなたが予期するよりも、はるかにうまく運ぶのである。これによって人生は非常に楽になる。なぜなら、起るかもしれない不幸に対する心配は、ぜひとも忍ばねばならない現実の不幸よりも、一層ひどくひとの力を消耗させるからである。実際の不幸は、しばしば外的な手段や努力によってうち勝つこともできるが、しかし心配は神への強い信頼によってしか徹底的にうち勝ことができない。このような経験はだれでも持つことができる。」

 

「3月16日

 信仰は、それ自体すでに一つの幸福である。あるものをやがて手にいれることができるという十分な確信は、鑑賞している樹の花のようなものであって、あとで手にとって食べる果実よりも、真に人間の心の理想的要求にかなうものである。

 このような信仰の幸福は、未来において考えられる一切の幸福にくらべても、やはりそれに劣らぬ地上生活の美しさである。さきの世では、こうした幸福はなくなるであろう。後悔の嘆きは天国にふさわしくないので、それを後の日にしないためにも、いつかはこの幸福を味わっておかねばならない。

「きみがいまこの瞬間から追い払ったものは、決して永遠もつれ戻してはくれぬ。」(シラーの詩『諦念』より)

 あらゆる幸福感のなかで最も美しい瞬間は、所有の瞬間ではなくて、それに先立つ瞬間、すなわち、願望の実現が近づいて、すでに確実に見えはじめる時である。これをたくみに言い表わしているのはイフィゲーニエの美しい独白(モノローグ)である、「最も大いなる父(主神ゼウス)のとりわけ美しい娘である『成就』よ、こうしておんみはついに私のところに降りてくる。」(ゲーテ『イフィーゲーニエ』第三幕一場)。」

 

「3月17日

 自分でものを考え、自分の意見をもつ人がもっと数多くいさえすれば、世の中はかぎりなく良くなるであろう。たとえこのような人が反対者となっても、彼らの意見の誤りを納得させることができるので、その考えを改めさせられもする。ただひとのまねをしているだけの者は、てんで自分でものを考えようとしないから、説き伏せることもできない。

 このことを少し違った言葉でロックは次のように言っている、「世の中に間違った意見というものは、一般に考えられているほど多くはない。というのは、たいていの人は意見などまるで持たないで、他人の意見か、ただ噂や批評などの受売りで満足しているからだ。」あなたはそんな仲間に加わってはならない。」

 

「3月18日

 キリスト教が人間の魂の深い要求に適合しないならば、1500年以上の永きにわたって行われてきたように、たとえ不十分ながらもその価値が認められ、実践されるということは、とうてい不可能だったであろう。キリスト教がその実践においては多くの欠陥を示したにもかかわらず、いまなお持ちつづけている大きな価値を、その他の教え、たとえばマホメット教や仏教やある種の世界的な倫理説や哲学などが、文化民族のあいだで、持ちうるであろうとは、実際だれひとり信じるものはない。」

 

「3月22日

 自分の周りの社会的水準よりほんのわずか抜きん出た者だけが、人気があり、一般に好かれる。そういう人は、生きている間に、最大の影響力と最高の個人的幸福を手に入れることができる。しかし、死後は事情が変わる。そのときは、彼らの受くべき報酬はすでになくなっている。

 たいていの人間は、一般にそう信じられ、また自分でも認めているよりも、偉大な善き思想をたやすく受けいれうるものである。ただ、彼らにはそういう思想がしっくりしない。したがって彼らはそのすぐれて善いものをまず自分たちの水準にまで引きおろそうとする。けれどもその善き思想が、その本分を守って、おのれをまげないならば、彼らもついにそれを承認することになる。しかしながら、善きこと、正しいことを、節度と常識とを適度に加味して、人に受け入れられるような、俗耳に入りやすい形で主張するのは、なかなか大変な仕事であって、これは、神の恩寵からなすのでなく、ただ自分の考えから行動する人間には、やれないことである。」

 

「3月27日

 内的進歩をしめす最もよい徴候は、きわめて善良な、心の気高い人びとのなかにいると心地よいと感じ、凡俗な人たちのなかではつねに不快を覚えることである。

 このことは、われわれの来世の生活をも決定する。およそ、そのような生活があるとすれば、人はそれぞれ、ただ自分の精神的本性とその進歩の段階にしたがって、それにふさわしいところまで行くことができるし、また、そうなるであろう。けれども、自分の能力にないもの、それ以上のものを求めて奮起する人も、そのような切なる憧れのゆえに、そのより高い世界に属することができ、そこに迎えられて修練を受けるという恩寵にあずかるであろう。雅歌6ノ11。」

 

「3月29日

 いくらか不精な若い人たちの多くは、宗教的審理や最上の処生法を短い言葉で、いわば格言風に表現したものをほしがっている。まず、処生法を簡単にいい表わすことができるかどうか、かなり疑わしい。というのは、人生にはいろんな段階があって、それが正しく経過すれば、しだいに高い目標と見識へ進むものだからである。しかし、人生の初歩ために、そういう短い言葉がほしければ、マタイによる福音書6の33を選びなさい。これこそ、世にある最も確かなものであって、まじめにそれをためして、成就しえなかった者は、おそらく一人もないであろう。また、宗教的真理を短い文章で表現することは、信仰箇条の意図するところであって、そのなかでも、いわゆる「使途信条」は今日でもすべてのキリスト教会に共通している。一方、ヨハネによる福音書17の3は、キリスト自身から由来している信条であって、これだけでも十分であり、これならば、とにかく論争のもととなることも少なかったであろう。」

 

(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文庫より)

 

 

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