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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

渋谷駅周辺、もう日本ではありません

2024年11月23日 23時49分50秒 | 日記

 2021年6月の東急文化村『古代エジプト展』以来の渋谷駅ハチ公口、徒歩10程のところで清史郎君のファンイベントがなんとか無事に往復することができました。帰りついて自分のための家事を終えようとするタイミングで股関節の軟骨すり減りが進行してきていると思われる左足がつりそうになりましたがまだ大丈夫。楽しいひとときを過ごすことができましたが、会場の往復の道のりは、SNSの投稿にあったとおり7割方外国人でした。もともとカオスではありますが岸田政権の3年間であまりにも変わってしまいました。特に安部さんがなくなってからの岸田政権のやりたい放題により、多様な人種であふれかえっている光景は、イギリスのロンドン、フランスのパリで危ないから女性一人では歩かない方がいいと言われた場所のようでした。駅近くの施設が外国人ウエルカムのイベントをやっていて、ガラ悪い感じの人だかり。日本語よりも外国語がきこえてきて、スクランブル交差点ではスマホで写真撮りながら歩く外国人多数。外国人がサーキットカーを走らせている光景をみました。英語喋ってましたがアメリカ国籍?イギリス国籍?こんな素行の悪い外国人たち、どういうビザで入国して日本でなにをしているのでしょうか。追い返すことはできないのでしょうか。警察は日本人を守らないのでしょうか。まだ日本ですがこのままでは遠からず危なくてまともな日本人が歩けなくなる日がくるのではないでしょうか。

 外国人優遇のおかしなニュースが次々と入ってきます。バイデン政権下のアメリカと同じ轍を踏んでいるようです。こんな日本にしてしまったのは岸田と自公政権。歯止めをかけるには過度な外国人受け入れに反対する国会議員を増やしていくしかありません。日本ほんとにヤバいと思います。バス・電車の中で幼児とお母さんが乗ってきてもいい大人たちが優先席にどっかり坐ってスマホいじりで気づかぬふり。なんかほんとに日本人にヤバいですよ。

 

 参政党は過度な移民政策に反対しています。

公約 | 第50回衆議院選挙-50th House of Representatives Election- 日本をなめるな!

11月23日勤労感謝の日、もともとは新嘗祭(にいなめさい)、五穀豊穣、新穀をお祝いし、一年の実りに感謝して天皇陛下が国家の安寧を神々に祈る日。戦後GHQによってかえられてしまったのだということをこの年まで生きながらえながら知りませんでした。おそらく多くの日本人が知らないでいるでしょう。戦後教育のたまもの。気づいた人から発信していくしかありません。

Xユーザーの原 日本さん: 「今宵22:00時 天皇陛下は、祈りを捧げられます 同じ時刻に祈る事をみなさんにお伝え下さい。 天皇陛下と共に祈るという事がどれだけ大きな力と成り國家國民を安泰に導くか、神々の心を動かせる時です。我々民も祈りましょう。 https://t.co/M5Mro1QFtn」 / X


『シェイクスピアの面白さ』より‐あとがき

2024年11月23日 16時03分50秒 | 本あれこれ

『シェイクスピアの面白さ』より_エリザベス朝劇場というのは

『シェイクスピアの面白さ』より_エリザベス朝劇場とは

『シェイクスピアの面白さ』より(1)

『シェイクスピアの面白さ』より(2)

『シェイクスピアの面白さ』より(3)

『シェイクスピアの面白さ』より(4)

「まる二年、ずいぶん長々と連載させていただいたが、ちょうど12月で限りもいいので、この辺でひとまず打ち切らせてもらうことにする。が、ふりかえってみると、ひどい逍遥遊(ベリパテテイツク)で、果して題名通りの意図が達せられたかどうかということになると、われながら心細い点もないではない。(略)ただ終りにあたって一言いっておきたいのは、いわゆるシェイクスピア学などというこちたいものからはひどく遠い通俗談であったかもしれぬが、わたしなりには、故池田首相ではないが、ウソや背伸びは一つも書かなかったということである。シェイクスピア学者などから見れば、あるいはまちがっていたり、古くさかったりする内容もあったかもしれぬが、少なくともわたしとしては、ほぼ45年間、別に誰から強いられるわけでもなく、他人は知らず、ただ面白いというだけでこの作者を愛読しつづけてきた。そのわたしなりの理解をお伝えしたかった‐言葉をかえていえば、少しでもたくさんの読者諸氏にシェイクスピアの楽しみを分け合っていただきたかったというにすぎないのである。

 もちろん、かくいえばとて、わたしのシェイクスピア理解が、絶対に正しい、絶対に無謀であるなどという自信はもうとうない。つい先日だが、ある放送曲のテレビ番組で「アメリカにみる日本文化」とか題した記録ものを、たまたまひねったチャンネルで見た。例によって、日本式庭園、キモノ、テンプラ、スキヤキ等々、その辺までは別にいうこともないが、つづいて禅の流行、英語俳句の試作ということになると、正直にいって、やはりこだわった。禅がまるで現代ノイローゼの治療法みたいになってみたり、英語単語を17並べることが俳句だということになると、やはり妙な気持になるのはやむをえないであろう。

(略)

 さて以上、ひどく筆者は日本人の、そして筆者自身のシェイクスピアということを強調したようであるが、これもまた妙に野郎自大のひとりよがりに取ってもらっては困る。あくまで日本人として読む、などということを大きな声で行ったが、それは決して原作、つまり英語の原文で読むシェイクスピアを軽んじて言った意味では決してない。むしろ逆に、いささかキザな言い方になるかもしれぬが、やはりシェイクスピアのほんとうの面白さは、翻訳ではとうてい移しきれぬ。原作を、しかも細かく、綿密に読むこと(もちろん、機会さえあれば、出来不出来は別として、舞台で見ることが大切であるのはいうまもでもないが)、でなければならぬと信じている。なるほどそれも、しょせん本国人並みにはまいらぬ外国人の英語力で読むより仕方がないのだが、それにしても、翻訳で読むよりは、はるかに生きたハツラツさが伝わってくることはたしかである。

 一種の翻訳不信論のようなことにもなったから、あえてこれも一言しておくが、筆者自身も何篇か拙訳を出し、現にいまも例のフォルスタフの出る「ヘンリー四世」第二部を手がけている最中である。あえて少々口幅ったいことをいわせてもらうならば、可能なかぎりの骨は折っているつもりだし、またそう拙劣なというほどの出来でもないつもりである。だが、さればとて筆者の英語力で理解できる範囲の原作の溌剌さ、面白さすら、どこまで移しえたかということになると、わたし自身が一番よく知っているが、まず5割か6割も出しえれば御の字である。もっと正直にいえば、もどかしいまでに情けないというのが実情であろう。原作の詩の美しさが移せぬとか、ダジャレ、言葉の遊びのおかしさが日本語にならぬとか、そんなぜいたくな望みをいっているのではない。もっともっと卑近な原作の味わいさえ、訳しながらほとんど絶望的になる。

 たとえば「ハムレット」の幕開きである。ホレーショと二人の歩哨とが、またしても例の亡霊が出たか出ないかを話し合っている個所、最初マーセラスが、「あのもの」「あいつ」this thingは今夜もまた現れたかと訊く。そしてそのあと言葉を続けて、ホレーショとの亡霊についての問答について報告するのだが、その中で「あのもの」がまず「あのおそろしい見もの」this dreaded sight になり、ついではじめて「あの亡霊」this apparition となる。時間にすればほんの3、4秒のことだが、この微妙な段取りは決して簡単に見のがしていいものではないはずである。いきなり「亡霊はまた出たか?」と底を割ってしまったのでは身もフタもない。「物」がまず「見もの」になり、さらに「亡霊」となっていくところに、おそらくシェイクスピアは、なんどもないようだが、巧みに観客の好奇心を釣りよせて、やがて芝居そのものへの観客の興味をしっかりつかんでしまおうとしたものに相違ない―それがどこまで意識的であったかは別問題として、つまり、すでに円熟期に達した作者の、あるいは無意識的技術であったかもしれないからである。

 それはさておき、下手な作者ならいきなりのっけから「亡霊は」とやったかもしれないし、事実シェイクスピアでも初期の習作程度の作品には、いくらでもそれ式の荒っぽさはある。また単に芝居の筋を知るだけなら、こんな苦心などなにも要るまいが、それでは演劇ではない。お話である。やはりシェイクスピアの微妙な面白さを味わうためには、こんな細かいところまで注意して味わう必要があろうと思うのだ。ところが、さてそれを自然な日本語でそのまま移すとなると、これは実に絶望的になる場合が多い。まさか「おそろしい見もの、光景」でははじまるまいし、それではただの説明になる。

 もう一つ、やはり「ハムレット」から引いておこう。通常は第三幕第一場というのに出る例の有名なTo be,or not to be ではじまる独白である。むかしからだいたい日本語では「生きるか、死ぬか」になっている。別にこれといったよい代案もないから、別に異論は出さないが、実は決してTo die,or not to die でもなければ、To live,or not to live でもないのである。たしかに独白のあとを読むと、彼が死、あるいは自殺について考えていることは事実だが、ここで彼が疑惑、不決断の巌頭に立たされている問題は、決して単純に生死だけの問題ではない。第一には亡霊そのものが果して真に父のそれか、それとも悪魔の見せるまやかしか、それもまだこの段階では決めかねている。しかもかりに真実亡父の霊であったとしたところで、復讐すべきか否かの問題もある。さらに愛するオフィーリアの行動にまで、このところ妙に疑いの影が射している。そのほか彼自身の中にある思索型の人間と行動型の人間との矛盾もすでに感じはじめている。いわばこの時点におけるハムレットの胸中に群がり起る問題は、死生のそれをも含めて、すべてがあれかこれかの疑い、不決断に彼をさいなもうとするものばかりである。そのあれかこれかに錯綜するすべての問題に直面した不決断の心象風景こそ、To be,or not to be であったのである。決して単に「生きるか、死ぬか」だけの問題ではない。

 さらにもう一つ見のがしてはならないのは、もともとこの独白は第三幕第一場になって、国王夫妻、ボローニアス等の間でのむしろ事務的なやりとりがまず何十行かある。そしてそこへすっとハムレットがひとり出て、いきなり開口のセリフがこの一行なのである。だが、開口一ばんとはいっても、これは決して演説冒頭の一句ではない。少なくともわたしたちは、この登場前、いわば舞台裏でのハムレットからまず想像の中においておかなければならない。つまり、いいかえれば講演者かなにかが登場して、やおら生死の哲学をぶちはじめるのではないのである。この登場以前に、すでに舞台裏でもあれかこれかの切羽つまった疑惑、不決断に思い悩んでいる彼の姿を少なくとも想像しなければならない。そのハムレットがすっと出る。そしてこの悲痛な心象風景がはじめて声になって観客の耳にとどく。それがこのTo be,or not to be なのである。それを考えると、これはあんんとしてもTo be,or not to beでなければならない。まことに謎のような表現だが、この象徴的一行こそ、やはりもっとも適切に、端的に、この時点におけるハムレットの心境を要約したものでなければならない。

 そんなわけで、実はこれを一時、「ある、あらぬ、それが問題だ」と日本語にした例もあるのである。が、現在ではまた通常「生きるか、死ぬか」にもどった。(略)筆者自身も、もし日本訳をするなら、やはり現在のところ「生きるか、死ぬか」にするつもりである。だが、断っておきたいのは、これは決して満足してするのではない。いわば仕方なしにそうするよりほかないのである。(略)

 つまりシェイクスピアの翻訳を手がけている場合、もっとも苦しむのは、いわゆる難句の解釈なおではない。実はこうした一見なんでもない部分について、実に情けない思いをするのである。

 さて、いささか脱線気味になったから、この辺で本道にもどすが、まことにキザな言い方ではあるが、なんといってもやはりシェイクスピアのたまらない面白さは、原作を、しかも綿密に(といっても、文法屋の綿密さではもちろんない)たどっていったときに、はじめて満喫できる。が、それはまあ万人には無理な注文として、しかし日本語訳でも近ごろはずいぶんよくなったとわたしは信じている。だから、それら日本訳でもよい。やはりとにかく綿密に、読者自身が演出家になり、それぞれ役柄の俳優になったつもりで味わっていただきたいのである。シェイクスピア劇の筋だけを知るなどというのは、宝の山にはいって素手でかえるにもひとしい。やはり、綿密に、いわゆる行間を読み分けていくようにさえすれば、おそらくこれほど永久に新しい「近代劇」はない。現在の世界にピチピチと生きているのである。

 いつか「オセロ」の一節を引いたり、「ヴェニスの商人」のシャイロックのセリフを関西弁で試訳してみて、その近代性の一端を紹介してみたつもりだが、もちろんそんな末梢的な問題ばかりではない。たとえば、「ヘンリー四世」、とくに第二部で見事に描かれているが、フォルスタフ一味が地方へ新兵の募集に行って、金持の子弟は賄賂をとって免除してやる。貧乏人はどしどし兵隊にする。賄賂のペンはねはする。ありもしない幽霊兵士のりすとぉつくって官金は横領する。当時の世相の一面の写実でもあったろうが、これを読みながら、最近日本でも問題になった大蔵省官吏の国有地馴れ合い払下げ事件などを考えていると、どうして4百年近くも昔の地球の裏側の世界を描いたものとは思えなくなってくる。とにかくいまの日本の新聞でも一方で読みながら、シェイクスピアを味わうなどというのも一興のはずだ。いかに彼が永久に新しく、永久にハツラツと生きているかがわかるはずである。」

(中野好夫著『シェイクスピアの面白さ』219‐228頁より)

 

 

 


最終章自分自身であること-②求められる社会と企業の変革

2024年11月23日 10時39分25秒 | 卒業論文

 先にも参照した『現代日本人の意識構造[第5版]』の調査結果によれば、73年と98年の25年間で日本人が理想とする家庭像は、夫は仕事、妻は家庭という「性役割分担」から夫も妻も家庭に目を向ける「家庭内協力」へと大きく転換している。73年調査では「性役割分担」を支持する人が最も多かったが、83年の調査以降急速に減少し、98年の調査では半減している。かわって、「家庭内協力型」は83年以降毎回増加し、98年の調査では多数派になった。[1] これは、高度経済成長期に定着した企業に取り込まれた家庭、企業にとって都合のよい性別役割分業に基づいた「男女共生システム」が「女性が働き続けること」「男性が家庭のことに協力すること」というコインの表と裏を支持する国民の意識変化、つまり時代にあわなくなってきていることを示している。家庭のあり方や男女の働き方について社会や企業が変革を迫られているのである。性という要因で個人の能力とは関係なく仕事と家庭に分けられてしまうのではなく、女性にとっても男性にとっても、家庭と社会の両方とのかかわりがもっと自由に選べ、性によって固定されない生き方やまたそういう生き方が可能な社会が求められている。

 これまで日本型企業社会は、会社以外の仕事の一切を主婦に割り当て、夫や父を地域から隔離することで企業に全てを集中させてきた。しかしこの結果、会社の論理はあまりにも肥大し、今や地域や家庭を食いつくし、自らの基盤を掘り崩しつつあるように見える。夫は賃労働に、妻は無償労働にと峻別するようになった結果、男女それそれがその分担をもち協力しながら暮らしていた時代に比べると、現代社会においては男性と女性がそれぞれの本性に基づいて協同し生活することができなくなってしまった。「会社人間」の夫と「内助の妻」の共生はさびしい。家庭をひたすら家計に還元したうえで、その経済合理性を追求するべく性別役割分担を維持することは、大きな「不合理」、人間的資源の「非効率」を招いている。もはやこの関係には終止符が打たれなければならない。[2] 企業は今、出世というひとつの価値観で造られたヒエラルキーに行き詰まりを覚えている。日本型企業社会は、従来のやり方にすがりつくことを辞めて、男女問わずに知恵を引き出せる仕組みへ向けて労務管理の一つ一つを再点検する時期だ。そのためには、異質な個人を個人として評価し活用していくことも必要だ。男性は、「男は家事や育児に向いていないからできない」のでなく、たとえ帰りたくても家庭に帰れない現在の仕組みを率直にみつめることだ。「男女共生システム」を「自分に有利」と錯覚し、支持している自分自身が自分の暮らしにくさを招いているのではないか、と立ち止まって考えてみてはどうだろうか。そして女性は、彼女たちの耳元で鳴り続けてきた「女性が無能で怠慢だから働けない」という呪文を断ち切り、「こんな仕組みでは女性は力を発揮できない」という事実を、先ず声を出してきちんと主張することだ。会社に適応しようと自分をねじまげて不幸になるのではなく、適応できない自分にいらだって、ただ会社に反発するのでもなく、自分がやりたいことのために仕組みそのものを変えていくことだ。虚構を前提に作り上げられた仕組みに無理やり合わせるのではなく、対外がそれぞれの実像を確認し、実像にあった本当に効率の良い組織をどう作っていくかを考える必要がある。[3] 企男性不在のもっとも明確なのは、育児においてである。女性が仕事を続ける場合、育児は大きな課題である。女性にのみ柔軟な働き方が求められる。子供の熱がでた、ケガをした、塾の迎えなど、仕事を辞める場合と同様、女性には女性の数だけ仕事を休む「理由」がある。そこに混迷を感じると遙洋子は述べている。どれも理由になり、どれも理由にならない。[4] 働く女性は働きながら出産する女性に対して、男性以上に批判的になってしまう。事態を変えるには、出産や病気などに対応できる人員の配置や職場の都合がすべてに優先する、という企業の倫理規範を洗いなおす根本的な作業が必要だ。従来、女性は職場での変更についての決定権や発言権をほとんど持たない。しかし、今後、少子・高齢化社会の労働の担い手となる女性からの情報をきちんと受け止め生かすことは不可欠だ。もっと下位職務の女性たちの発言権と決定権が高められなければならないだろう。また、仕事と家事・育児を両立できるようにしなければならないのは女性のみではない。男女ともになのだ。仕事と家庭の両立は今度働く女性の問題から男性も含めた働く人全てにとっての問題へと拡大するだろう。欧米では普通のことながら、日本でも男性サラリーマンがある契機で自らの家庭責任を痛感し、あるいは妻の就業権を尊重して、育児休業をとったり、過度の残業や遠隔地赴任を拒んだりするとしよう。そんな行為がいささかの不利益な処分もなく擁護されるような企業社会の風土を変えること、そうした職場の変革が求められる。[5]

 憲法13条の個人の尊厳と同14条の法の下の平等は、日本国憲法の人権保障の基本的原理である。13条は、全ての人が個人として尊重されることを謳っている。「人格の尊厳」あるいは「個人の尊厳」とも言われる。「生命、自由」に続いて「幸福追求に対する国民の権利」とあるが、これを「幸福追求権」といい、人格の担い手である個人が自らの幸福を追求する権利であり、自分の生き方を決める自己決定権を含む。この憲法13条は、憲法や法律の解釈基準になるとともに、憲法に明文の規程がない新しい人権を認める根拠になる規程である。近年13条を重視する考えが強まっているが、女性の労働権の確立にとって欠かすことのできない原理である。

 14条は、全ての人が性別により差別されないと定めている。かつては、男と女は特性や役割が異なるということを前提にした性別特性論や性別役割論に基づく「平等論」が根強く存在した。この立場からは、結婚している女性は夫に扶養されるのだから、男性より定年を早くしても差別ではないとされてきた。しかし、13条の個人の尊厳の原理に立てば夫の収入がどうであれ、妻である女性にも個人の権利としての労働権があり、また、出産機能を持つ女性の労働権は保証されなければならない。[6] パートタイマーや派遣労働、契約社員の収入は、女性が経済的に自立していくには遠い金額である。これら非正社員の不当な低賃金の是正と共に、「女性に適した仕事」の低賃金を是正させる方法として重要なのは、「同一価値労働同一賃金の原則」である。「同一価値労働同一賃金の原則」とは、同じ仕事についての同一労働同一賃金だけでなく、仕事が違ってもその価値が同じなら、女性と男性に同一賃金を支払わなければならないという考え方である。長い間、「女性に適した仕事」の賃金は低いのが当たり前とされてきたが、大切なのは仕事の価値を評価する時に、性による偏見をなくすことである。例えば人の世話をする仕事は機械を扱う仕事より価値が低いとか、手先を使う細かい仕事は力仕事より価値が低いというのは性による偏った評価である。こんな偏見をなくし、女性が担っている細かい仕事、単調な仕事、頻繁に作業を中断したり、他人の後片付けをする仕事などの価値を正当に評価し直していくことがポイントである。[7] 

 また、現行の「世帯主」である男性を中心とした経済制度や社会保障制度は女性が基幹労働者として働くことの足を引っ張るものであり、根本から見直しを迫られつつある。「103万円の壁」と言われる、ライフスタイルの変化にそぐわない働く女性に制裁的な日本の税体系は問題だ。女性たちが伝統的な「女の規範」に従って「それなりの男女共生」観を自らのものとして内面化しているうちは現行の仕組みは性差別と意識され糾弾されることを免れてきた。しかし、今、女性の短期勤続、定型的または補助的な仕事、そして低賃金という「三位一体」構造も「男女共生システム」もはっきりと揺らいでいる。「三位一体」を構成する要因のいくつかはすでに変貌を遂げ、仕組み全体の安定性を揺るがせている。一方、職場の仕事においても充実したい、一人でも生きてゆけるよう職業人として自立したいと願うようになった一定比率の女性たちは、これまでの世帯単位とは異なる「シングル単位」(伊田広行『21世紀労働論』青木書店、1998年)の男女共生をようやく求め始めている。[8] 社会保障制度や福利厚生を「世帯主」単位から「個人単位」へと見直すべき時が来ている。人間本位の立場から社会制度は改善されなければならない。その時、男女共同参加型の社会が実現し、社会全体の民主化をもたらす。大切なのは、先の憲法に謳われているように「個人の尊厳」、女性にも人間として男性と平等な「労働権」が人権の柱として存在するという認識である。21世紀が少子化社会、逆の言い方をすれば高齢化社会であることを考えれば、高齢化社会の労働サービスを提供する労働者としても、また高齢化社会を財政面から支える納税者としても「個人として」の女性の存在が経済に与えるインパクトは測り知れない大きさであると言えるだろう。女性も基幹労働者として位置づけられなければならない。こうした変革は、日本型企業社会の利潤創出の仕組みの一つを崩すことで、一時、産業社会にダメージを与えるかもしれない。しかし、長いスパンでこれを考えるとき、男女共同参加型社会の実現は、内では少子・高齢化社会を乗り切る知恵と活力を生み出し、外に向けては日本型企業社会の国際化に道を拓くであろう。

 社会全体の民主化のために、社会全体が女性の役割を定義し直すことを受け入れ、支持する体制にならなければ、これまでのステレオタイプ的な、固定された性による役割を打ち破ることはできない。男性が人間らしい生き方をするためにも、性役割の変化は必要である。男性が性役割に捉われると、出世しなければならないし、人に頼ってはいけないという圧力から相互で支えあう精神はそっちのけで人間的な感情も押し殺すようになってしまう。こうして男性の役割は社会的に豊かな人間関係を築く機会を男性から奪いとっているといってよい。男女はもともとお互いに支えあうべきである。双方が人間的な幅を広げ、お互いに連帯しあうようになれば男女の間を隔てる溝は埋められ、ずっと調和の取れた円満な関係を築くことができるだろう。しかし、双方が人間として自分の持てる能力をできるだけ伸ばすためには、成長期の子供たちに親が何を押し付けているか、その態度から見直していかなければならない。調和のとれた人間関係を築くのに必要な自立心と相互連帯の精神の両方を、女の子にも男の子にも育てていくことである。親たちがこれらの特質を、男の子にも女の子にも平等に身に付けさせようと努力するなら偏りのない、バランスのとれた大人に成長していくはずである。そして、自立心と他人の心や痛みを思いやる精神は両立することを教え、人を思いやる道を示していくことである。同時に本やテレビなど、マスコミに登場する人間像にも変化を求めなければならない。マスコミの影響力は大変強力なので、本や子供の番組を作る担当者は、男女の役割に関する固定観念を捨てて柔軟な男女観を描き出す義務がある。そのような人間像を幼いうちから目にしていけば、伝統的な男女の役割に束縛される必要などないことを子供たちは肌で学んでいくだろう。学校制度も男女の伝統的役割に深く根を下ろしている。教育の目的は個人の創造力や知的探究心を伸ばすことにあり、男女の性役割を基準として生徒の評価を下すことは断固としてやめなければならない。性役割をなくすことがそのまま男女の平等につながるわけではない。男性と女性には違いがあると考えることと、女性は男性より劣っていると考えることは全く別のことである。この両者の混同が社会的政治的なジェンダー差の根底にある。意識的にせよ無意識にせよ、この混同は、民主主義の世界で理想とされる原則とは真っ向からぶつかるものである。また、人類の半数を占める女性に十分な社会参加をさせる妨げとなってきたのである。[9]

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引用文献

[1] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第5版]』49-50頁、NHKブックス、2000年。

[2] 大沢真理『企業中心社会を超えて』123頁、時事通信社、1993年。

[3] 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』200-201頁、朝日新聞社、1994年。

[4] 遙洋子『働く女は敵ばかり』19頁、朝日新聞社、2001年。

[5] 熊沢誠『女性労働と企業社会』201頁、岩波新書、2000年。

[6] 東京都産業労働局『働く女性と労働法 2003年』4頁、東京都産業労働局労働部労働課。

[7] 女たちの欧州調査団『なくそうパート/契約労働/派遣差別』54頁、2000年。

[8] 熊沢、前掲書、2-3頁。

[9] エスター・グリーングラス著、樋口恵子編訳『女と男はどうつくられる?』235-237頁、三笠書房、1985年。

 


スクランブル交差点を無事に渡れるだろうか

2024年11月23日 01時22分59秒 | 日記

 イベントで数年ぶりのハチ公口スクランブル交差点、西武の前を通るのは10数年ぶり、かつてなんどか通っているしイベント会場までの道のりも何度か歩いたことがあるはずなれど、にぎわう人々の7割がすでに外国人?自公政権がどんどん外国人を入れる政策をとっているからですが、おかしな外国人が急激に増えています。ハロウィンの夜には日本人がおらずマナーの悪い外国人であふれかえっていたとか。日比谷のスクランブル交差点を渡ることができていますが歩いている層が違うので、杖にたよる身で不安。まだいざとなれば急げるだけの力が残っていますが急に寒くなり右をかばい続けてきた左の股関節の痛みも強くなってきました。すわっていると燃えるように痺れてきたり。歩いてしばらくすると痛みが軽くなるのが変形性膝関節症。いずれ遠からず歩けなくなります。歩けなくなったら終りだと思います。いつ戦争が起きるかわからないし日本がどうなっていくのかわかりません。歩ける間だけ、生きている間だけ。スマホみながら歩く人が多くなったこともあり危険がいっぱい過ぎ。電車とバスの乗り降り含め、ほんとに危ないのです。不安神経症に打ち勝って事故にあうことなく、なんとか無事に辿り着かねばと思います。こんなきたないばあさんが参加して申し訳ないですが楽しいひとときが過ごせるようにと思います。