たんぽぽの心の旅のアルバム

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『シェイクスピアの面白さ』より(4)

2018年11月30日 18時27分28秒 | 本あれこれ



「「オセロ」という芝居がある。いまさら解説するまでもあるまいが、周知のように、イアゴーに諮られた黒人将軍オセロが、ありもしない若妻デズデモーナの不貞を疑心暗鬼して、ついにこれを殺してしまうという、いわゆる「嫉妬」の悲劇である。

 シェイクスピアの悲劇では、もっともよくまとまった破綻の少ない作品だが、それでも、果たして主人公はオセロか、イアゴーか? などという、多少珍妙な話題まで含めて、問題は決してないわけでない。そしてその大きな一つに、悪役イアゴーの動機論というのが昔からある。つまり、なぜイアゴーは、特に大して怨恨の種もありそうにないオセロに対して、ああも執拗に悪意の策謀を働きかけ、最後は破滅に陥れるのか、という心理的不可解さに関してである。無理もない疑問という点もあり、その結果が「無動機の悪」などという有名な批評論議さえでるほどであった。

 もちろん作品全体、とりわけイアゴーの独白などを読んでいくと、動機とおぼしいものは、ある程度はっきり述べられている。たとえば開幕冒頭いきなりのやりとりを聞くと、旗手のイアゴーは空位になった副官の位置を、長袖流の文弱青年キャシオに見事さらわれてしまったことがわかる。しかも昇進というのが、すべて実力よりもコネで決るというので、「あんなオセロを愛する、なんの俺に義務があるのだ」とイアゴーは強い憤懣を吐き出している。またしばらくすると(第一幕第三場)、「あいつは、俺の寝床の中で俺のつとめをしたとの噂もある」などと独白の中でもらしている。つまり、確証はないが、コキュの嘆き、つまり妻がオセロにつまい食いされたのではないかという疑惑である。昇進失敗の怨み、妻を寝取られたのではないかという疑惑、いずれもそれは当然復讐の動機でありうる。

 だが、なにぶんこの動機らしい言挙げの理由と、それが結果する罪もないデズデモーナ、オセロ両人の破滅という悲劇的結末との間に感じられる、あまりにもひどい不釣合い、アンバランスが、ついに動機論についての疑いを生む。そして真の理由はもっとほかにあるのではなかろうとか。そこで、たとえばただ悪のために悪をなす、いわば悪の芸術的天才などという解釈さえ出てくるのである。

 そんなわけで、不釣合い、アンバランスといえば、確かにそうである。コキュのほうは単に噂にしかすぎないのだし、昇進のほうも、旗手から副官といえば、せいぜい「貧乏少尉」が「やっとこ中尉か大尉」になる程度のみみっちい野心、出世欲であろう。その程度の風聞や挫折で、イアゴーともあろう眼から鼻にでも抜けるような、冷徹で聡明な男が、あの深刻な復讐の悪業をたくらむというは、どうも腑に落ちないものが残るのも当然であろう。が、そこにこそ実は、文学、あるいは演劇というものが、その時代の時代相、社会的雰囲気を鏡となって写すという、きわめて興味深い一面が見えるように思うのである。以下、そのことについて、多少読者諸君と一緒に考えてみたい。

 文学とか芝居というものは困ったもので、どうも聖人君子の美徳善行を扱ったものよりは、悪徳の描写のほうに精彩がある。ダンテの「神曲」でも、地獄篇は実に面白くて生き生きしているが、天国篇は正直に言って退屈である。イギリスのある作家などは、おそらくシェイクスピアが「オセロ」を書いているとき、イアゴーに舌なめずりするほど興味がはずんでペンが動いたであろうが、デズデモーナの部分では、ときどき生あくびを我慢しいしい書いていたのではないか、というような皮肉まで述べている。「源氏物語」で、もしあの光君が筆者のような石部金吉金兜だったら、いったいどういうことになったろうか。もしまたあの因縁めいた藤壺との間の罪がなかったら、これもひどく退屈な物語になっていたかもしれないのだ。ところで、いま当面の問題というのは、その文学に現れる悪の動機というのが、それが書かれた時代の社会相と考え合わせてみると、ときにきわめて興味ある問題を提出するように思われるのだ。

 「オセロ」が書かれ、初演されたのは、ほぼ確実に1604年と考えられる。1604年とはエリザベス女王はすでに没し、ジェイムズ一世の治政になり、暗い小唄なども流行する。いわばエリザベス朝ルネサンスの闊達な気分はすでに過ぎ、ようやく社会的矛盾や行詰りの目立つ時代閉塞の時期にさしかかっていたということである。そこで悪役イアゴーによるあの深刻な悪行の動機が、あまりにも些細な取るに足らぬものであるという事実は、一つにはまさにこうした時代相の背景の中でも考えられなければならない問題ではなかろうか、というのが筆者の「オセロ」解釈のひとつの鍵である。

 シェイクスピアは、作家活動の初期から中期にかけ、つまりエリザベス朝ルネサンスのさ最盛においても、十篇に近い悲劇、史悲劇を書いている。「ヘンリー六世」三部作、「リチャード三世」、「リチャード二世」等々である。そしてこれらにも、もちろん有名な悪役は登場する。たとえば典型的なのはリチャード三世であろう。だが、これら悪役の悪行は、悪は悪でも壮大である。リチャード三世でいえば、肉体的にも身分的におインフェリオリティ・コンプレックスに悩む彼が、王位奪取という野望を賭けての大悪業だった。血が血を呼ぶ残忍な殺しも、すべてはこの大野心を軸に回転した。しかも最後に戦場で身の危険が迫ってくると、その王国さえ捨ててかりみない。「馬を引け!王国くらいくれてやる!」という例の有名な絶叫をくりかえす。悪は悪でも壮大である。

(略)

 王国など馬一頭ほどにも値しなかった「リチャード三世」の傲慢な悪役ぶりから、「やっとこ大尉」になりそこねてのイアゴーの執拗冷徹な悪行への変化、そこにも明らかに時代相の変化が、まるで鏡に映したように移されているような気がするのである。もちろん「オセロ」を、時代を超えた普遍相の悲劇として、イアゴーの悪の動機を考察するのも、一つの行き方にはちがいないが、必ずしもそうした「永遠の相の下において」見るだけでなく、これをイギリス・ルネサンス、言葉をかえていえば、エリザベス朝という特定の時代の中に泳がせてみることも、そこにはおのずからまた別の興趣が湧くのである。」

(中野好夫著『シェイクスピアの面白さ』より) 




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