たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『シェイクスピアの面白さ』より(1)

2017年10月30日 19時14分56秒 | 本あれこれ
 エリザベス一世が女王として戴冠式を迎えるまでの若き日々をを描いた物語、『レディ・べス』帝国劇場にて上演中。





 「通常いわれる言い方は、シェイクスピアはいわゆるエリザベス朝に生きたということである。正しいが、正確にいうと多少の補足を必要とする。シェイクスピアの生れた1564年はエリザベス一世治世の7年目であり、1603年(シェイクスピア39歳)彼女の崩ずるまでは、たしかにエリザベス朝時代であった。だが、そのあとは継嗣がなかったので、まことに遠縁にあたるジェイムズ一世が、スコットランドからはいって王位につく。これは単に王位が変ったというだけでなく、歴史的にいえばテューダー家からスチュアート家へと、王朝の大きな変化である。しかも、あとでも多少触れる機会があるかもしれぬが、イギリスの時代相とい
うか、社会の空気というか、それがこの治世者の交替を転機として、大きく上昇線から下降線へと変化を示していることも、どうやら否定できない。そうしたことと関係があるかないかは別として、 このジェイムズ朝にはいってわずか数年すると、シェイクスピアは四十代も半ばすぎで筆を折ってしまうことになるというわけ。

 
 なんといってもシェイクスピア作品の面白さと結びつくのは、エリザベス朝の社会的雰囲気、そして思想的姿勢ということであろう。しかも、それはどうやらエリザベス一世とい う稀に見る興味深い一人の女の性格像と、決して無関係ではないように思えるのである 。

 
 とにかくこのエリザベス一世という女帝は、知れば知るほど人間としてとてつもなく面白い。あるいはシェイクスピアの作品以上に面白いといっても過言ではない。


 考えてみると、エリザベスの前半生ほど数奇という言葉がそのままあたる人間もあるまい。彼女はヘンリー八世の娘として生れた。このヘンリー八世というのがまた、英傑と悪魔とを完全に同居させたような人物だったが、エリザベス王女は生れて三年、まだ満三歳にもならないときに、その実母(アン・ブリン。ヘンリー八世の二番目の妻)は父の命によって断頭台で首をはねられている。またこえて九歳の春には、彼女が深く馴れ親しんでいた継母、すなわち父ヘンリー八世の五人目の妃が、これまた実母と同じ断頭台上におくられた。少女時代にはいっては、いくどか官廷内の陰謀事件に関連を疑われて、とかく日陰の身をかこっているが、ことに1554年に起ったある未遂の叛乱陰謀事件では、21歳の彼女までロンドン塔に送られ、その後やっと濡れ衣ははれるが、文字通り断頭台の一歩手前まで行った。もちろん当時は、王位が転げこんでくるなど思いもよらなかった。したがって、1558年25歳ではからずも王位についたなどというのも、文字通り運命の不思議というよりほかないが、ということは、この齢までの彼女は、ほとんど庶民の娘も知らぬほどの苦労と経験をなめたにちがいない。人間の運命の測り難いこと、人の心の頼りにならぬことなど、おそらくいやというほど身にしみて味わったにちがいない。そこはおどろくべき聡明な彼女である。彼女45年の治政成功の秘密の底には、明らかにこの娘時代の体験が見事に生かされていたと考えるしかない。

 
 あるシェイクスピア学者は、彼の生きた時代をイギリス史におけるもっとも悲惨な二つの内戦、いわば二つの暴風雨の間にはさまれた一つの長い晴れ間であったと要約している。そういえば、30年(1455‐85)にわたったバラ戦争の記憶は、ようやく人々の頭からうすれるとともに、来るべき清教徒革命(1642―49)の災厄は、シェイクスピアの晩年になって、ようやく無気味な予兆を現わしはじめたにすぎなかった。いわゆるエリザベス朝の興隆は、まさに文字通りこの比較的長い晴れ間の繁栄だったのである。


  もっとも、かくいえばとて、この晴れ間が完全な無風平穏の好日ばかりだったのでは、もちろんない。とりわけヘンリー八世とエリザベスとの両治世をつなぐエドワード六世、メリー女王のそれぞれ短い二つの治世は、それぞれ極端な新旧両宗教政策の強行によって、文字通り報復が報復を呼び、血で血を洗う不安と動揺の一時期であった。それだけに、エリザベスが王位につくことになったとき、イギリス国民はこぞって、国家の統一とその平和とを熱望していたといってよいが、さてその処女王は、いかにして国民のその期待を彼女一身の上にあつめたのであろうか。

 即位後まもなく、彼女が下院において行なったという有名な演説がある。その一節を引いてみると、

「わたしは、すでにイギリス国家という夫を獲たのである。わたしに子供がいないからといって咎めないでいただきたい。あなた方のすべて、わたしの血縁であり、子供であるからである。神がこの子供たちを奪いさらないかぎり、わたしは石女(うまずめ)というそしりを受けるいわれはない。もしわが墓の上に、わたしの最後の息をもって、『ここに処女として統治し、処女として逝きしエリザベス眠る』と刻まれるにしても、それはわたしの名前の思い出として、またわたしの栄光として、十分の満足である」


 これがわずか25歳の娘の発言だったのである。当時の女で25歳といえば、また彼女が王位にあるということだけでも、その結婚問題は全国民にとって多少の不安をさえまじえて
の重大関心であったはず。その関心を巧みに利用して、イギリスという国家、そしてその国民こそが「わたしの夫」だと宣言してしまったのである。まことに心憎いまでの殺し文句といわねばなるまい。そして事実、終生独身をまもったばかりか、即位当時は、相次ぐ内政の失敗による混乱、国庫の疲弊、国防力の弱化と相まって、ほとんどヨーロッパでも第二流の国家にしかすぎなかったイギリスを、わずか30年にしてヨーロッパの覇権を賭ける新興の 強大国に仕上げてしまったのである。わが明治日本の興隆期を、好むと好まないにかかわらず、明治天皇という一個の人間像と切り離して考えることが困難なように、エリザベス朝イギリスもまたこの処女王の存在を抜きにして語ることはまず不可能であろう。」


 3年半前『レディ・べス』を観劇したときは、そこまで理解しようという余裕が全くありませんでしたが、こうして読んでみるとべスの姉メアリーが王位につくと、イギリスの後ろ盾を求めてスペイン王との結婚を強く望んだこと、スペイン王の息子フェリペ皇子とメアリーが結婚することになったとき、イギリスにスペインの王は要らないと民衆が強く反発してべスの即位を強く望んだという物語の流れがしっくりときます。綾ちゃんべス、女王になるというあらがえない運命をどこかで予感しながら聡明に少女時代を過ごした感じがよく出ていて素敵でした。


シェイクスピアの面白さ (講談社文芸文庫)
中野 好夫
講談社

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