たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

マイナ保険証がなくても資格確認書が自動的に送られてくる

2024年05月21日 22時45分56秒 | 気になるニュースあれこれ

 現行の健康保険証廃止にあたって、マイナ保険証がなくても資格確認書が自動的に送られてくるそうです。川内博議員の国会の質疑で明らかになりました。これまで流れて来るニュースからは申請が必要であるかのようにきこえていました。なら現行の健康保険証を廃止する必要がありますか?っていう話。

任意のはずのマイナンバーカードと保険証を一体化してマイナンバーカードを無理矢理つくらせようとするとか、農家に応援金を出すどころか罰金を課そうとするとか、この国どうなってます?

 

2024年5月21日衆議院農林水産委員会

川内博議員質疑、

(595) 【ヒロシの国会質疑(編集なし)】「食料供給困難事態対策法案」〜農業従事者に課す生産計画と刑事処分(罰金)の必要性について②〜2024年5月21日衆議院農林水産委員会 - YouTube


ヒルティ『眠られぬ夜のために(第一部)』より-3月1日~3月29日

2024年05月21日 15時54分09秒 | 本あれこれ

「3月1日

 エゴイズムは何にもまして宗教と一致しないものである。したがって、われわれが何でもすべてを正しく、また心やすらかに所有しようとすれば、いったんそれをすてて(少なくとも心のなかで、ときには実際にも)、あらためて神から返してもらわねばならない。財産、名誉、よい評判、健康、働く力、家族、生活の喜びなどがそうである。いや、生命そのものでさえも例外ではない。そうしておかないと、これらすべての財宝はわれわれにとって破滅のもととなるかもしれないからだ。これが、いわゆる「試練」の意味である。われわれがすすんでそれをするか、またそれをなしうるかどうかの、検査である。創世記22。」

 

「3月2日

 さらに、気分が全般的に喜ばしさや元気にあふれているのは、これらとはまた違ったものである。こういう気分もわれわれの精神がみずから生み出したものではなく、むしろ、自然的な抑圧状態から精神を立ち直らせようとするものであって、人生の最も大きな喜びの一つである。このような気分だけは、われわれの思想を内面化して、神にしっかり結びつくことによって、ある程度よび起すことができる。」

 

「3月3日

 人生のどんな境遇においても、神の導きと助けとをかたく信じることができ、ヨハネによる福音書15の7にいわれていることをしばしば実際に経験したならば、この地上で堪えなければならない最も苦しいこと、すなわち、憂いや恐れが全くひとりでに消えうせ、人生のあらゆる困難がこの信仰を深めるための単なる修練となるであろう。しかもこの修練はついには勝利をもって飾られるが、これこそ地上の最も生きいきとした幸福である。」

 

「3月4日

 病弱はすこしも善い事を行う妨げとはならない。これまで最も偉大な仕事をなしとげたのは、むしろ病弱者であった。それに、完全な健康をもっていると、必ずとはいわないが、精神的感受性の繊細を欠くようになることが実際少なくない。あなたが健康にめぐまれているなら、神に感謝しなさい。しかし健康でなくても、そのことにできるだけ心を労せず、また妨げられないようにしなさい。たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、教養ある人にふさわしくないものだと思うがよい。」

 

「3月6日

 厭世感は、決してよい徴候ではない。これをいだく人には、肉体的か精神的に、かならずなにかが欠けている。たいてい、こういう人は、厭世感などを絶対に認め給わぬ神と親しい個人的なつながりを持たないか、あるいは全く神を信じないかのいずれかである。そのような場合、かえって精神的にすぐれた人が、時とり厭世感に見舞われるのは全く当然のことである。なぜなら、彼らは自己についても、同じような人間との交りにも、また彼ら自身の仕事にも、十分な満足を見出しえないからである。しかも、彼らが精神的にすぐれていればいるほど、一層満足がえられないのである。」

 

「3月7日

 力の許すかぎり、中絶せずに有益な仕事をすることは、たえず神の近くにあることと並んで、およそ人生が与えうる一切のうちで、最も良い、最も心を満たしてくれるものである。しかも、一旦この原則を生活の中にしっかり取り入れたならば、過度な仕事や不必要なこと、あるいはあまりにもせっかちな仕事ぶりや神経質なやり方を早くから避けることができる。」

 

「3月10日

 この世には、少なくとも見たところ罰せられもせずに、数多くの不正が行われているということは、深くものを考えない多くの人たちにとって、真に生ける正義の神の実在を信じる妨げとなっている。すべての不正にかならず内的な罰が伴わないかどうかの疑問は、かんたんに証明できないことゆえ、この際しばらく措いて、ただこう言うだけにとどめたい、すなわち、地上で罰が加えられないことがあるのは、われわれの見解からすれば、むしろ、この世ですべての勘定が清算されるのでなく、必然的になおそのさきの生活があるにちがいない、という推論を正当化するであろう、と。なぜなら、もしそういうことがなく、また、神も実在しないとすれば、およそ不正も、不正の意識もこの世にないであろうし、そして人間は、森林の野獣と同じように生まれながらの自然的必然により平気で、互いに奪い合い、殺し合うであろうから。しかし、そのような事実は明らかに存しないのだから、正義が償いを求めるのは理性の要請であって、このような神聖な正義を信じようとしない人は、理性に対し、人類に対し、神に対して、重い罪を犯すものである。エレミヤ書12ノ1・5。」

 

「3月11日

 生活を(肉体的生活をも)、十分健康で力強いものにしたければ、生活に喜びがなくてはならない。だから、なんらかの正しい喜びを持つようにしなさい。けれども、あなたが賢明であるなら、永続的な、つねに得られる喜びを、決して不正でない、つまり自責や後悔を伴わない喜びを、求めなさい。世間一般の喜びの多くは、とかくこのような感情をまぬかれないものである。」

 

「3月13日

 どんな幸福な生活にも数多く起る試練や心労を、堪えがたい重荷だと考えるか、それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのでる。」

 

「3月15日

 イザヤ書30ノ15・18。主はあなたに恵みを施される日を待っていられる。だから、あなたはいたずらに心配をしたり、いろいろ将来の計画を立てたりして、そのために、最もよい仕事の時間を多くつぶすことは全くいらない。神を信じて、神の道を誠実に進もうと努めるならば、万事はひとりでに、しかもあなたが予期するよりも、はるかにうまく運ぶのである。これによって人生は非常に楽になる。なぜなら、起るかもしれない不幸に対する心配は、ぜひとも忍ばねばならない現実の不幸よりも、一層ひどくひとの力を消耗させるからである。実際の不幸は、しばしば外的な手段や努力によってうち勝つこともできるが、しかし心配は神への強い信頼によってしか徹底的にうち勝ことができない。このような経験はだれでも持つことができる。」

 

「3月16日

 信仰は、それ自体すでに一つの幸福である。あるものをやがて手にいれることができるという十分な確信は、鑑賞している樹の花のようなものであって、あとで手にとって食べる果実よりも、真に人間の心の理想的要求にかなうものである。

 このような信仰の幸福は、未来において考えられる一切の幸福にくらべても、やはりそれに劣らぬ地上生活の美しさである。さきの世では、こうした幸福はなくなるであろう。後悔の嘆きは天国にふさわしくないので、それを後の日にしないためにも、いつかはこの幸福を味わっておかねばならない。

「きみがいまこの瞬間から追い払ったものは、決して永遠もつれ戻してはくれぬ。」(シラーの詩『諦念』より)

 あらゆる幸福感のなかで最も美しい瞬間は、所有の瞬間ではなくて、それに先立つ瞬間、すなわち、願望の実現が近づいて、すでに確実に見えはじめる時である。これをたくみに言い表わしているのはイフィゲーニエの美しい独白(モノローグ)である、「最も大いなる父(主神ゼウス)のとりわけ美しい娘である『成就』よ、こうしておんみはついに私のところに降りてくる。」(ゲーテ『イフィーゲーニエ』第三幕一場)。」

 

「3月17日

 自分でものを考え、自分の意見をもつ人がもっと数多くいさえすれば、世の中はかぎりなく良くなるであろう。たとえこのような人が反対者となっても、彼らの意見の誤りを納得させることができるので、その考えを改めさせられもする。ただひとのまねをしているだけの者は、てんで自分でものを考えようとしないから、説き伏せることもできない。

 このことを少し違った言葉でロックは次のように言っている、「世の中に間違った意見というものは、一般に考えられているほど多くはない。というのは、たいていの人は意見などまるで持たないで、他人の意見か、ただ噂や批評などの受売りで満足しているからだ。」あなたはそんな仲間に加わってはならない。」

 

「3月18日

 キリスト教が人間の魂の深い要求に適合しないならば、1500年以上の永きにわたって行われてきたように、たとえ不十分ながらもその価値が認められ、実践されるということは、とうてい不可能だったであろう。キリスト教がその実践においては多くの欠陥を示したにもかかわらず、いまなお持ちつづけている大きな価値を、その他の教え、たとえばマホメット教や仏教やある種の世界的な倫理説や哲学などが、文化民族のあいだで、持ちうるであろうとは、実際だれひとり信じるものはない。」

 

「3月22日

 自分の周りの社会的水準よりほんのわずか抜きん出た者だけが、人気があり、一般に好かれる。そういう人は、生きている間に、最大の影響力と最高の個人的幸福を手に入れることができる。しかし、死後は事情が変わる。そのときは、彼らの受くべき報酬はすでになくなっている。

 たいていの人間は、一般にそう信じられ、また自分でも認めているよりも、偉大な善き思想をたやすく受けいれうるものである。ただ、彼らにはそういう思想がしっくりしない。したがって彼らはそのすぐれて善いものをまず自分たちの水準にまで引きおろそうとする。けれどもその善き思想が、その本分を守って、おのれをまげないならば、彼らもついにそれを承認することになる。しかしながら、善きこと、正しいことを、節度と常識とを適度に加味して、人に受け入れられるような、俗耳に入りやすい形で主張するのは、なかなか大変な仕事であって、これは、神の恩寵からなすのでなく、ただ自分の考えから行動する人間には、やれないことである。」

 

「3月27日

 内的進歩をしめす最もよい徴候は、きわめて善良な、心の気高い人びとのなかにいると心地よいと感じ、凡俗な人たちのなかではつねに不快を覚えることである。

 このことは、われわれの来世の生活をも決定する。およそ、そのような生活があるとすれば、人はそれぞれ、ただ自分の精神的本性とその進歩の段階にしたがって、それにふさわしいところまで行くことができるし、また、そうなるであろう。けれども、自分の能力にないもの、それ以上のものを求めて奮起する人も、そのような切なる憧れのゆえに、そのより高い世界に属することができ、そこに迎えられて修練を受けるという恩寵にあずかるであろう。雅歌6ノ11。」

 

「3月29日

 いくらか不精な若い人たちの多くは、宗教的審理や最上の処生法を短い言葉で、いわば格言風に表現したものをほしがっている。まず、処生法を簡単にいい表わすことができるかどうか、かなり疑わしい。というのは、人生にはいろんな段階があって、それが正しく経過すれば、しだいに高い目標と見識へ進むものだからである。しかし、人生の初歩ために、そういう短い言葉がほしければ、マタイによる福音書6の33を選びなさい。これこそ、世にある最も確かなものであって、まじめにそれをためして、成就しえなかった者は、おそらく一人もないであろう。また、宗教的真理を短い文章で表現することは、信仰箇条の意図するところであって、そのなかでも、いわゆる「使途信条」は今日でもすべてのキリスト教会に共通している。一方、ヨハネによる福音書17の3は、キリスト自身から由来している信条であって、これだけでも十分であり、これならば、とにかく論争のもととなることも少なかったであろう。」

 

(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文庫より)

 

 


「甘え」を考える②

2024年05月21日 00時07分21秒 | グリーフケア

「甘え」を考える①

(乳幼児精神保健学会誌Vol.23 2010年3月号より)

「テーゼⅡ;「甘え」は分離を前提としているので充たされることはない。

 母子関係には、素直な甘えがある。誰でもがそのことを知っている。しかし、事態はもっと複雑である。何らかの意味で甘えは屈折する。そこに病的な甘えが生ずる。神ならぬ人の愛は不完全である。人は皆、幾分か屈折した甘えを生きる。結論的には、人の甘えは素直な甘えと病的な甘えの両価性を持つ。ここに甘えと恨みのアンビバレンツ(両価性)が生ずる。人は甘えの二面性をもって生きることになる。それ以外の選択肢はない。

 甘えが両価的なのは、甘えが分離を前提としているからである。甘えの欲求は一体化の欲求である。自分と対象が一体となりたいとする欲求である。比喩的にいえば、それは子供が胎内にいる時へと復帰する願望である。母体の中では胎児は完全に守られ充足している。しかし、赤子は出生と共に母体から分離し無力で傷つきやすいまま、厳しい外界へと投げだされてしまう。胎児は臍の緒を切った瞬間に母胎と分離してしまったのである。つまり、この世に生まれた以上は一体化の欲求、甘えは完全には充たされることはない。

 この理由からフロイトも土居も「無力感、寄る辺なさ(helplessness)」と「傷つきやすさ(vulnerabillty)」という一見、悲観的で救いのない状況から思考を始める。土居先生の観察は鋭い。赤子に甘えの行為が認められるのは、この分離を前提としてである。それ故に甘えには本来、挫折が含まれる。甘えから受容と禁止の二面性を払拭できないのはこのためである。むしろ、その二面性こそが甘えの大事な特性である。

 

テーゼⅢ;人は甘えを超越しようとする

 外界の危機に対して、子どもは本能的に防衛手段をとる。傷つきやすさから本能的に身を守る。先ず子供は自ら甘えを恐れ禁止する。甘えがなければ傷つかない。甘えなんか初めからないという否認の態度を学習する。「甘え」ては「いけない」という禁止を心の内におく。原初的な罪悪感の発生である。ここで罪悪感とは恐怖感である。甘えの欲求とそれを禁止する罪悪感の間で葛藤が生ずる。こうして甘えの欲求そのものも両価的に分裂する。ここに「甘え」と「恨み」の両価性が生ずる。人は依存対象を求め、必然的に挫折し、痛みを体験する、「恨み」を身に着ける。つまり甘えを取り上げる以上は甘えの傷つきやすさ、両価性、罪悪感に注目することになる。土居先生が頻繫に「なぜ甘えてはいけないと思うのか」と問い掛けるのは、この原初的な罪悪感に切り込む定型的な技法であった。

 人の甘えは挫折する。甘えは傷つきやすい。そして、大人になるにつれて人は甘えを罪悪感とタブーの中におく。無意識の中におく。つまり、大人では幼児的な甘えは超越されねばならない。しかし、甘えの超越とは甘えがなくなることではない。甘えは形を変え都合の良い依存対象に向かうだけのことである。大人になるにつれて甘えの挫折を先取りして、より確かな依存対象を求めることになる。大人が手に入れる新しい依存対象の一つが「自分」のイメージでる。確かな「自分」というイメージを幻想的に確立する。ここに「自分」の意識が形成される。自己と他者のイメージが分化する。こうして確かな自分、「自我の確立」という幻想が形成される。

 ウィニコット、D.W.のホールディング(抱く)という概念を引用し、「抱っこしてあげれば甘えは充たされる」と安易に紹介する本もある。当人がそんなに甘い主張をしているとは思わない。これでは甘えの挫折という本来の宿命的テーマが見えなくなる。つまり、甘えにあるのは宿命的な葛藤であり挫折であり痛みなのだ。甘えを受け止めるとは、甘えをめぐる痛みを受け止めることである。子や親の痛みを受け止める。甘えを完全に満たすことなどは人には出来ない。そこには何らかの意味で甘えからの超越が必要になる。超越。一歩、踏み出すこと、その方法を個人に応じて探り出すのが実践である。

 

テーゼⅣ;信頼は甘えを超越する

 甘えの挫折は自他の分離を生み、そこに「自分」の意識が成立する。しかし、確立された自我だけでは、他者と交わることは出来ない。孤独し自閉的な自己愛的な自我となる。そこでは甘えは形を変え「自分」と他者を結び付けて、「私たち」を形成する。一度、確立した自我は自分の壁を超える。土居先生はその新しいつながりの中心に「信頼」という語を置いた。この意味で、信頼は甘えを超越するのである。信頼の本体は甘えである。しかし、それは甘えを超えた甘えである。この信頼の語こそが重要であるが、現代思想のアキレスの踵といわれる言葉でもある。考えるほど複雑さが分かり、分かりにくいテーマであると分かる。思索者が主題化することを避けてしまうテーマである。

要するに、子供と大人の間の甘えも、いずれは信頼関係に発展しなくてはならない。人とのむすびつきの何処に信頼の端緒を見出すか。こうして「信頼」の一語とともに、土居先生の思考は「信じること」、「祈ること」へと展開していく。ここには信仰問題につながる土居先生の深い思考が展開する。

 実は、「素直な甘え」と「病的な甘え」の対比にも信仰問題が形を変えて内在している。まずは、土居先生のいう「素直な甘え」の原型を見てみよう。ミケランジェロの「ピエタ」の彫刻。それは十字架から降ろされたイエスを膝の上に抱くマリアの姿である。他にもある。聖書のマリアとマルタの物語。イエスの言葉を無心で傾聴するマリア。そこで赤子のような「素直な甘え」が語られる。赤子のようでなければ天国には入れないという聖書の一説が語られる。土居先生の「甘え」の両価性という言葉の背後には、キリスト者として、神の愛と人の愛の対比がある。

 要するに生身の人間は純粋で素朴な甘えの世界にとどまるのは困難なのだ。神の愛のように完全ではないが、決して無意味とは言えない人の愛への共感的で両価的な評価。ここでは、これ以上、この問題に深入りは避けよう。関心ある方は参考文献を当たってほしい。

 要するに人間は不完全であり、甘えも不完全であり、その受け止めも不完全である。その限界から新たな一歩を如何に踏み出すか。これが本来の甘えのテーマである。

 

3.「甘え」という人間関係

 ここまでは土居先生の書いたものに添って、彼の思索過程を紹介した。全体を振り返ってみると、子供であれ大人であれ、甘えからは人と人との関係が見えてくる。この意味では「甘え」理論とは対人関係論なのだ。

「甘え」の欲求は対象との一体化の欲求と定義される。しかし、実際に土居先生によって記載され分析される甘えの現象はこの定義には収まらない。幼児期の母子関係に限っても、依存関係には二つの意味が含まれる。それは縦の関係と横の関係の二つである。縦の関係とは一方の人が絶対的優位にあり、他方がそれに依存する関係である。それは乳を与える母と与えられる赤子の関係である。母は絶対者、子は依存者である。一方的な依存関係である。これはフロイトのいう口唇期の名にふさわしい。

 一方、甘え合う母子の姿はお互いに甘え合っているのであるから、その関係は上下ではなくて相互的である。横の関係である。それは触れて触れられる皮膚感覚に似ている。「ふれあい」、「やさしさ」という言葉が似つかわしい。

 こうして甘えに縦と横の関係の二面性を見る。つまり対人関係における権威性(autority)と相互性(reciprocity)の二つである。まさに土居先生の「甘え」理論は対人関係論である。

 

4.おわりに

 人の愛は不完全である。つまり、甘えについて子も親も援助者も確かな答を持ってはいない。在るのは禁止と受容の両価性だけである。挫折と痛みである。それ故に援助者と母が協力して一緒に「素直な甘え」の発現を試行錯誤で求めていくことになる。そこに「信頼」関係を探っていく。でも、人を信頼することは、人にとって、もっとも勇気が要る難しい行為である。こうして甘えについての問は将来に向かう「生」の探索行為へと私たちを導く。

 冒頭に上げた弁当のエピソード。先生が母へ向けたほのかな敬意と信頼。甘えで大切なのは、この些細な気付きである。その発見が人と人を結び付け、時に、子を人を救う。甘えはあくまでも人間という不可解な存在の深部、誕生の謎に関わる言葉である。ところが、甘えに関わる者は甘えという余りにも馴染みのある言葉によって、「甘えなんかは分かっている」という態度をとってしまう。それこそが「甘い」のである。「甘え」のトリックに落ちたのである。自己の内なる甘えを卒業した人、甘えの本質を知り尽くした人、ましてや甘えを支配できる人、そんな人はいない。「私は甘えを抱きとめられる」と信じるのは大人が持つ幻想の最たるものである。甘えの現場に必要なのは何らかの意味で、超越、つまり、援助者自身が一歩、踏み出すことである。」」