妄想による愉快な国際時事ネタ解釈
四生の盲者日記
銃乱射事件について
まず、被害者のご冥福を祈りたい。
個人的な話、筆者は1989年の天安門事件当時北京に在住しており、それなりの影響を受けた。影響の一つに、なぜ世界中の国全てが先進国になれないのか、という疑問がある。ある意味、あの事件に立ち会った筆者生涯のテーマといってもよい。
無くなった人がいるのに、話題にするのは嫌なのだが、表のテーマ「妄想」に隠した上記テーマの一理解になりそうなので紹介しておく。
「中国人犯行」誤報に不快感=報道道徳に反すると報道官(和文、時事)
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007041800897【北京18日時事】中国外務省の劉建超報道局長は18日、米バージニア工科大学で起きた銃乱射事件の犯人が当初「中国人留学生」と間違って報道されたことについて「無責任な報道であり、報道職業(ジャーナリスト)道徳に違反している」と強い不快感を示す談話を発表した。中国側は既に、関係者に対して「(誤報による)深刻な影響を取り除く」よう要求したという。
中国外公部の発表内容はこちら
・劉建超報道官バージニア工科大学銃撃事件誤報について記者会見(中文、外交網)
http://www.fmprc.gov.cn/chn/xwfw/fyrth/t312240.htm
回答については、上記時事の記事のままだが、その回答を引き出した質問から「(犯人が中国人留学生だという報道が)国際社会によくない影響をあたえた」という一文が抜けている。
劉建超はこの一文については否定せずに上記の回答をしている。ロジックとして、「犯人が中国人であることは国際的によくない」のが前提となっている。
個人をその個人が属する集団と同一視する、民族主義-いや「中国」が他民族国家である以上「中国民族」なるものは存在しえないのでむしろ全体主義-の匂いがして筆者などは反発を覚えるのだが、韓国の報道や上記の発言などを見ると「アジアではごく普通の発想」のようだ。
そういえば同じアジアの新聞でも、社説に次のような一文をのせていた
「容疑者が韓国出身というのは気になる。友人関係のトラブルではないかとの見方も浮上している。これがアジア系に対する人種的な問題を引き起こさないように願いたい。」
http://www.asahi.com/paper/editorial20070418.html#syasetu2
これなども「個人を認めない」発想が前提になければ書けない。リベラルを自認する新聞社が、全体主義を前提にした社説を書くのもおかしな話。
このあたりは米国人にとっても奇異に映るらしくTIMEを下記のような記事を載せていた。
・韓国人の集団責任の概念(英文、TIME)
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1611964,00.html
以下私見
構成員が民族、宗教にかかわらず、全体として合理的な行動を取りうる社会、でなければ近代的市民社会ではない。
であればこそ、成熟した市民社会において、構成員は所属する民族、宗教ではなく、個人の資質のみで評価される。
社会ではなく、組織、集団と呼称してもよい。
実をいうと、このような社会は構成員の人的資産を活用するには有効であるが、個人が個人の資質のみで外部と相対しなければならず、決して居心地のよいものではない。
「華人」とか「同胞」という、上記の概念から言えば非近代的な社会に繭のようにくるまり、共通項のみで外部に相対した方が、個人としては楽である。ただし個人に自覚があればよいが、一人でも無自覚な行動をとれば社会全体が同じ評価を受ける。
そのような前近代的社会にいて初めて、個人と全体を同一視する発言が可能なのだろう。
上に書いたとおり、それでは個人の人的資産を有効に活用できず、他の(近代的)社会との競争において著しく不利なのだがそれは別の話。