闇夜に蠢くもの(7)-忘れられた林道
今回の記事は、今月12日に投稿した「37回目の夏-失われたウェストサイドストーリー」を少なからず補足する内容となります。
同記事の締めくくりに私は次のように書きました
その時西側で何が起きていたのか、それが事件解明の鍵
であると。
これには少々付け加えなければいけないことがあります。西の長野側が極めて重要なのは変わりませんが、これは何も123便遭難現場の西側だけを良く見ろという意味ではありません。、本事件は現場を中心とした数キロ圏内だけではなく、東西南北数10キロ圏内まで視野を広げないと、その時何が行われていたか全体が見通せないという意味も含んでいます。
数日前、私は次の写真の場所を訪ねました。調査目的もありますが、自分の中では123便事件犠牲者の慰霊という大きな意味も含んでいます。
写真1:閉鎖された中津川林道(秩父市王冠キャンプ場付近で撮影)
中津川林道もとい秩父市道大滝幹線17号線は、長野県の川上村と埼玉県の秩父市を繋ぐ林道です。未舗装区間が多く、落石などでしょっちゅう通行止めになる峠道でもあります。現在も昨年から通行止めの状況が続いています。
実はこの林道、123便遭難地点、いわゆる御巣鷹の尾根の尾根続きの南側にある「三国峠」(みくにとうげ)を超えています。
画像1:中津川林道とその周辺
川上村と上野村の間には古来からの通商回廊があったという(地元談)
これまでの123便関連報道、及び関連書籍を読む限り、遭難現場よりはかなり北側にあるぶどう峠の話はよく出て来るのに、何故か現場により近いこの三国峠については殆ど登場することはありません。
これは、直線距離にして上野村の半分程度、遭難現場に最も近い川上村に救難支援本部が設置されなかったことと同様にこの事件の大きな謎であると言えます。そしてこの林道が注目されない、あるいはここに注目させない大きな理由として考えられるのが、
事件隠蔽の回廊として使われた
のではないか、具体的には戦闘機破片や搭乗員、また現地に展開し死亡した戦闘員の遺体などを輸送するルートに使われたのではないかという疑いなのです。
私の分析では、軍用機やその他の123便以外の航空機の墜落数は最低でも15機以上であり、そんなにたくさんの物証が落ちていたら絶対にバレるだろという読者様の疑問もよく分かります。
しかし、隠し通せるはずのないものをどうやって隠すのか、隠す側の心理に立てば解決の為の戦術はそれほど難しくないことに気付きます。それは、高く東西を隔てている高天原山・三国山を結ぶ稜線の
西側をマスコミから完全にシャットアウトすればよい
のであり、西側を回収物の集積拠点とし、そこ(長野県川上村)から埼玉方面への輸送ルートの一つとして、中津川林道に白羽の矢が立ったのではないかと考えるのです。
これは伝聞情報で私自身が直に確認した話ではないのですが、1985年8月13日(遭難翌日)の早朝、林道を大きな金属板のような物を自衛隊員数人が抱えて運んでいる姿を見たという地元の方の証言もあるようなのです。
この情報の真実性はひとまず置くとしても、かつてこの林道を走破した経験から言えるのは、木に覆われ殆ど人の行き来の無いガタガタ道の林道沿いは、一時的にでも大きな物、大量の物資を隠すのには絶好の場所だと考えられるのです。
わざわざ人目付く埼玉県側の村落を通過するとも考えにくいので、この林道沿いの傾斜地などが、回収物の一時保管所、または遺棄場所として利用された可能性は極めて高いと推測されるのです。
これ以外の傍証として、三国峠付近に車を止めて周囲を探索し始めると、既に昼間なのにも拘わらず、何故か複数の登山客グループが続々と訪れて、三国峠からの登山道に入山するという奇妙な光景に出くわしたこともあるのです。
これについては、遭難現場周辺の山林には、登山客に扮装した自衛隊OB、または現役隊員が今でも常時監視体制に就いていると、この際読者の皆様にも現地情報としてお知らせしておきましょう。そして、どうして彼らが37年も前の件で今も現場に貼り付き続けているのか、その理由を考えて頂きたいのです。
ここで、強調しておきたいのは、この事件を隠蔽するために、西側ルートが使われただけでなく、ここから更に埼玉県山間部・山梨県山間部へと夜間の隠密輸送が展開されていた形跡があるということなのです。
正味8時間しかない闇夜の中で、如何に同事件を事故として取り繕うのかを考察した時、当時の実際的な手段が見えてきます。それは、墜落予想現場の誤報を何度も繰り返しながら(画像1の×印)、最終的に私たちの目を御巣鷹の尾根に集中させる。これは長野県側で自衛隊の活動状況が目撃されたときの言い訳になります。
その時間稼ぎの間に、大型破片をなるべく小パーツに裁断し、それを各小隊に分けて持たせ、次々と林道脇など広域に分散して捨て置き土を被せて隠蔽する。雑な方法ですがこうでもしなければ、この短時間で事故に見せるまでのお膳立てはとても完遂し得なかったでしょう。完全な回収は、国民の目が東側(群馬側)に注がれている間にゆっくりと行えば良いのです。殆ど稼働することのない南相木ダムの建設も、証拠隠滅がその主な目的であるならば実に納得できるのです。
もしもこの予想が当たっているなら、画像1の「推定埋設現場」からは今でも積み残しの小片などが回収できるのではないかと考えられるのです。
写真2:とあるキャンプ場。この写真を掲載した意味は何なのか?
現地で活動中の自衛隊OBの皆様ならもうお分かりでしょう
参考:
・黒霧123便関連記事ガイド
・(新)ブログ全記事リスト
・123便搭乗者検索
* * *
今回の中津川林道訪問がなぜ私にとって「慰霊」であったのか、それは推定第2現場がどのような性質のものであったかを理解した時に初めてご理解頂けるのではないかと思います。それについてはもう少し説明に時間を掛けさせてください。
VAE QUI PROFUNDI ESTIS CORDE UT A DOMINO ABSCONDATIS CONSILIUM QUORUM SUNT IN TENEBRIS OPERA ET DICUNT QUIS VIDET NOS ET QUIS NOVIT NOS
災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。
(イザヤ書 第29章15節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
同記事の締めくくりに私は次のように書きました
その時西側で何が起きていたのか、それが事件解明の鍵
であると。
これには少々付け加えなければいけないことがあります。西の長野側が極めて重要なのは変わりませんが、これは何も123便遭難現場の西側だけを良く見ろという意味ではありません。、本事件は現場を中心とした数キロ圏内だけではなく、東西南北数10キロ圏内まで視野を広げないと、その時何が行われていたか全体が見通せないという意味も含んでいます。
数日前、私は次の写真の場所を訪ねました。調査目的もありますが、自分の中では123便事件犠牲者の慰霊という大きな意味も含んでいます。
写真1:閉鎖された中津川林道(秩父市王冠キャンプ場付近で撮影)
中津川林道もとい秩父市道大滝幹線17号線は、長野県の川上村と埼玉県の秩父市を繋ぐ林道です。未舗装区間が多く、落石などでしょっちゅう通行止めになる峠道でもあります。現在も昨年から通行止めの状況が続いています。
実はこの林道、123便遭難地点、いわゆる御巣鷹の尾根の尾根続きの南側にある「三国峠」(みくにとうげ)を超えています。
画像1:中津川林道とその周辺
川上村と上野村の間には古来からの通商回廊があったという(地元談)
これまでの123便関連報道、及び関連書籍を読む限り、遭難現場よりはかなり北側にあるぶどう峠の話はよく出て来るのに、何故か現場により近いこの三国峠については殆ど登場することはありません。
これは、直線距離にして上野村の半分程度、遭難現場に最も近い川上村に救難支援本部が設置されなかったことと同様にこの事件の大きな謎であると言えます。そしてこの林道が注目されない、あるいはここに注目させない大きな理由として考えられるのが、
事件隠蔽の回廊として使われた
のではないか、具体的には戦闘機破片や搭乗員、また現地に展開し死亡した戦闘員の遺体などを輸送するルートに使われたのではないかという疑いなのです。
私の分析では、軍用機やその他の123便以外の航空機の墜落数は最低でも15機以上であり、そんなにたくさんの物証が落ちていたら絶対にバレるだろという読者様の疑問もよく分かります。
しかし、隠し通せるはずのないものをどうやって隠すのか、隠す側の心理に立てば解決の為の戦術はそれほど難しくないことに気付きます。それは、高く東西を隔てている高天原山・三国山を結ぶ稜線の
西側をマスコミから完全にシャットアウトすればよい
のであり、西側を回収物の集積拠点とし、そこ(長野県川上村)から埼玉方面への輸送ルートの一つとして、中津川林道に白羽の矢が立ったのではないかと考えるのです。
これは伝聞情報で私自身が直に確認した話ではないのですが、1985年8月13日(遭難翌日)の早朝、林道を大きな金属板のような物を自衛隊員数人が抱えて運んでいる姿を見たという地元の方の証言もあるようなのです。
この情報の真実性はひとまず置くとしても、かつてこの林道を走破した経験から言えるのは、木に覆われ殆ど人の行き来の無いガタガタ道の林道沿いは、一時的にでも大きな物、大量の物資を隠すのには絶好の場所だと考えられるのです。
わざわざ人目付く埼玉県側の村落を通過するとも考えにくいので、この林道沿いの傾斜地などが、回収物の一時保管所、または遺棄場所として利用された可能性は極めて高いと推測されるのです。
これ以外の傍証として、三国峠付近に車を止めて周囲を探索し始めると、既に昼間なのにも拘わらず、何故か複数の登山客グループが続々と訪れて、三国峠からの登山道に入山するという奇妙な光景に出くわしたこともあるのです。
これについては、遭難現場周辺の山林には、登山客に扮装した自衛隊OB、または現役隊員が今でも常時監視体制に就いていると、この際読者の皆様にも現地情報としてお知らせしておきましょう。そして、どうして彼らが37年も前の件で今も現場に貼り付き続けているのか、その理由を考えて頂きたいのです。
ここで、強調しておきたいのは、この事件を隠蔽するために、西側ルートが使われただけでなく、ここから更に埼玉県山間部・山梨県山間部へと夜間の隠密輸送が展開されていた形跡があるということなのです。
正味8時間しかない闇夜の中で、如何に同事件を事故として取り繕うのかを考察した時、当時の実際的な手段が見えてきます。それは、墜落予想現場の誤報を何度も繰り返しながら(画像1の×印)、最終的に私たちの目を御巣鷹の尾根に集中させる。これは長野県側で自衛隊の活動状況が目撃されたときの言い訳になります。
その時間稼ぎの間に、大型破片をなるべく小パーツに裁断し、それを各小隊に分けて持たせ、次々と林道脇など広域に分散して捨て置き土を被せて隠蔽する。雑な方法ですがこうでもしなければ、この短時間で事故に見せるまでのお膳立てはとても完遂し得なかったでしょう。完全な回収は、国民の目が東側(群馬側)に注がれている間にゆっくりと行えば良いのです。殆ど稼働することのない南相木ダムの建設も、証拠隠滅がその主な目的であるならば実に納得できるのです。
もしもこの予想が当たっているなら、画像1の「推定埋設現場」からは今でも積み残しの小片などが回収できるのではないかと考えられるのです。
写真2:とあるキャンプ場。この写真を掲載した意味は何なのか?
現地で活動中の自衛隊OBの皆様ならもうお分かりでしょう
参考:
・黒霧123便関連記事ガイド
・(新)ブログ全記事リスト
・123便搭乗者検索
* * *
今回の中津川林道訪問がなぜ私にとって「慰霊」であったのか、それは推定第2現場がどのような性質のものであったかを理解した時に初めてご理解頂けるのではないかと思います。それについてはもう少し説明に時間を掛けさせてください。
VAE QUI PROFUNDI ESTIS CORDE UT A DOMINO ABSCONDATIS CONSILIUM QUORUM SUNT IN TENEBRIS OPERA ET DICUNT QUIS VIDET NOS ET QUIS NOVIT NOS
災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。
(イザヤ書 第29章15節)
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管理人 日月土
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