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アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

ヘヴン 2001年 アメリカ・ドイツ・イギリス・フランス

2010-09-24 | ラブ・ストーリー
ふたりの行き着いた先は、果たして“天国”であったのだろうか。

フィリッポは恋に落ちてしまった。
それも犯罪者に。
恋することに理由などない。
好きになってしまった。
ただそれだけ。
しかし、父親と同じ道を選び刑務官となった彼は21才。
まだまだこれからというときである。

尋問を受けるフィリッパ。
標的ではなく、罪の無い市民を巻き添えにしてしまったことを知った彼女は、ショックのあまり気絶してしまう。
その手を取るフィリッポ。
21才の若い彼は、心配そうに彼女の顔をのぞく。
うっすらと目を開くフィリッパ。
「あなたは誰?」
フィリッポの手をつかみ返す彼女に、彼はその手に力を込めた。

彼女は一度は罪を償うと言った。
全く関係のない人たちを殺してしまったから。
でも、どうしても“彼”を殺してからでないとそれはできない。
フィリッポは協力すると言う。
計画を立てる、と。

ふたりは何のために逃げたのか。
彼は人生を捨ててでも、フィリッパと一緒にいたかったのだろう。
教育者である彼女が、フィリッポに何を求めたのか。
彼女にとって、フィリッポは“隠れ家”であって、彼との関係は擬似恋愛のように見える。
ふたりはいずれ捕われてしまうだろうことはわかっていながらも、つかの間の安らぎの中で、そっと静かに寄り添うのであった。

故キェシロフスキ監督の遺稿である本作品が、トム・ティクバ監督によって世に出された。
個人的にキェシロフスキ監督作品は好きで、それらは全て観てきた(と思う)。
今回の『ヘヴン』も彼がメガホンをとっていたら、また違った作風になっていただろう。
それを観られないのが、とても残念である。

ル・ディヴォース ~パリに恋して~ 2003年 アメリカ・フランス

2010-01-20 | ラブ・ストーリー
フランス人の夫シャルル・アンリと、アメリカ人妻のロクサーヌ(ロクシー)。
夫はロシア人の人妻に恋し、妻と娘をおいて家を出た。
夫が不倫をしてどうのこうのの話ならば、同国人同士だってよいわけで、あえて国際結婚のふたりに設定したのはなぜなのか。
そこがこの映画のポイントである。

異なる国同士の者が一緒になれば、両家の家族が身内になるのは必然であって、それこそ考え方や習慣も違うとなれば珍しく映る面もあり、おもしろくない部分も見えてくる。
ま、そう考えると、同じ国の中のふたりでも、育った環境が違えばそう思う事だってありますよねえ。

ロクシーは義母から、角砂糖を使わないのは変わっていると言われる。
義母が帰った後、流しに砂糖を捨てるロクシー。
「フランス女性は、角砂糖を(紅茶などに)入れるのが当たり前だと思っているのよ」と、妹のイザベルにボヤく。

イザベルは、姉の出産までのケアをするためフランスへやってきた。
姉と違ってわりと奔放な彼女は、彼氏と並行して、叔父の愛人にもなってしまう。
叔父といっても血の繋がりはないが(ロクシーの義母の弟)、身内には変わりない。
そこんとこ、よろしく(笑)。
相手が若けりゃ手を出すことで知られている、この叔父さん。
赤のケリーバッグで惹きつけ、エルメスのスカーフで「さようなら」がお決まりのパターンらしい。

明るい役が少ないナオミ・ワッツと、明るい役ばかりのケイト・ハドソンが演じた姉妹はなかなかであった。
なんやかやで丸く収まってしまうあたりは、ラブ・コメディのお約束みたいだけど、結構楽しんで観ちゃいました。
ただし、イザベルがエッフェル塔の上からしたことは、よい子は絶対にマネをしてはいけませんよ(笑)。

200本のたばこ ’99 アメリカ

2009-10-08 | ラブ・ストーリー
「タバコは他人に対するバリア」なんだと。
「煙幕を張って、対人関係をゴマかしている」そうな。
なるほど。

ニューヨークの大晦日。
独り身で年を越すのはツラすぎるとばかりに、お相手探しにみんな必死。
誰でもいいみたいな、かつての日本のクリスマス・イブみたいではないの。
本作品は80年代の初めという設定なんだが、21世紀となった今では家族愛が重視され、いわゆる〈特別な日〉は、恋人や友人よりも家族と過ごすという人が、洋の東西を問わず多くなったのだとか。

対人関係でストレスを感じるのは、人間である以上仕方のないこととはいえ、それを無視して世の中を渡っていくのは不可能に近い。
日本人は、気遣いという美徳を持ち合わせる国民性であるがゆえ、これが結構な疲労感を伴うことにもなる。
なので、欧米人にはそういう気苦労がないのではないかと考えがちだが、いやいやそれはとんだ思い違いなんである。
人間関係の悩みでセラピーに通う人は、意外なほどに多いのだ。

大晦日のパーティで、あっちでもこっちでもカップルが出来上がっちゃうというのは、裏を返せば、それだけ淋しさも多いということでしょう。
そしてまた、くっついたり離れたり。
部屋の中は、タバコの煙でモクモク?

百害あって一利なし。
タバコを止めれば、視界もハッキリするかもしれない。

アクロス・ザ・ユニバース 2007年 アメリカ

2009-07-19 | ラブ・ストーリー
ジョン・レノンの先妻との息子ジュリアンが、4才のときに保育園で一緒だったルーシーを描いた絵を父親に見せたことがきっかけで、あの『Lucy In The Sky With Diamonds』ができたといわれている。
というわけで、この映画の主体となる二人の名前が、ジュードとルーシーであった。(偶然か、意図したことか!?)

ビートルズナンバーにのせて、ストーリーがうまく融合されていたのが見事だった。
曲のアレンジもとてもいい。
’01の『アイ・アム・サム』のビートルズナンバーも、内容にふさわしいアレンジの仕方で心地よかった。
こうして作品と合わせてビートルズの曲を聴くと、改めて曲調の幅広さを感じる。
また、人物のそのときそのときの感情とが実にうまくマッチしていて、選曲も絶妙であった。

数年前にクイーンのナンバーを、それ以前にも、ビリー・ジョエルのナンバーを基にしたミュージカルがあったが、この『アクロス・ザ・ユニバース』も、舞台化はイケるんじゃないかと思う。

あまりビートルズの曲に関心がない人でも、「あ、なんか聞いたことある」といったスタンダードな曲もあるし、みんないい曲だから安心であります(笑)。
かなりのビートルズ通であれば、人物名やふとしたエピソード、あらゆる箇所に、それなりのビートルズ・ネタ(?)が出てくるので、観ながら思わずニヤリとすること間違いないです。

ネイキッド・タンゴ ’91 アメリカ

2009-05-11 | ラブ・ストーリー
他人になりすましたがために、踏んだり蹴ったりの日々をおくるハメになってしまったステファニー。

老判事の夫と小さな諍いを起こし、やけになった彼女が甲板で見かけたのは、今まさに海に身を投げようとしていた女性であった。
目が合った二人。
しかし、ステファニーが駆け寄るも早く、女性は黒い海の中へ・・・
そこには女性の脱いだ靴と鞄がそっと丁寧に置かれており、とっさに、ステファニーはその鞄を持ち、靴を履き替え、まるで自分が身投げしたかのように装い、その場を離れた。

鞄の中にはパスポートと日記が。
名はアルバ。
ポーランドからアルゼンチンへ、金で買われた花嫁らしかった。
ステファニーは、アルバのパスポート写真を剥がし、自身の写真を貼り付ける。
「わたしはアルバ・・・」

アルバの夫となるジーコは、いいとこのおぼっちゃま風。
ほくそ笑む“アルバ”だったが、実はこの男、娼婦館のオーナーで、娼婦たちを買いあさる組織の一員であった。
捕われの身となってしまった“アルバ”。
だが彼女のしたたかさを気に入ったジーコの友人チョーロが、皮肉にも後に、“アルバ”からステファニーへと戻らせるきっかけとなる。

ステファニーとチョーロが踊る、情熱的且つ官能的なタンゴは鳥肌もの。
特に、死がふたりを分かつラストシーンでの狂わしいダンスは、強く印象づけられた。

愛の神、エロス 2004年 イタリア・フランス・ルクセンブルク・アメリカ・中国

2009-01-28 | ラブ・ストーリー
〈エロス〉をテーマに、三人の監督が創るオムニバス映画。
それぞれの監督“らしさ”が、はっきりと映し出されている作品である。
同時に、これほど表現の違いがあるのかと驚かされたのも事実だ。

エロスとは、単純にいえば愛と性愛。
実はそれだけではなく、五感をフルに活かし、感じうる心理的な基盤から発するものでもある。
人や行為によるイメージから喚起されるものだけでもない。
ルネサンス期に象徴された肉体美がそれであるのに対し、プラトンの哲学では、純粋で精神的な愛を指すのだという。

ウォン・カーウァイ監督による第一章『THE HAND』
テーマは、〈エロスの純愛〉
3話の中では、これが一番よかった。
映像の美しさも群を抜いていた。
さすがはカーウァイ監督。
ここでは完璧にプラトン主義の表現方法で、若い仕立て屋の純粋な想いが観る者の心を打つ。
どこか、古いフランス映画のようであった。

ソダーバーグ監督による第二章『EQUILIBRIUM』
テーマは、〈エロスの悪戯〉
これは少しコメディ風でもあって、なかなか面白い作りである。
彼らしい、ちょっと悪ふざけっぽい雰囲気で楽しめた。

アントニオーニ監督による第三章『THE DANGEROUS THREAD OF THINGS』
テーマは、〈エロスの誘惑〉
アントニオーニ独特の世界といった感じ。
まさに、イタリア的。
ミケランジェロやラファエロの描いた肉体美をイメージさせるかのような、また、人間をあるがままに表現したというルネサンス時代の精神をそのまま実写したかのような、どこか開放的であり、神秘的でもあった。
個人的には理解し難かったが(苦笑)。

厨房で逢いましょう 2006年 ドイツ

2009-01-19 | ラブ・ストーリー
有名な歌のタイトルに似ているが、そんなロマンチックな話ではない。
〈食欲=性欲〉をテーマにした作品である。

巨体のシェフ、グレゴアが創る料理を口にした者は、その味に魅了され、恍惚の表情を浮かべる。
俗に“官能料理”といわれるそれは、はたして人を幸せにするのか、それとも不幸にさせるのか。

グレゴアのチョコレートケーキの味が忘れられないエデンは、彼の厨房を訪れ、作りかけの料理を味見させてほしいと頼む。
そのソースを口に含むと、彼女の中で何かが叫んだ。
「そうよ、これよ」

エデンは夫のいない毎週火曜日に、グレゴアの厨房へとやってくる。
グレゴアはその都度、エデンのために創作料理を出してやるのだった。
彼は以前から、エデンに惹かれていた。
だがその想いを告げることはせず、ふたりはいい友情を築いていった。
しかし、彼女の夫が妻とグレゴアの関係を疑い始めると、二人の男たちに思いもよらぬ悲劇が襲う。

寛容な妻に対し、夫は「すべて、おまえが悪い」と言う。
エデンの行動が軽率に見えるかどうかは各自の判断として、やはり発端は、この夫の異常な嫉妬心だろう。
独占欲に感情が揺さぶられて平常心が保てなくなれば、ろくなことがないのは分かりきっている。

ところで、エデンはグレゴアの官能料理のお陰か、待望の第二子ができたようなのだが、何故か、彼のお店に来ていたのは年配のお客さんばかりであった。
料理もきっといいお値段のものばかりなのだろうが、その辺の解釈はそれぞれってことで(笑)。

あなたにも書ける恋愛小説 2003年 アメリカ

2008-11-21 | ラブ・ストーリー
このよくわからない邦題から、映画の内容を想像するのは困難である。
流行りのケータイ小説だって、衝動的に書いてしまう人もいるかもしれない。

ストーリーは軽快、且つ単純。
作家と速記タイピストとの恋。
ロブ・ライナー監督とあって、’89の『恋人たちの予感』を彷彿させるようなラブ・コメディである。
速記者のエマが、小説の最後を読んでから読み始めるなんて場面は、『恋人たちの~』のハリーと酷似していた。

内容は個人的にイマイチだったが、エマ役のケイト・ハドソンのキュートさはポイント高し。
彼女って、特別キレイってわけでもないんだけど、魅力的だしセンスがいい。
ママのゴールディ・ホーンとは似てないけど、両親のいい所を受け継いだって感じがする。

作家のアレックスが、以前恋人だったポリーナを自身の作品の中で登場させていたが、登場人物のモデルや、自分が体験したことが少なからずいたりあったりするのは、実際に書く上で、やっぱりあるんだろうなぁ。

しあわせな孤独 2002年 デンマーク

2008-09-28 | ラブ・ストーリー
結婚を約束し、幸せの絶頂にいるとき、もし相手が不慮の事故で首から下がまったく機能しなくなっても、変わらぬ想いで一緒になることができるだろうか。

セシリは、本物と信じていた愛情が義理的なものに変わっていってしまうことに悩む。
当事者である恋人のヨアヒムも、セシリに優しくされればされるほど苦痛が増し、暴言を吐き、ままならないがゆえ気持ちもひねくれていく。

―― 今別れれば、セシリにとって、新たな幸せを見つけることが出来るだろう。 
これ以上、彼女を苦しめることは出来ない。 ――
ヨアヒムは、「また会いに来てくれれば、それでいい」と、悲しい笑顔をセシリに向けた。
相手を想うがゆえの別れ。

ヨアヒムを轢いてしまったマリーを庇い、夫ニルスは事故の責任を感じ、セシリの相談相手になる。
セシリはニルスを、いつしかヨアヒムの“代わり”として、たびたび呼び出すようになっていく。
ニルスもそれに応じていくのだが・・・

無理をして愛することほど辛いことはない。
抱けない苦しさを他者で埋めることで、自身をごまかせるのか。
優しさの押し売りも、ことによっては相手を傷つける。
よかれと思ってしたことが、かえって泥沼化し、よって自己コントロールを失っていく。
そんなお話。

真珠の耳飾りの少女 2002年 イギリス

2008-08-26 | ラブ・ストーリー
17世紀のオランダの画家ヤン・フェルメール。
現存する作品は40点ほどしかなく、彼の生涯についても詳しくは知られていない。
現代でもなお、謎に包まれている。

以前、『オランダの光』でも触れたが、彼の絵は、光の採り入れ方が絶妙である。
強い日差しでは決してなく、光そのものがやわらかい。
鑑賞しながら日向ぼっこができそうな、そんな感じ。

本作品はもちろんフィクションであろうが、内容はともかくとして、撮影技術は素晴らしい。
まるで絵からそっくり浮き出てきたようなシーンの数々。
食材を切りそろえる少女、窓辺にもたれる姿、遠近法で描かれた絵画をそのまま実写したかのように美しく、絵と同様、光の演出にも徹底していた。
こう言っては失礼かもしれないが、アメリカ映画だったら、これほどの繊細さは出せなかったのではないかと思う。
オープニングの映像から、これはヨーロピアン作品だと判る人も少なくないだろう。

フェルメールの代表作のひとつ、『ターバンの少女』。
この少女のモデルは実際のところわかってはいない。
もしかしたら、架空の人物かもしれない。
前に、『美の巨人たち』というTV番組で云っていたが、そもそもあのターバン自体、どこのもの(国)か判断しかねるのだそうだ。
あと、光の射し具合でできる陰影も、微妙にずれているのだという。
だとしたら、やはり想像上で描いたものなのだろうか・・・。

映画の中では、女中として雇われた少女をフェルメールが気に入り、彼女をモデルとして、あの『ターバンの少女』を画きあげる。
フェルメールが妻の真珠の耳飾りを少女の耳に通す場面はもっとも官能的で、少女が思わず声を上げてしまいそうな表情が、非常になまめかしい。
スカーレットの演技力が、証明された作品ともいえるだろう。