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アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

おみおくりの作法 2013年 イギリス・イタリア

2017-06-27 | ヒューマン・ドラマ
なんとも切なくて、久しぶりに涙したストーリーであった。

(あの世へ)旅立って、残された者が最後のお別れをする。
その想いは、亡き人にも必ず届いていると信じている。
それは国や宗教を問わず、皆の想いは同じなのだと信じたい。

民生係のジョン・メイ。
彼は身寄りのない故人の葬儀に、ただ一人立ち会う。
執り行うまでに亡き人の情報を得るため、まず顔写真を探し、その人の人生をたどって、かつての友人や知人、身内の者を探し訪ねていく。

だが彼らに会えたとしても(連絡がついても)、列席を拒まれてしまうのが現実であった。
メイは故人を憐れみ、その人に合った弔辞を考え、宗派に沿った葬儀を行い、流す音楽までも自ら選ぶ。
それらはメイの独断なのだが、観ている側としては、これ以上の思いやりはないのではないかと思わされるほどジンとくる。

メイは実に几帳面である。
そしてマイペース。
行動は決して急くことなく、常に静かである。
そんな彼が恋をする。
彼の内にほのかな灯が、ぽっと、ともったのである。
幸か不幸か、後にそれがメイの運命を決めてしまうことになるのだが。

自分の仕事に一生懸命だったメイ。
彼が、自分は幸福だと感じたことがあったかどうかはわからない。
でも彼はきっと幸せだっただろう。
それはこの映画を最後まで観ないとわからない。
メイの、これまでかけてきた温情が、ちゃんとみんなに届いていたことがわかったから。

朝食、昼食、そして夕食 2010年 スペイン・アルゼンチン

2016-08-19 | ヒューマン・ドラマ
誰と食事をするかで味そのものも違ったりする。
例えば、美味しいはずのものが虫の好かない相手と一緒だと美味しくなかったり、食べ物がどこに入ったかわからないほど緊張するような相手(どんな人?)と食してもつまらない。
好きな人、気のおけない仲間、食事はやっぱり楽しみたいし、そうした時間は有意義なものにしたい。
大層なごちそうでなくてもいい。
ゆるやかな時間(とき)を持てればそれでいい。

人と食の関わりというテーマはいくつも目にするし、映画も多い。
人間模様を映し出すにも食事のシーンは大きな効果がある。
本作品では、その効果をフルに活用していた。

原題は『18の食事』という意味らしいが、数えてはみなかった(苦笑)。
テーマがテーマなだけに、さまざまな者同士の食事の場面が出てくる。
楽しそうな場面は2割ほどで、ほとんどが、虚しさの募るものだ。
冒頭の、前夜から飲んだくれそのまま朝食へと突入し、嬉しそうに飲み明かしたその余韻を残しつつ、ゲラゲラ笑いながら「腹減った」とほざく二人の男たちのなんと明るいこと。
そしてガクンと場面は変わり、虚しさ、悲しさ、寂しさと、そんな暗い形容が並ぶようなカットが続く。

そんな中で、老夫婦の一見わびしい食事シーンが入る。
ふたりは一言も話さない。
妻の方が、やや身体が弱っているように見える。
夫が時折、いたわるように妻に目をむける。
彼らにとって、その食事風景はいつもと何の変りもないものなのだろう。
だが長年連れ添った、顔のしわと同じような深い、ふたりの絆が一言も話さない中で、明確に見えてくるから不思議だ。

料理は愛情とはよく言うが、ひとりの男が懸命に恋人のために食事を用意するシーンがある。
朝食の買い出しに出かけ、テーブルセッティングも完璧!
しかし彼女は来ない。
昼食もアウト。
そして夕食は?
留守電にメッセージは入れたけど・・・。

スペイン映画はどちらかというとシリアスタッチのものが多いから、この作品も料理自体は二の次ってな感じだったけど、せっかくだからもっとスペイン料理(バスク地方の名物料理とか)を堪能したかったなあ。
やっぱり明るい食卓を楽しみたかったというのが、正直な感想である。

ONCE ダブリンの街角で 2006年 アイルランド

2015-10-19 | ヒューマン・ドラマ
制作費1500万円の低予算で、興行成績はなんと日本円で20億という、世界中で大ヒットとなった本作。
口コミで人気が広がったというのもなるほどといった感じだが、そこまで人々を魅了したのはなんなのか観てみた。

ストリートミュージシャンの男に声をかける女。
「その歌詞は彼女にあてた言葉なの?」「その彼女はいまどうしてるの?」「なんで彼女と別れたの?」
矢継ぎ早に質問する女。
初対面でいきなりである。
やや引き気味・・・。
男の作る曲は確かにいい。
サントラも売れたというのだから納得。

男は元カノに逃げられた過去をもち、女は夫とうまくいかず別居状態。
故郷のチェコから、母、娘と共にここアイルランドで暮らしている。
女が音楽に精通していることから、男は作詞やピアノを彼女に依頼。
後にスタジオを借り、別のストリートミュージシャンたちを誘って、オリジナルのバンドを作り、CD制作までこぎつける。
「絶対にこれは売れる」と自他共に認める曲を収めたこのディスクを持って、ロンドンへ渡る決意をした男であった。

最後までプラトニックで終わる男と女。
男は控えめにモーションをかけてはいたが、女は友情を重んじ一線は越えなかった。
娘もいる。
夫ともう一度やり直す気持ちがあっての彼女の選択であった。

ロンドンへ発つ日、男は女にピアノを贈る。
思うにその代金は、曲が売れた後に払うと店側に交渉したのだろう。
それぞれの道がまた始まろうとしているエンディングであった。

気づけば、ここに出てくる人物たちのなんと協力的なことか。
楽器店の店員や、途中加わったミュージシャンたち。
中でも個人的に感心したのは男の父親である。
本当にいいお父さんなんである。
「お前はいい年をして何をやってるんだ」なんて言おうものなら、ハイ、それまでよだが、「頑張れ、死んだ母さんも喜んでいるぞ」なんて言ってくれたらねえ、涙、涙じゃないの。
音楽もだけど、むしろこの映画では、人々の温かさに泣かされそうな気がする。

ル・アーヴルの靴みがき 2011年 フィンランド・フランス・ドイツ

2015-04-17 | ヒューマン・ドラマ
無限の希望と深い絶望。
この両極端な要素が必ずといって含まれているのが、アキ・カウリスマキ監督の作品であると、マルセルを演じたアンドレ・ウィルムがインタビューで語っていた。
過去の作品を振り返ってみても、確かにうなづけます。

哀愁を帯びた音楽、無駄のない撮影(ショット)。
質素な生活様式に、どこか懐かしい小物類。
おもむろに顔を上げる。
ゆっくりとうつむく。
一点を見つめる。
動きが止まる。
すべてが静かである。

アフリカ難民の少年をかくまうマルセル。
彼をマークする警察。
マルセルはどんなことをしてでも、少年をここ、フランスのル アーヴルから、海を渡ったロンドンにいる母親の元へ送り届けようと決めていた。
彼の友人たちも協力してくれる。
一方で、マルセルの妻は病におかされていた。
治る見込みはないという。
しかし彼女は医師に懇願した。
「このことを絶対に主人には言わないで」

心底人に優しくなれるのは、人の痛みのわかる人。
道端に咲いている名もない花に、ふと安らぎを覚える人。
うわべだけの親切なら誰にでもできる。
マルセルのように危険を冒してでも、少年の未来を思って手を差し伸べることはなかなかできることではない。
決して望みを失わないそのまっすぐな志が、人々とのつながりをより強固にしていく。

医師は戸惑う。
家族には正直に話すことが義務付けられているためだ。
「お願いします。 このことは内緒に。 いずれはよくなると」
「わかりました。 政治家の演技をマネしますよ」
ここでの皮肉は世界共通であろう。
マルセルの妻もクスリと笑う。

2週間(プラス1日) 後、お気に入りのワンピースに袖を通した妻は退院する。
マルセルと腕をくみ、ゆっくりと自宅に入る。
入る前に、庭先の桜に目をやる。
「満開できれい」

心は目に見えないものだが、この夫婦の互いの思いやりは、確かに見えてくるものがある。


パーフェクト・ワールド '93 アメリカ

2015-02-18 | ヒューマン・ドラマ
子どもや自分にとって大切な者に手をあげる ―― そういう人間には容赦ない。
ブッチは言う。
「これまでにあやめた奴は二人だ。 お袋を殴った奴と、お前を襲おうとしたテリーだ」

小さな“相棒”との逃亡劇。
囚人であるブッチは、いけ好かないテリーと刑務所を抜け出し、テリーが侵入した家の男の子を人質としてとるハメに。
8才のフィリップは、父親のいない家庭に育ち、いつしかブッチを慕うようになる。
父親との縁が薄かったという境遇が、二人の心を近づけていった。

郡警察署長のレッドは、ブッチの父親はどうしようもない奴だったとこぼす。
しかし、そのどうしようもない父親からの絵葉書を、ブッチは大切に持っていた。
アラスカからのその古びた絵葉書をフィリップに見せながら、ブッチは、アラスカへ向かおうと思っている、と話す。
ひどい親父でもな、親父には変わりない ―― そんな声が聞こえてきそうだった。

ケビン・コスナーが初めて汚れ役に挑んだという作品。
汚れ役といっても、根っからの悪人という設定ではないので、響きとしてはややぬるい。
C.イーストウッドとの共演も話題のひとつとなった。
本作品でイーストウッドは監督も担っていたが、今回は脇役に徹し、コスナーに花を持たせた。
この映画では、コスナーの気取ったところもなく、少年との心の通わせ方がじんわりと胸を打つ、よい作品に仕上がっている。

80年代後半から90年代前半まで、ノリにノっていたコスナーだったが、意味のない長編に乗り出してから、徐々にフェイドアウトしていってしまった。
翌年('94)の 『ワイアット・アープ』までが、彼の華々しい俳優人生だったように思えてならない。


愛する人 2009年 アメリカ

2015-01-31 | ヒューマン・ドラマ
薄くはられた氷の表と裏にあるふたつの人生。
もろく、いつ割れてしまうか、そんな危うさを抱えながら生きているふたつの人生。
母と娘。
ふたりの人生は、永遠に平行線のままだった。
交わることのない、それぞれの人生。

37才のエリザベスは優秀な弁護士として自立していた。
その母カレンは、親を介護しながら働いていた。
母娘は一度も顔を合わせたことがない。
お互いの存在も、今どこでどうしているのかも知らない。
カレンは14才で娘を産み、直後、その子は養子に出された。
今のいままで、お互いを探そうとはしなかったが、カレンはずっと見ぬ娘に日記を書き続けていた。

気難しやのカレンも職場結婚し、愛する家族もできて柔和になった。
そうした環境の変化もあってか、娘の所在を知りたいと思うようになる。
一方、エリザベスも新しい命を宿し母となる自覚が芽生え、実の母を探そうと思い立つ。

アネット・ベニングとナオミ・ワッツ。
二人の演技が素晴らしい。
同様に、この作品の繊細さに心打たれる。
薄氷をかざして見るようである。
ロドリゴ・ガルシア監督は、なぜこんなにも巧いのか。
ワッツが美しかった。
妊婦姿は、実際に彼女自身が妊娠中に撮影されたそうで、前半の部分は産後に撮られたようである。
どうりで美しいはずだ。
女性は、産後美しくなるというが、それは本当だと思う。
上司との食事のシーンなんて輝いていたし。

作中の大事な要素ともなっている養子縁組については、日本も他人ごとではない。
先進国では里親が主流となっているが、日本では、乳児院や施設がほとんど。
司法が介入する規定がある米国と、児童相談所でまかなう日本との大差には驚く。

縞模様のパジャマの少年 2008年 アメリカ・イギリス

2014-12-16 | ヒューマン・ドラマ
「どうしてみんな“パジャマ”を着ているんだろう。 “農場”なのに牛も羊もいない」
ベルリンから郊外へ引っ越してきたブルーノは、遊び友だちもおらず、いつも一人だった。
「あの“農場”まで行ってみよう」
冒険好きなブルーノは、親の目を盗んで走り出す。

有刺鉄線の向こうで、少年がうつむいて座っていた。
名はシュムールという、ブルーノと同じ8才の男の子。
「何してるの? こっちへ来て一緒に遊ぼうよ」
不思議そうにシュムールを見つめるブルーノ。
「その“番号”はなんの遊び?」
「遊びなんかじゃないよ。 みんな番号をつけられてるんだ」

8才のブルーノは、まだ何も知らなかった。
彼はその少年と仲よくなりたかった。
一緒に遊びたかった。
「シュムールのお父さんは何をしているの?」
「前は時計職人だったけど、いまはここで人の靴ばかり直してる」
「僕のうちにいるパヴェルも医者だったって言ってたけど、いまはジャガイモの皮ばかりむいているよ・・・」

ある日、シュムールは悲しそうに言った。
「お父さんがいなくなったんだ! どこにいるのかわからない」
ブルーノはしばらく考えてからシュムールに告げた。
「ぼくも一緒にお父さんを探してあげるよ」

この映画は難しい説明がない。
ナチス党員の幹部を父にもつブルーノと、ユダヤ人として強制収容されているシュムール。
有刺鉄線が張りめぐらされた塀越しで、二人は友情を深めていくが・・・。
歴史の中で痛ましく、悲しい出来事は多い。
ナチスによるホロコーストもそのひとつ。
こうした史実に目を背ける傾向になりつつある中で、我々は、もう一度よく考えなければいけない。
決して風化させてはいけない。

それぞれに悲しい季節はめぐってくる。
忘れ得ぬそのときを胸に刻み、語り継いでいかなくては。
多くの尊い命が奪われていったことを忘れてはいけない。
時に、空を仰いでみる。

レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで 2008年 アメリカ

2014-09-30 | ヒューマン・ドラマ
「夫婦げんかは犬もくわない」というが、その程度のけんかなら、むしろ仲のよい証拠だろう。
これを「諍い」と言葉をかえると、多少、おだやかではなくなるニュアンスになる。
そしてこれが「ののしりあい」となれば、いよいよすさまじさが増してくる。

フランクとエイプリルは理想的な夫婦に映っていた。
ふたりは、初めこそ惹かれ合って一緒になったはずである。
だが時間が経つにつれ、複雑に絡み合ってしまった糸のように、もはや互いの気持ちをほぐしていくには非常に困難な状況に陥ってしまっていた。

憎いわけではないのに、嫌いなわけでもないのに、口から出てしまうのは、相手を傷つける言葉ばかり。
ふたりはお互いに無理をしすぎてきたのかもしれない。

冷えきってしまった夫婦の物語というのは、観ていてもブルーになってくる。
'89の『ローズ家の戦争』は、その名のとおり"戦″のようなストーリーだったが、これはコメディだったし、ブラックユーモアがわかるなら受け入れられるだろう。
フランクとエイプリルの場合、ひたすら暗く、重い空気が漂う。

大ヒット映画『タイタニック』以来の共演だったレオ様とケイト・ウィンスレット。(+ キャシー・ベイツも参加していた。)
11年振りとはいえ、息の合ったシリアスな演技を見せてくれた。
どちらも幸せになれなかった結末という共通点はあったが、役の上でのふたりの信頼の度合いに関しては、180度異なるものであった。

ふたりが新居に選んだのは、レボリューショナリーロードに面した、不動産屋イチオシの物件であった。
″レボリューショナリー revolutionaly"だけあって燃え尽きてしまったのかどうかはわからないが、これが、"エボリューショナリー evolutionaly"であったら、まだ救われたかもしれない。

ある子供 2005年 ベルギー・フランス

2013-02-01 | ヒューマン・ドラマ
「親になる」とはどういうことか。
子どもが生まれれば、必然的に親にはなる。
しかし、尋常ではない出来事が多い昨今、懸命に育てることで、初めて親になれるのではないか。

ブリュノは20才、妻のソニアは18才。
その日暮らしのふたり。
ブリュノはチンピラ稼業でどうにか日々をしのいでいた。
そんな中、ふたりに初めての子が生まれたのである。

ソニアは大事に我が子を抱き、愛しそうに息子の顔を見つめる。
対して夫は、特別関心がなさそうな感じ。
我が子よりも、金を稼ぐことしかいまは頭にない様子。
ソニアは言う、「定職に就いて」
だがブリュノは決断してしまう。
金を得るために、我が子を売ることを。

大金は入った。
ソニアはその事実をしるやいなや、その場に倒れこんでしまう。
動かないソニア。
ブリュノはここで、初めて子どもの大切さに気づくこととなる。
〈オレは子どもを売ってしまった。 だからソニアは悲しみのあまり倒れてしまった。 だから子どもは大切なんだ。〉
おそらくこんな感じで、彼なりの思いが頭の中で駆けめぐっていたに違いない。

このブリュノという青年。
本物のワルにはなりきれていない。
自分の仲間(子分)は小学生くらいの子どもたちだ。
ブリュノは、彼らにも正当な分け前を渡してやる。
子どもだからといって見捨てるようなこともしない。
なにより彼は、ソニアを愛している。

ふざけ合う二人は本当に若い。
まるで高校生のようだ。
それがラストでは、互いの額をつけ合い、手を握りしめ、むせび泣くのである。
なぜこの映画がカンヌでパルムドールを受賞し、日本では文科省特別選定されたのか。
それは映画の後半で、十分に証明されているように思う。

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 2008年 アメリカ

2012-06-22 | ヒューマン・ドラマ
困った。
ほとほと困ってしまった。
これを観て、何を述べたらよいのだろう。
〈彼〉は老人として生まれ、赤ん坊になってこの世を去る。

荒唐無稽な作品を「ありえない」としながら、映画なのだと割切り、それでも観ているうちにその中へ入り込み、いつしか見入ってしまう、それが映画の不思議な魅力である。
しかしながら本作品はどうかというと、いけないことに、大まじめに作ってしまったことが、観る者をシラケさせてしまう残念な結果となってしまった。

かなり不自然なのが(すべて不自然だが)、子ども時代のベンジャミン。
姿は老人であっても中身は子どもなのだから、もっと子どもらしい振る舞いであってもよいのではないのか。
施設にいることで老人の「ふり」をするといっても所詮は子ども。
ついついはしゃいでしまうというのが普通だろう。
でもそうなると、この映画がシリアスドラマではなくコメディになってしまう危険性があるのだ。

’88の『ビッグ』は、子どもがいきなり大人になってしまうものだったし、『バイス・バーサ』では、大人と子ども(この二人は親子)が入れ替わるというドタバタコメディであった。
姿は大人でも、中身は子ども。
これが実に愉快であった。
ところが『ベンジャミン―』は、楽しくしてはいけない話なのである。

ベンジャミンには、幼いときに知り合ったデイジーという恋人がいる。
ふたりは40代にして、ようやく落ち着いた暮らしができるようになった。
なぜならベンジャミンがここにきて、やっと年相応の容姿になったからである。
やがてデイジーは身ごもる。
ベンジャミンは心から喜べない。
なぜなら自分は、我が子の成長を見守ることができないからだと。
ふたりの蜜月は長くない。
これからどんどん若返っていく自分をのろい、ベンジャミンは自ら家を出る。
アンチエイジングが叫ばれる現代ではうらやましい限りだろう。(いや、そういうことではない。)
このあたりは、映画の山場である。

人は年を取ると子どもにかえると云うが、もし人に、「彼は子どもにかえってしまって・・・」と話せば、相手も察しはつくだろう。
ところがベンジャミンは、本当に子どもなのである、外見は。
そして彼は、愛するデイジーの腕の中で息を引取るのだ。
その姿は、玉のような、それはそれは可愛らしい赤ちゃんなのであった。

別れは辛いものだが、こういう別れもあるものなのか!と、妙な感慨を覚えた。