アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

パリの恋人 ’57 アメリカ

2013-02-21 | ミュージカル
オードリー・ヘプバーンは、’53の『ローマの休日』で映画初主演し、そのときに共演したのはグレゴリー・ぺックであった。
オードリーよりひとまわり以上年上の俳優である。
翌年の『麗しのサブリナ』では、いきなりのビッグ俳優、ボギーことハンフリー・ボガートと共演してしまった。
本作品で彼女は、有名ダンサーのフレッド・アステアと踊り、’57の『昼下がりの情事』では、なんとゲイリー・クーパーおじ様と初共演。
そこで考えてみた。
なぜ彼女は、当時60近い(ぺック以外)、いまでいう“アラ還”で、しかも超有名ビッグアクターを次々と相手役にしてしまったその力は一体なんなのかと。

考えてみたが分からなかった。
ただオードリーの場合、あのやたらと落ち着き払ったハリウッド女優らしかぬ雰囲気と、品のよすぎる身のこなしといい、若者や粗野な相手とはどうしたって合わない。
マーロン・ブランドとか、まったくイメージできないし。(私生活では年下のパートナーだったけど・・・。)

原色も鮮やか、オシャレなミュージカル映画。
オープニングからなんだかワクワクしてきそうな勢いだったのに、どうも話が“お約束通り”すぎて、表面と中身が反比例していってしまったのが心残りである。

新しいモデルが要るとのことで、アステア扮するカメラマンが書店員のジョーがいいとイチオシする。
ジョー本人は、「地味でこんなファニー・フェイスなのに」と(一応)謙遜はするが、彼は、「それがキミの個性さ」とほめる。
オードリーのどこがファニー・フェイスだというのか。
そもそもこの映画の原題が『Funny Face』なのだが、よくいえば個性的ともとれるけど・・・。

次々と出てくる服が当たり前のように似合ってしまうジョー。
それはそうだろう。
オードリーなら、役作りなどするまでもない。
ジバンシィのお気に入りだったくらいなのだから。
そしてこれはミュージカルであるから、踊り、歌う。
個人的にはどうでもいいシーンなのだが、だからこそ余計に、アステアのその長ったらしい場面には参ってしまった。
ううむ、やはり長い。
いやしかし、彼はアメリカを代表するダンサーである。
制作側としては絶対に削れないだろう、だってアステアせんせいがこれほど踊ってくださるのだから。

親子ほども歳の離れた相手にキスをされ、ポーッとしてしまったジョー。
それは彼が先鋭なカメラマンだったからか。
ジョーは最後まで、彼一筋であった。

撮影場所となったパリ郊外の小さな教会。
小高い裏庭では川のせせらぎに、花々は甘い香りをただよわせ、鳥たちがさえずる。
こうした幻想的な舞台で、ふたりは歌い、踊るのであった。
ああ、なんておもしろくないエンディング(苦笑)。

ある子供 2005年 ベルギー・フランス

2013-02-01 | ヒューマン・ドラマ
「親になる」とはどういうことか。
子どもが生まれれば、必然的に親にはなる。
しかし、尋常ではない出来事が多い昨今、懸命に育てることで、初めて親になれるのではないか。

ブリュノは20才、妻のソニアは18才。
その日暮らしのふたり。
ブリュノはチンピラ稼業でどうにか日々をしのいでいた。
そんな中、ふたりに初めての子が生まれたのである。

ソニアは大事に我が子を抱き、愛しそうに息子の顔を見つめる。
対して夫は、特別関心がなさそうな感じ。
我が子よりも、金を稼ぐことしかいまは頭にない様子。
ソニアは言う、「定職に就いて」
だがブリュノは決断してしまう。
金を得るために、我が子を売ることを。

大金は入った。
ソニアはその事実をしるやいなや、その場に倒れこんでしまう。
動かないソニア。
ブリュノはここで、初めて子どもの大切さに気づくこととなる。
〈オレは子どもを売ってしまった。 だからソニアは悲しみのあまり倒れてしまった。 だから子どもは大切なんだ。〉
おそらくこんな感じで、彼なりの思いが頭の中で駆けめぐっていたに違いない。

このブリュノという青年。
本物のワルにはなりきれていない。
自分の仲間(子分)は小学生くらいの子どもたちだ。
ブリュノは、彼らにも正当な分け前を渡してやる。
子どもだからといって見捨てるようなこともしない。
なにより彼は、ソニアを愛している。

ふざけ合う二人は本当に若い。
まるで高校生のようだ。
それがラストでは、互いの額をつけ合い、手を握りしめ、むせび泣くのである。
なぜこの映画がカンヌでパルムドールを受賞し、日本では文科省特別選定されたのか。
それは映画の後半で、十分に証明されているように思う。