kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

どうする家康 第45回 二人のプリンス

2023-12-03 15:46:00 | どうする家康

 

 

 

京都市東山区にある豊国神社と同じ境内にある

方広寺の鐘の鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」の文字は

この様に白線で囲ってあります

 

 

 

 

 

豊国神社の外周りの石垣はとても大きいです

当時のものと思われます

 

 

耳塚

 

 

 

 

二人のプリンス

 

豊臣秀頼 と 徳川秀忠

 

方や3K

 高収入、高学歴、高身長

 

方や

大いなる凡庸

松山千春さんの歌にも曲名「凡庸」あります

 

蛇足ですが、最近は

4T

低姿勢、低リスク、低依存、低燃費だそうです

 

 

政は徳川が仕切っているのですが、ここより一歩

前に進みたい

双方、そんな思いのような

 

家康方、秀頼に二条城訪問を言って出ましたね

 

結果、徳川の思うようには行かず

 

上段に誰が座ったか

 

秀頼が家康に上段を渡し、丁重なる挨拶を述べた

 

世間では、家康は恥知らず、秀頼はご立派と

噂が立った

 

家康「まんまと、してやられた」

 

阿茶は秀頼はどんなだったかと尋ねると家康は

 

「すずやかな様子の…秀吉じゃ」

 

なるほど、上手にまとめましたね♪

 

二人のプリンスのことを本多正信はどう言ったのか

 

「偉大なる凡庸、すべなし」

 

秀忠は、父家康が上段に座り秀頼が平伏したことを

あんなに喜んでましたから…

 

 

思いがけない訪問者が

 

どこでどう暮らしていたのか

すっかり忘れてた存在です、私には

 

氏真「成長した、王道の治世を成してくれ」

 

家康「平気で人を殺せるようになっただけ

戦は無くならん、生涯ずっと戦をし続けて…」

 

氏真は、家康を抱きしめ優しく労ってくれた

 

「弟よ、弱音をはきたい時は、この兄が聞いてやる

おぬしに助けられた命のあることを忘れるな

本当のおぬしに戻れる時も、きっとある」

 

そう言えば、氏真を捉えても遠くへ逃れさせたことが

ありましたね

 

正直なところ、兄弟のように暮らした今川のもと

氏真は嫉妬心もったこともあった

家康は父の様に育ててくれた今川義元を敬い

氏真を兄として接していた、一歩下がっていたことも

 

あの時代は、人質とはいえ家康にとっては

たくさんの教養、武道を学ばせてもらった時でしたね

義元が存命してたなら、

家康の道も変わっていたかもしれませんね

 

家康にとって、氏真との再会は

心癒され、戦なき世への意欲も戻ったかもしれません

 

一方、プリンス豊臣

…あれ?トヨトミ・プリンセスみたいな題名の映画

ありましたよね、確か堤真一さんが…

ま、いいか

 

プリンス豊臣は巷でも人気がどんどん上がるし

父い秀吉の供養のための開眼供養をあげましたが

 

德川と豊臣の戦へと続く一本道をつくることになる

その端を発したのが、

 

慶長一九年(1614) 「大仏鐘銘事件」だ

大仏の大鐘は 重量  82トン超え

その鐘の銘文の中に

   

「国家安康」「君臣豊楽

 

これは、家康を呪うものだ

とクレーム

 

本多正信、家康の傍らで言った

 

「おそらく戦は避けられませんな」

 

豊臣の鐘の偶然か、企みか

 

德川方の解釈は、こう

「国家安康」 家康を裂いている

「君主豊楽」 豊臣を君主として楽しむ

 

豊臣は

国の政治が安定している

君主から民衆に至るまで豊か、楽しい

 

との思いからこの銘文奉納したのか

それとも相手に喧嘩を売ったのか

 

何百年も前のことです

 

今となっては、ピンポ~ンな解答は分かりません

 

この大仏殿、方広寺は

秀吉が関白になった時(天正一三年・1585)

天下統一目前の勢いある秀吉が

 

「京都に日本一の大仏を!」

 

前例では東大寺では20年かけて造ったが

自分は、5年で造る!の意気込み

なんと、実際には天正14年~16年

但し、金銅仏を鋳造では遅い

「木心乾漆」づくり

大坂城には、秀吉の遺産がどっさり

金銀で82万両をつぎ込んだとか

 

その後、何度か地震や火災に合っていた

 

でも鐘はいまも残っています

トラブルメーカーの銘文もそのままに…

 

 

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