kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

瑞鳳殿・伊達政宗の墓所

2015-12-14 17:41:05 | 歴史

 

 

” 入りそめて国ゆたかなるみぎりとや 千代とかぎらじせんだいのまつ ”

いりそめてくにゆたかなるみぎりとやちよとかぎらじせんだいのまつ

 

仙台藩祖伊達政宗が仙台に築城する時に、千代の世までの繁栄を願った歌



仙台城は、

青葉山を利用した山城で、天守閣のようなものはなく、

城の体裁としてはお粗末だった

政宗は、秀吉・家康の天下人にその政治的野心をひどく警戒された

丸腰の城と見せかけて、天下人の警戒心をときながら、

自然の地形の険しさを見事に利用して戦闘態勢を備えた築城をしている

 

すごい!

 

元々この地は「せんだい」と言っていた

アイヌ語の「川口入口」を意味する「センナイ」が「センダイ」となり、

「千代」 が用いられるようになっていった

それを、政宗が慶長8年青葉城の完成を機に 「千代→仙台」 とした

そして、城下町が栄えていった

 

伊達政宗を思うと、『 梵天丸も斯くありたい 』

 

この言葉が思い出されます

 

大河ドラマ「独眼竜政宗」(昭和62年)を見ていました  

 

片目を失ない、様々に思い悩む梵天丸(伊達政宗の幼名)がお寺に行った時、

 

不動明王を見て、

『優しいはずの神様なのに、どうしてこんなに恐ろしい顔をしているのですか?』

 

そう問われた僧侶、虎哉宋乙(こさいそういつ)(教育係となる)は、

 

『 悪を懲らしめるため、恐いお顔をされているが、

内には計り知れない優しいお心を持っておられます。』

 

それを聞き、  『梵天丸もかくありたい』 

 

この時に屈辱から解き放たれ、目指すものをしっかり掴んだ

引っ込み思案で恥ずかしがりやの子供だったとは思えない武士となる…

 

 

五歳の時に志を立て、

 歴史に名を残した伊達政宗のこんなエピソード、

 

そんな政宗の姿を見て、強く生きることを誓った人もあったと思います

 

私の父もそんな一人だったかもしれません 

 

実は父は、片方の目が見えませんでした。

瞳に白いものが掛かっていて、目の悪い事は一目瞭然でした

そのことにこだわって愚痴ったり、落ち込んだりする様子は

感じませんでした

しかし、父の心はどうだったのでしょう

おそらく、苦しんでいたと思います

 

91歳で父は亡くなりましたが、ずっと

伊達政宗に希望を感じ、辛いことにも耐えてきたのだろうと、

今思います

 

よく、政宗の話をしていた、そんな父も仙台に一度くらい

来て見たかったかもしれない

 

伊達政宗のお骨が発掘された「瑞鳳殿」の資料館に

訪問者の名を記すノートがありました

父の名前と私の名前と、記入してきました

喜んでくれるかどうか分かりませんが…

 

 

 

瑞鳳殿への石段

門の前に来ました

 

門越しの瑞鳳殿 

 

 

伊達正宗公の霊屋「瑞鳳殿・ずいほうでん」

 

 

屋根には八つの龍が、守護神

 

 

 

二代藩主伊達忠宗の霊屋 「感仙殿」と

三代藩主伊達綱宗の霊屋「善応殿」

並んで建立されています

 

瑞鳳殿の近くにあります

 

 

 

 

 

この階段を下りて、次の場所まで

再度、る-ぷる 仙台バスです

 

瑞鳳殿の近くを「広瀬川」が流れていました

しばらく雨が降ってないのか、水量が少なめでした

 

   ≪ 青葉城恋唄 ≫    

        さとう宗幸

 

” 広瀬川 流れる岸辺 

想い出は 帰らず

早瀬踊る光に 

揺れていた君の瞳

時はめぐり また夏が来て

あの日と同じ流れの岸

瀬音ゆかしき 杜の都

 あの人はもういない… 

 

 

 

 

あの人はもういない…

 

 

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真田丸

2015-11-30 13:11:56 | 歴史

来年のNHKの大河ドラマは≪ 真田丸 ≫

 

 

子供の頃、とある月刊雑誌を続けて見ていましたが、その時連載されて

毎月とても楽しみにしていたのが

 

「 猿飛佐助 」

漫画です

真田雪村、霧隠才蔵、白雲斎、服部半蔵、真田十勇士、三好清海入道

などの固有名詞が浮かんできます

この辺で、この方たちの名を知ったんですよね~

ほんとに、夢中になって読んでいました

 

「小学館・連載漫画・猿飛佐助」の画像検索結果

↑この画風ではなかったなあ~

今、作家が誰だったか、まったく浮かんできません

 

「真田丸」

キャストは…

でも、昔のその漫画の雰囲気が伝わってくるようなドラマであることを

楽しみに待っています

 

ほんと、作家の名前なんだったかなあ~?

 

 

ところで。漫画家さんといえば、「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるさん

亡くなられたのですね…

いろいろ楽しませてもらいました

ありがとうございました

 

 

 

 

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松島、瑞巌寺

2015-11-19 12:00:04 | 歴史

 

  松島の サーヨー  

瑞巌寺ほどの

寺もない トーエー 

アレワエー エントソーリャー

  大漁だ エー  

 

 

おなじみの宮城県民謡 「 斎太郎節~さいたらぶし 」

さいたらぶし

またの名を「大漁唄い込み」

 

子供の頃、エンヤートット エンヤートット と歌いながら

櫓を漕ぐ仕草をして遊んだものです

皆さんもされましたよね?

え、私だけ?

 

 

さて、松島湾より先に訪れた瑞巌寺

民謡にも唄われている有名なお寺

平安時代の初め天長五年(828)、慈覚大師により開創

天台宗延福寺と称す

鎌倉時代中期、執権北条時頼が法身性西和尚を開山とし

建長寺派の圓福禅寺と改称する

その後、盛衰を越え、

江戸時代初期、伊達政宗によって現在の大伽藍となった

 

 

奥の細道に松尾芭蕉はこう書いています

 

”  十一日、瑞巌寺に参詣した。

この寺の三十二代目にあたる昔、真壁平四郎という人が出家して唐に渡り、

帰国後、再興して禅寺を開いた。

その後、雲居禅師の徳によって人を善に導く努力により、

七つの堂の建物が立派に改築され、金色の壁や仏前の飾りが光り輝き、

仏の住む世界をこの世に実現する大寺院となったのである。

かの見仏上人の寺はどこにあるのだろうと、慕わしい心持ちになった。 ”


『松島の瑞巌寺ほどの寺もない…』

大漁唄い込みの唄い出しをこうして書いてみると、

なるほど、大伽藍を見た人たちの絶賛が思い浮かびます

 

 

 

そんな大伽藍の瑞巌寺、残念ながら本堂は修復中で拝観出来ず… 

でも庫裡と大書院(仮本堂)のなかは入ることが出来ました

 

庫裡 

 

庫裡~くり (庫裏) 国宝

 

庫裡は禅宗寺院の台所で、大屋根の上に煙出しの小さな屋根が乗ってます

渡り廊下で大書院(仮本堂)へ

 

ご本尊の聖観世音菩薩

本堂が修理中なので、こちらに仮住まいの観音さん

 

 

 

愛姫(めごひめ)御霊屋(おたまや)のある瑞巌寺境内の高台まで行きました

 

これは岩を削って造ってあります

よう落ちひんもんや

 

修行道場

お坊さん一人たりとも合わず…

 

上り坂

 

 

陽徳院御霊屋(ようとくいんおたまや)~寶華殿(ほうげでん)

ここは伊達政宗の正室愛姫の墓堂

平成18年に創建当時の姿に復元されました

 

 

 扉の装飾に女性らしさを感じます

創建したのは愛姫の孫にあたる綱宗です

 

 

 

ずうっと向こうに松島湾があります

津波はどの辺まで来てたのでしょう

 

陽徳院田村氏愛姫は、才色兼備、眉目秀麗と称賛された方だそうです

愛姫(めごひめ)が愛称だったということからも美しい人だったんだと思います

 

京都聚楽第の伊達屋敷にいた時には、京都の情勢を政宗に伝える、

外交官的な役目をして、まだまだ不穏な中、覚悟をしていると

手紙にも記していた、そんな女性だったとか…

  

常に匕首(ひしゅ・あいくち)を懐に 、いざという時には自ら命を絶つ、

そんな時代に生まれていたら、私はどんな覚悟が出来ただろうか

 

瑞巌寺が修復で、ほとんど見れないなんて小さい事言うてる私に何が…

 

……

 

瑞巌寺の境内には、沢山の洞窟がありました

円通院よりもずっと沢山の洞窟に石碑、仏像がありました

 

気になったのが、京都、滋賀などの西国三十三所のお寺からの

石像がずらっと並んでいました

こちらを拝めば、参拝して来たことになるそうです

出張所かな?

 

 

長命寺、 穴太寺、革堂、六角堂、六波羅密寺、清水寺、三井寺、

石山寺、興福寺南円堂、など、最近行って来たお寺の名前も

 

 

 鰻塚

瑞巌寺と鰻塚の関係が分からなかった

どうやら、松島湾で天然鰻が昭和の中ごろまでよく捕れていて

その供養にと地元の方が建てられたそうです

 成仏して下さい

 

 

瑞巌寺洞窟群は、そもそも納骨、供養のための施設で

鎌倉から江戸時代まで続きました 

洞窟のことが少し分かりました

 

芭蕉さんや大漁節を唄った方ほどの感動が無かったのは

修復でほとんどが隠れていたからですが、残念でした 

お寺の修復は、平成30年3月頃までの予定だそうです

 

 

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大英博物館展~神戸市立博物館

2015-10-08 10:36:30 | 歴史

 

大英博物館展、神戸市立博物館で見て来ました。

NHKのネット会員になって初めて招待券獲得に応募したら、なんと、

当選したのです。

ビギナーズ・ラックでしょうか(^^♪

 

 

博物館は横幅がかなりあるので、道の向かい側に渡り、撮りましたが

私のカメラでは入り切りませんでした。

 

 

 

この辺りは、元外国人居留地でした。

フラワーポットに、「神戸旧居留地」とあります。

 

居留地に残る建物

 

さて、大英博物館展ですが、今回初めて

音声ガイドを利用しました。

深夜の番組「タイムスクープハンター」私も見てました。

あのワープする時の音が展示の解説それぞれに、

キューン!

いりません(*_*;

 

カタログから

 

古代エジプトの棺 紀元前600年頃 

女性のために作られた棺です

女性の名はシェペンメヒュトさん、ある一家の女主人とか

この女性は大神殿で、シストラムという楽器を演奏していました

ミュージシャンなんですかね~♪

ところが、

なんと!

近年、CTスキャンによって中のミイラが男性だと分かったのです

更に、頭骨の中に医療器具のヘラが残されているのが分かりました

おそらく、防腐処理のため脳を取り出し、ヘラを置き忘れたのだろうと

推測されています

本来、棺の中に安置されるはずの女性ミュージシャンは

どうなったのでしょうか? 

また、ミイラの男性は誰?なぜ?

 

 

ウルのスタンダード:紀元前2500年頃

 

ウルはシュメール人の都市で今のイラク

スタンダードは軍旗

ウルの人が、戦争の時これを軍旗のように掲げていたのだろうと

推測されていますが、判明はしていません

 

箱の表裏2面の写真です

上の写真が「戦争」 下は「平和」と呼ばれ

シュメール人を描いた最古の図のひとつです

 

どちらの図も王様がひときわ大きいですね

「平和」のパネルは、宴会を開く王の元へ、様々な物資が

運ばれる様子です

「戦争」のパネルには、ロバが引く戦車に敵が踏みつけられる残酷なシーンが

実際見て、細かい石や貝が張り付けてある、

モザイクで出来たきれいな箱のようでした

幅は50cm足らずのものです

ほんとは何に使われたんでしょうか?

これからの科学の進歩で謎が解き明かされることを待っています

 

 

ロゼッタ・ストーン 紀元前196年

エジプトの政府の法令が刻まれた石です

この石には同じ文言が3つの異なる言語と文字で刻まれています

 

上段 : エジプトの神官階級が使う伝統的な文字 「ヒエログリフ」

中段 : 読み書きの出来るエジプト人が日常的に使った 「デモティック」

下段 : エジプト政府の言語であった 「ギリシャ語」

古代エジプト文明解読の鍵となった、世界で最も有名な

エジプトの遺産のひとつです

 

この3つが印象深かったでしょうか

 

知人に、ヒエログリフのイラストの入った便箋で手紙をもらって以来、

あ~大英博物館に行きたいなあと思い始めたのですが、

ロンドンに行けるはずもなく…

 

今回、神戸で大英博物館展を見ることが出来、満足です。

 

 

 

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やまとは国のまほろば

2015-09-17 12:07:47 | 歴史

 

奈良では春日大社にも行きました

 

鳥居

 

三門

 

鹿さんがくわえたおみくじ

 

春日大社は、1300年前の創建以来、

20年ごとに式年遷宮が執り行われてきました

今がその時でした

(平成28年完了予定)

 

それで神様は仮の場所におられるとか

そこは本殿に向かって左の方角らしく、ちょっと

正面より45度 左向け~左で、

 

誠をこめて

二拝二拍手一拝

参拝しました

おみくじ~末吉

その割には、いいこといっぱい書いてあり大吉級でした

 

 その後若草山に登り、降りてきたのが五時過ぎで

興福寺の境内を歩きました

五重塔、やはり高さがあります

 

       

中金堂再建中(平成30年完成予定)

前に中金堂の基壇が見えます

柱の礎石でしょうか沢山ですね~

 

国宝館

ただいま国宝級の展示品搬入?搬出?

日本の運送は世界に誇る技術だとか

宅配便のきめ細かさも、ありがたいですね

ネコさん、アリさん、カンガルーさん、ペリカンさんに、飛脚さんに、0・1・2・さん

 

 

遠くに見える山が若草山です

あのてっぺんまで登ったんですね…

 

 

東金堂

夕日が差して

 

猿沢の池 

 

南円堂 

 

ほとんど休むことなく、ここまで歩いてきました

 

のどの渇きと甘いものがほしい気持ちが一気に起きて

cafeに

sweets食べたけど、ボリュームがすごい!

店のクーラー効き過ぎ!

汗は引いたけど寒むすぎ

 

奈良の秋はとても楽しい1日でした

 

昔から、奈良の自然の豊かさと人々の心の豊かさが詠われています

 

* 万葉集 *

”あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の 薫(にほ)ふがごとく今盛りなり”

小野老(おののおゆ)

 

* 百人一首 *

 ” いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな ”

伊勢大輔

” 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも ”

安倍仲麿

” ちぎりおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり ”

藤原基俊

” この度は 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに ”

菅原道真

 

* 新古今和歌集 *

” 若菜つむ 袖とぞ見ゆる 春日野の とぶひの野べの 雪のむらぎえ ”

紀貫之

 

* 古事記 *

” やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれるやまとうるはし ”

日本武尊

 

びぃと啼く 尻声悲し 夜の鹿

松尾芭蕉

 

 

春日山、飛火野、三笠山、

 

数々の歌に詠まれた奈良の自然が手付かずのままありますように

 

 

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金印・漢委奴国王

2015-07-23 12:03:03 | 歴史

福岡市立博物館の常設展示場

         

チケットを渡し、数歩進むと薄暗くなった

             

くいっと90度右に曲がると、青白い光に包まれ

          

「漢委奴国王・かんのわのなのこくおう」 の 金印が

           

ガラスケースの中に置かれていた

           

その小ささは予想外だった

              

でも、誰もが小学生の頃から歴史で習ったあの金印を

              

目の当りにしていることは紛れもない事

                  

「お会いしたかったです」

               

そんな言葉を心の中で言いながら、しばらく、

              

金印を、四方八方から見…

               

              

博物館の中は、撮影禁止ですので売店で金印のレプリカを買いました。

実物よりさらに小さいですが

            

レプリカ             

レプリカ               

「金色が違うわ…」

本物は本物らしく光り輝いていました。

 

                

西暦57年に後漢の光武帝より「倭の奴国」の使いに授けられ

1784年、志賀島(しかのしま)で発見されました

それも、記録に基づき発掘作業があったのにもかかわらず、実際は

農作業中のお百姓さんにより田んぼの中から偶然発見されたとのこと

お役人さんは悔しかった でしょうね

               

漢倭奴国王の金印は、漢と倭の奴国友好の証しとして贈られたのですよね?

そんな大切なものをまさか、認印なんぞに使用したことはないと思いはしますが…

         

一度、宅急便が来たら、受取りに押してみたい、

押してみたい!

                       

                                     

↑ もう用済みの受け取り

                    

              

”   夢おろか  金印で受け取る  お中元   ”

                          

         

 

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近江八幡ぶらりぶらり 4

2015-06-15 15:06:27 | 歴史

「八幡堀・はちまんぼり」     

という言葉を聞くと、時代劇を連想します。

『ちょいと、八丁堀のだんな!』 なんてセリフが聞こえて来そうな、

        

こんな所を若旦那が町娘を追って、かけて来たり、

              

 こんな舟の上でお侍さんがお昼寝したり、

              

  日がな一日、釣りをしてたり、

             

  荷を運ぶ船が行き交い、

            

 運ばれてきた荷を降ろしたりまた、積んだりで賑わう船着き場

                                  

「水郷めぐり」 とはまた違う味わいです。

          

近江八幡の町が発展した理由のひとつとして、「八幡堀」は外せません。

豊臣秀次の八幡山城の防御のための堀ではありますが、この堀を

秀次は「運河」としての役目も加えました。

その頃は、陸上より水上交通が主であり、びわ湖をたくさんの船が

行き交いました。

秀次はその船をすべて、八幡の町に寄港させたのです。

城下では「楽市楽座」を取り入れていたこともあって商人の町として

発達しました。

           

ただ、昭和の高度経済成長期には水路の役目がどんどんなくなり、

草が生い茂りドブ川同様でしたが、地元の若い人たちが、清掃活動をし、

元の姿を蘇えらせたのです。

今では、近江八幡の代表的な観光地として、経済を担っています。

          

日牟礼神社の鳥居の下に八幡堀があり、遊覧船が通ります。

また、橋の袂から下に降りることが出来ます。

菖蒲や四季の花の咲く堀沿いに、地元の子ども達らしき2~3人が

走り抜けていきました。

いつもこうして、遊んでいるのでしょうね。

      

                    

             

 

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近江八幡ぶらりぶらり 3

2015-06-15 13:40:41 | 歴史

 ロープウエイ乗り場にやって来ました。

 ちょっと苦手…

          

                 

 景色が開けて来ました。

先ほどの水郷めぐりの水路や「 西の湖 」が見えます。

茶色の畑は麦でして、ここで” 麦秋や…”  と詠むところですが、

         

句が浮かびません…

 

最後方には比良山系が、西の湖の真後ろが安土山(小さく黒っぽく見えてます)で信長の安土城があった山です。

               

「 村雲御所瑞龍寺門跡 」 開山は豊臣秀次の菩提を弔うため

生母瑞龍院日秀尼公が京都の村雲に創建し、昭和36年に

ここ八幡山に移築されました。

ここは豊臣秀次が1585年に築城した「 八幡山城 」の跡です。

本丸跡(最頂部)に村雲御所瑞龍寺が建立されました。

西の丸跡、北の丸跡は今、展望台になっています。

                    

  西の丸跡  なぜか「 LOVE 」の文字とハートの形が… 

                         

 北の丸跡とあります。 辺りはきれいに整備されています。

             

 ここで皆さん、愛を誓うのですか?

             

 右側から伸びている山は長命寺山、その水際が長命寺港

この山の八百八段の階段を登ると天台宗系の「 長命寺 」があります。

         

3~4世紀、武内宿禰(たけうちのすくね)という人が長寿を祈願していました。

その後、聖徳太子がこの地に赴きそれを知り十一面観音を掘り、祀ったとのことです。

西国三十三番札所として、今も長寿信仰を集めています。 

昔は、竹生島経由の湖上交通を使ってお参りされる人が多かったそうです。

私はJRとバスで行くことになるのでしょうが、船で行く!いいですね~♪

                

展望台はハートと愛が満載でしたが、そこに辿り着くまでは

人にも会わず暗く寂しい山道でした。

古い石垣があちこちに残っていて、あ~ここにお城が建っていたんだなあ~と。

 苔むして、崩れかけた部分もありました。

            

”  古城跡 山滴りて 光成す  ”

      

”  こじょうあと やましたたりて ひかりなす  ” 

                  

             

” 戦国の階段 来た道が帰り道 ”

              

? ? ? 

           

深い意味がありそでなさそで…

          

まずは、お心遣いありがとうございます。

                  

では、下山します。

 

また、あのロープウエイで…

            

一本のロープに祈りをこめて…

                  

 

                    

 いってらっしゃ~い♪

私は降ります。

               

    

 はるか下の方に、日牟禮八幡宮の屋根が見えます。

4分ほどなのに、何だか長く乗っていたような…

             

 

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近江八幡ぶらりぶらり 2

2015-06-15 09:59:20 | 歴史

水郷めぐりから移動したのは、八幡山の麓のロープウエイ乗り場。

 

まずは、おなかを満たします。

近江牛すじそば : 赤く小さなのは近江八幡の名物「 赤こんにゃく 」です。

赤色の起源は諸説あり分かりませんが、私が好きな説は、

” かぶき者の信長が始めた ” です。

近江牛のすじ肉と赤こんは甘辛く煮てあります。

感想…

これはおそばにのせるのではなくて丼、またはそのままおかずとして

食べたかったなあ…

我がミスチョイス。

                 

さあ!おなかがいっぱいになったので、

いざ!出陣。

しかし、この戦い味方が得られず、一人戦となりました。

       

それでも八幡山の山頂を目指します。

     

山登らない人、何してるんやろ…

              

 

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大関ヶ原展~すべての戦いには人の思いがあった…

2015-06-05 10:09:14 | 歴史

              

慶長5年(1600)9月15日、あまたの武将達が参戦した戦国史上最大の戦い

『 関ヶ原の合戦 』 

この戦いはいかにして起こり、そして後世にどのように影響を及ぼしたのか。

 

 

京都文化博物館で「 大関ヶ原展 」を見て来ました。

武具であったり、手紙であったり、または絵画などを通して関ヶ原の合戦を

垣間見ることが出来ました。

有名な歴史上の人物から、これまた有名人に出した書状。

こまごまと書かれてあったり、切羽詰まった緊迫感が伝わってきたり、

書体も様々。

文の終わりに名前と花押(かおう)がしっかり書かれてあると、

「 あの武将が書いたのか~。」 と一気に時が縮まる感じがしました。

            

「家康の花押」の画像検索結果

家康の花押

               

「石田三成花押」の画像検索結果

石田光成の花押

                  

兜、刀、書状などは武将ゆかりの地が今所蔵しているものも多かったです。

そして、それはこの合戦の規模の大きさを物語っています。

東京、京都、岐阜、静岡、滋賀、大阪、愛知、山口、山形、長野、

高知、福岡、三重、佐賀、島根、香川、栃木、新潟、岡山、兵庫、徳島

 

日本の向かう方向が大きく変わった合戦、

それがたった一日だったとは!

 

ちょっとつぶやこうかな

石田光成さん、かわいそう…

                  

 

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