翌日は鹿島区にある「南相馬市生活復興ボランティアセンター」(南相馬市社会福祉協議会)を訪ね、お話しを色々と伺った。
自分は、震災当初あまりの光景に呆然として、ただ何日も頭の中が真っ白な日々を過ごし、その後もボランティアに行きたいと思いはあったのに、結局何もしなかったことを悔やんでて、その頃はブログさえ書く気にもなれず1年近く放っていた。
そんな後悔から、〝今さらながら、この先は時おりボランティアで来たい〟と思う中で、2年経ったいま現地ではボランティアを必要としてるのか、ごく短い日数来るだけの〝所詮よそ者〟のボランティアは、逆に迷惑な存在では、との思いを抱えながら訪れた。
そんな思いをかき消すように、対応して下さった方は、まるで昔からの知り合いのごとく、とても気さくに接して下さり、「遠いところ、来てくれる想いだけでも、とても嬉しい」、「今も、東京から何度も来てくれる人も多いし、広島や熊本、沖縄から来る人もいる」との事で、ボランティアは歓迎していると聞き、こちらも嬉しかった。
・・・で、その先が思わぬ急展開に。
「せっかく、今日もわざわざ遠方から来たんだから、午後から仮設の訪問活動に東京から来るグループがあるから、一緒に顔出してったら」と言われ、突然の話で一瞬チョット戸惑ったけど、もちろん喜んで行かせて頂く。ただ町を車で走り回って見てるだけじゃ、やっぱ本当の生活は分からない・・・。
スタッフの方おすすめの「福幸(復興)食堂」(被災、避難されたお店の仮設商店街)でラーメンを食べて、いざ仮設住宅へ。
ラーメンを食べた仮設の「かしま福幸(復興)商店街」
今日活動に来たグループは、東京・千葉・神奈川などから集まった「繋がり隊」さんというグループで、すでに南相馬には何度も来ていて、仮設の方とも顔見知りが多く、簡単な柔軟体操や背筋伸ばしなど、仮設では体を動かす事が少ない高齢者に運動の機会を作っていた。
そこでは元気なおばあちゃんたちが、一人また一人と段々と増え、最後は10人くらいの方が集まった。自分が思ってた以上に皆さん笑顔で明るく会話が飛び交い、笑い声も度々聞かれ、穏やかな日常のひとこまが感じられた。
もちろん、裏側には言い表せない大きな苦悩や不安があると察するけど、お別れの時も、「気ぃ付けて、帰ってな」「ありがとよ、ありがと、遠いとこぉ」と何度も言われ見送って下さった。
活動後に戻ったボランティアセンターのスタッフの方も、「ふるさとだと思って、絶対また来てね」と手を振ってくれ、つくづく今日来て良かったし、絶対この先も来ようと思った。
(写真は、初対面だし構えてしまわないよう全然撮らなかったので、ありません)
代わりに、こちらは訪ねた仮設とは違う所の様子。
「ボランティアセンター」の周辺だけでも、このように仮設住宅がいくつも点在している。
最後にこの周辺の交通事情についても、長期間相当な不便を強いられていて、それも紹介しておきたい。
南側は首都圏と結ばれていた国道6号、JR常磐線は原発事故で全く通れず、今は東北道か東北新幹線経由でなければ入れない。
南相馬と首都圏を結ぶ高速バスは、東北道経由で最近何とか再開したと思ったら、国や行政からの支援も無い中で運行継続は厳しく、今月いっぱいで再び運休となってしまう。
そして、北側の仙台方面は国道は走れるものの、「常磐道」は震災後の昨春開通した南相馬IC~相馬IC間だけで、その先は宮城県に入った山元ICまでは一般道を走る。
電車も、いま運行出来ているのは津波被害が無かった原ノ町駅(南相馬市)~相馬駅(相馬市)間だけで、新地駅(新地町)~山下駅(宮城県山元町)あたりは、完全に線路が跡形もなく消え去った所も多く、現在は「JR代行バス」での移動で所要時間が大幅に長くなり、乗換えの煩雑さも大きい。
「ボランティアセンター」を訪ねる前、午前中にわざわざホテルにレンタカーを置いて、「代行バス」にも試しに乗ってみたけど、〝列車代行〟なので一駅ごとに国道を離れ、駅前まで入り込み、Uターンして戻るなど、地元の毎日の暮らしとなれば、その不便さ、通勤・通学時間の長さは相当負担だろうと感じられた。
(一部、主要駅だけに止める便もある)
何より「新地駅」「山下駅」といっても、本当の駅舎は津波で流失してしまっているし、周囲の民家も無くなっているので、「駅」と言っても離れた役場前などが「駅」となっていて、仮設の待合室がポツンと置かれているといった状況。
それでも原ノ町~相馬間で再開した電車は、両側が不通という中で〝離れ小島〟になってでも再開したのは明るい話。
原ノ町~相馬のわずかな区間だけど、離れ小島になっても運行を一部再開させた電車。(相馬駅)
何しろ、線路が繋がってないから、復旧に際して〝電車は道路を陸送して送り込む〟という困難を乗り越えて再開された。
相馬から仙台方面は、「代行バス」に乗換えを強いられる。
予定では2017年度に復旧予定だけど、まだ4年も先のこと。
これだけ4回に分けて書いても、まだまだ書きたいことは沢山あるんだけど、さすがに今回はこれで終わりにして、最後はyoshyyがどうしても忘れられない言葉を記して結びます。
それは、原発事故後に東電幹部が双葉郡のある町の避難先へ謝罪に訪れた際、住民の一人が言った言葉・・・。
「あなたには、私が地元の消防団員として、(地区の住民が)流された車の中から、まだ息があって助けてくれ!助けてくれ!と、何度も何度もクラクションを鳴らす音を聞きながら、「危険だ!早く逃げろ!」と後ろ髪引かれる思いでバスに乗せられ、そのまま助けに行けなかった私の気持ちなんて、わかりますか」
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