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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

満州語を話す満洲人は数万人のみ(服部四郎)

2020-09-24 03:49:42 | コラムと名言

◎満州語を話す満洲人は数万人のみ(服部四郎)

 昨日、引用した文章の中に、服部四郎の名前が出てきた。古モンゴル語の研究などで知られる高名な言語学者である(一九〇八~一九九五)。橋本進吉(一八八二~一九四五)、金田一京助(一八八二~一九七一)、小倉新平(一八八二~一九四四)らに師事した。同期に、有坂秀世(一九〇八~一九五二)がいる。
 服部四郎については、以前、このブログで、その著書『蒙古とその言語』(湯河弘文社、一九四三)の一部を紹介したことがあった。昨日、久しぶりに同書を引っぱり出して読んでみたが、何度、読んでもおもしろい。復刻に値する名著だと思った。
 以下に、一部を、引用してみよう。文中、「大黒河」とあるのは、アムール河のことか。

 日本語・琉球語や朝鮮語と系統を同じくするらしい言語が外にあるか? ある。満洲語・ 通古斯【ツングース】語・満洲語・蒙古語・土耳古〈トルコ〉語などがそれである。それらの言語は「アルタイ語族」を形成するといはれ、西から東へと、土耳古・蒙古・通古斯の三語派に分れると説かれ、文法体系が酷似してゐるのみならず、語彙も類似してゐるのであるが、まだこの三者が同系であるとの断定は差控へなければならない理由がある。それは比較言語学の方法上の困難と関係があるのでここで説くわけにはいかない。しかし三者が同系である可能性は極めて大きいといへる。
 満洲語とは、満洲に興り〈オコリ〉清朝を建てた満洲族の言語のことである。今日満洲国でいふ満洲語或は満語は支那語であつて、この言語ではない。満洲には多数の支那人が移住したのみならず、固有の満洲人も満洲語を忘れて支那語を話すやうになつてゐる。今日なほ満洲語を話してゐる満洲族は、清朝に移住させられた北部新彊〈シンキョウ〉省の数万人を除いては、確実に知られてゐるものはない。満洲国の中では、私の知る範囲では、愛琿〈アイグン〉附近の満洲人に多少望〈ノゾミ〉が掛けられる位のものであらうと思ふが、これとても最近の確実な調査報告がない。ロシヤの蒙古語学者ルードニェフが一九〇七年にペテルブルグで愛琿と大黒河の中間のオフォロ・トクソ出身の若い満洲人の言語を調査してゐるが、立派な満洲口語である。ルードニェフは一九〇三年に、東支鉄道の車中、鉄道の車中、満洲里〈マンシュウリ〉駅から満洲語の会話を聴きながら旅行した経験や、斉斉哈爾〈チチハル〉の街上で子供達が満洲語を話すのをきいたことがあると記してゐる。私自身は、満洲国で新彊省出身の満洲人から純粋の満洲口語を聴いたのみである。このやうに満洲語はほとんど死滅せんとしてゐることはアイヌ語と同様であるが、アイヌ語とは異なり過去の文献はかなり豊富である。いづれも清朝にできたもので、大部分は支那語からの翻訳である。蒙古字を改めて造つた満洲字(蒙古字と同様、縦書きで行は左から右へ)で書かれてゐる。満洲語に関する十分な調査は発表されてゐないけれども、これらの文献によつて、満洲文語の言語構造を明確に知ることができる。朝鮮語と同様一語々々を訳して行けばひつくり返らないでそのまま日本文となるといつてよい。一例を示せば次の通り、
 manju  bithe  hūllara  niyalma  oci,  unlnakū  hergen  tome  gemu
 満洲  書  読む   人   は  必ず   字    毎に  悉く
 getukeleme  saci  acambi.  Majige  heoledeci  ojorakū.   aikabade  ere
 究明して 知るべきである。少しも 怠つては ならない。 もしも  この
 bithede  ejehengge  getuken  akū  oci,  gūwa  bithede  teisulebuhede
 書に 記したことが 明かで ない ならば 別の 書に  出会したときに
 uthai  tengkime  same  muterakū  ombi.   uttu  sere  anggala,  yaya
 直ちに はつきりと 知り 得なく   なる。  かう いふ のみならず あらゆる
 niyalma  belge  i  gese  erdemu  bici  beye  de  tusangga  sehe  bade,
 人は   米粒  の やうな 技  あれば  身  に  益あり といふ のに
 aikabade  gūnin  de teburakūci  ombio.   kicerakūci  geli  ombio.
 万一      心  に とどめずして ならうか。 励まずして また よからうか。

 これは、「国語の周囲――蒙古語と日本語の関係――」という章の一部で、満洲語について解説している。この間、接続詞の使用は一度のみ。センテンスからセンテンスへの論理展開が、実に巧みである。服部四郎がナミの学者でないことに、あらためて気づかされた。

*このブログの人気記事 2020・9・24(9位になぜか木村亀二)

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大橋保夫の論文「ソスュールと日本」(1973年8・9月)

2020-09-23 00:03:30 | コラムと名言

◎大橋保夫の論文「ソスュールと日本」(1973年8・9月)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十 国語学原論」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

     三
 さて時枝誠記博士の言語過程説についての根本的な批判は『国語学原論』が公刊されて十数年たって現れる。それは言語学者服部四郎博士が昭和三十一年〔一九五六〕十一月三日、京都大学で開かれた国語学会公開講演会において、「言語過程説について」と題して行われた講演で、のち同じ「言語過程説について」(「国語国文」昭和三十二年一月)という論文として活字化された。時枝博士は所用があって服部博士の講演は聞かれていないが、服部博士の論文に対して「服部四郎教授の『言語過程説について』を読む」(「国語国文」昭和三十二年四月)という論文を書かれて反論されている。ところで、この服部、時枝両博士の言語過程説についての論争であるが、この論争についてまた十数年たって言語学者大橋保夫氏が「ソスュールと日本 服部・時枝言語過程説論争の再検討(上)(下)」(「みすず」第百六十六号、第百六十七号、昭和四十八年八月号、九月号)と題して長大な論文を書かれている。これは大橋氏が昭和四十八年〔一九七三〕五月十九日に行われた日本フランス語フランス文学会大会の特別シンポジウム「ソスュールをめぐって」でされた話をもとにして、その日割愛した服部博士のソスュール解釈に対する批判の実例を加えられたものであるが、氏はまず(上)で日本で行われて来たソスュール〔Ferdinand de Saussure〕をめぐる論争の意義を再確認しようとされて、次のようにいわれる。
《日本においてソスュールがこれほどよく読まれ、また大きな影響をおよぼした理由の一つは、言うまでもなく小林英夫氏の活躍にある。単にきわめて精緻な翻訳を出し精力的な紹介を行っただけでなく、ソスュールおよびそれにつながる西欧のいろいろな新しい言語学の理論と方法で武装して、旧式の日本の国語学者の研究にきびしい批判を加えたので、言語の研究を志す者はすべてソスュールを研究せざるを得なくなったのである。こうして、 「近代言語学=ソスュール」という等式が成り立つと言ってもあまり誇張でないほどの状況が生れた。デ・マウロが小林氏の功績を無視してポリワーノフやパーマーの影響を言うのは不当であろう。
しかし、わが国でのソスュール受容を特異なものとし、ソスュールを批判の対象とすることによってソスュールを有名にしたのは、言うまでもなく時枝誠記の「言語過程説」である。主著『国語学原論』(岩波、一九四一)は、その名前からも明らかなように、Cours 〔Cours de linguistique Générale,1916〕(当時の邦訳題名『言語学原論』)に対置すべきものとして書かれている。言語過程説そのものの当否については論議が今も統いているわけだが、ここではそれをいちおう別にしておこう。それに対し、言語過程説の出発点になったソスュール批判についてはCours の読み方を誤っているとする指摘がいくつも出され、時枝自身は承服してはいないけれども、「仮に一歩を譲つて、私のソスュール解釈に誤りがあつたとしても、それによつて言語過程説の妥当性を云々することは、当を得たことではない」という線まで後退し、一般には議論は落着したかのように思われている。》
 大橋氏はこのようにいわれて時枝博士を批判した服部博士のソスュールの読み方が正しいかというと決してそうではないとし、服部博士のソスュールの読み方を検討していかれる。そして(下)に至って、
《前回は、時枝誠記のソスュール批判の中心であり、服部四郎氏の時枝誠記批判の出発点になっている「実在体」entitéの解釈について、それがはっきり実在論的言語観に立つものであることを述べた。「言語過程観」は「言語実在観(実体観)」に対置されているのであるから、「実在」とは何かが追究されなければならないのは当然であるけれども、同時に「言語」の概念を明確にすることが必要であることは言うまでもない。
 小林英夫氏が「言語」と訳した原語がlangueであり、それに対し時枝誠記が「言語」と呼んでいるものはソスュールの用語で言えばlangageに対応するものであって、フランス語にしてしまえばさきの「言語【ラング】実体観」と「言語【ランガージユ】過程観」とを対立的にとる必要はないようにも見える。また、ソスュールがラングとランガージュとの 間に立てた基本的区別を時枝誠記が無視してソスュール批判を行ったのは、服部氏その他の人々の指摘のとおり、不適切と言うほかはない。しかしながら私は、時枝誠記の理解がこのように不十分であるにもかかわらず、ソスュール/時枝誠記の対比は言語学にとって基本的な重要性をもつ問題であって、服部氏の説くような形で解消しうるものではないと考える。》
と述べられる。この辺を一々紹介しえないのは心残りであるけれども、私はこの論文で大橋氏が言語過程説の意義にいい及ばれるところまで引用を飛ばそうと思う。
《時枝誠記のソスュール解釈が多くの誤解を含んでおり、そのソスュール批判が的はずれであり、また言語過程説の理論に粗雑なところがあることは否定しがたい。私は、最上の言語過程説批判は、時枝・服部を通さないソスュールそのものにあると思っている。しかし、それにもかかわらず、言語過程説の意義を評価する。なぜならばそれは、本質的部分の追究によって普遍性を把握するためにソスュールが意識的に排除した、個別性・多様性を、もっとも意識的に、かつシステマティックに取扱おうとした言語学だからである。ソスュールが可能性を否定しないまでも本来の言語学から排除した「パロルの言語学」の価値をもっとも明確に把握したものは言語過程説であろう。》
 要するに大橋氏はこの論文で服部博士のソスュール解釈を批判されているのであるが、それは同時に時枝博士のソスュール解釈の修正にもなっているのであった。氏はこの論文の結び近くで、「当時、国語学界と言語学界の最高峰として自他ともに許した時枝誠記と服部氏の論争が、ここに述べたようなソスュール理解にもとづいていたのは、学問のために残念なことであった。」と述べられているが、この論争の服部博士に対する批判がないだけに私は大橋氏の論文は興味深いものであると思う。

 明日は、いったん、根来司著『時枝誠記 言語過程説』から離れる。

*このブログの人気記事 2020・9・23

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西田幾多郎と時枝誠記

2020-09-22 00:02:23 | コラムと名言

◎西田幾多郎と時枝誠記

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十 国語学原論」を紹介している。本日は、その四回目。

 さて西田〔幾多郎〕博士というとさきに述べた不朽の著作『善の研究』が思い浮かぶ。『善の研究』は日本人の手になったはじめての独創的な哲学者といわれ、西田哲学を学ぶ者には大切な書であった。ところで、西田博士の著述を見て気づくことは『善の研究』以外の著作はすべて論文集であるということである。ということは、西田博士はこの『善の研究』の他には数年をかけて一つの著述をなしたものはないということである。そういえばわが国の他の哲学者のものでもその独創的な息吹きの感じられるものが、短編の論文かせいぜい中編の論文であることが知れる。そういう意味でまた時枝〔誠記〕博士の『国語学原論』は西田博士の『善の研究』に比すことができるが、時枝博士という体系家の『国語学原論』は言語の本質とは何かが展開の主導音になって進められている。そしてこれは博士の想像を絶する強靭な思索力によるだけでなく、博士が反復し彫琢〈チョウタク〉したためであって、その結果首尾一貫した体裁の整った完成した著作の形になったのである。よく時枝博士の『国語学原論』は難解であるという。しかし、その強靭な思索を論理的に述べていく文章の間に時々魂の底からほとばしり出たかのような啓示的な文句が現れて全体の文章に光を投げかける。例をあげると各論第五章敬語論における「敬語は確かに国語研究に於ける一の迷路である。」のように。するといままで難解をかこっていた私たちは急に救われたような気がしてさきを読み続けていくことができるのである。
 そこで時枝博士が言語過程説という独削的な言語学説をうち立て、それ以外の言語学説を一切引っくるめて言語構成説と呼んだ。それは言語過程説に対立しやがて対決を迫られている学説と断じられるのを、時枝博士の強い自信から来るもののように考える向きもあるが、このことについて一言しておきたいと思う。それにつけて思い起こすのは、作家野間宏氏の「哲学に求めるもの」(「図書」昭和四十二年十二月号)という文章である。野間氏は第三高等学校文科から京都大学仏文学科に進んだ人であるが、高等学校のおわり頃からデカルト、スピノザ、カント、ヘーゲル、マルクスから、西田幾多郎、田辺元両博士の書を耽読〈タンドク〉したという。氏はこの中でヘーゲルの『大論理学』第一版の序文にヘーゲルのカントに対する激しい批判があるのを引き合いに出されて、「このような限りなくきびしい批判を下して、別の体系の哲学を葬り去ろうとするのは、哲学が他の哲学の打倒そのものをその目標としているからではなく、あらゆるものの根拠を問いただし、物事をその根底からとらえようとするその学問の性格からくるのであって、その根拠とするところが、真でないとつきとめた他の哲学にたいしては、その根拠とするところを根元からほりくずして、そ のままそれが倒れるのを見るほかないというにすぎないといった方がよいだろう。」というふうにいわれている。すると時枝博士が橋本進吉博士の言語学説を激しく批判しそれを打ち崩そうとするのも同じ事情に属するといえるのではなかろうか。私は学問的生命を賭け橋本博士の学説さえも批判の対象としていく時枝博士の真剣な態度に哲学者のそれを観じるのである。
 私はここで時枝博士がこのような言語学説を構築するためにどのように精進されたかをうかがわなければならないが、それには京城大学時代の上司であった高木市之助〈イチノスケ〉博士に「時枝さんの思出」(「国文学」昭和四十七年三月、臨時増刊)という一文がある。その中で高木博士は時枝博士が創設されたばかりの京城大学に招聘に応じて赴任されるいきさつを書かれ、高木博士が京城大学の国語学講座の教授を物色し東京に帰って橋本博士を訪問し意見を求めたところ、橋本博士は新卒の範囲でならといってただ一人若き日の時枝博士を推挙されて、そこで卒業論文の内容についても紹介し将来に大きく望みをかけられると保障されたといわれ、時技博士が京城において新しい学説言語過程説を構築していかれるさまを次のように述べられるのである。
《話がいささか閑話にそれた嫌いがあるが、さてそれでは時枝さん一人について、何よりも時枝国語学の大を生んだものは何かと問われるなら、それこそあの一つの問題に対する学問的生一本さで少しの浮気もなかったことを言いたい。橋本博士がその学的性格を異にしつつも、あえて私にその大成を見通して大学の席を推薦されたのもそれを見据えた眼力にあるのではなかろうか。時枝さんがあの独自の言語過程説を構築して行かれる姿勢は正に科学者的であった。毎朝大学の研究室に姿をあらわし、そこで昨日の続きを考え続け、夕方にはそこの戸閉まりをして帰ると今度はまたよき家庭の人となり或いは時によき酒席の人となり、そして翌朝はまた研究室の人となり昨日の続きを考えるに余念がない。それこそ科学者が或る実験的課題と取組んで毎日実験室の人となるのと酷似してはいないか。だから雑誌原稿などの場合でも多くの場合この生一本〈キイッポン〉さから脱線して浮気を起すのではなく、この生一本さの或る部分を切り取ってその部分をまとめているに過ぎないのである。もっと言えば、時枝さんの学問に対する操守みたいなものは、時枝さんの日常生活と別の範疇に属し、また大学教授などという職業意識などよりも遥かに高い次元に護られていたことが後から見て誠に尊く偲ばれてならないのである。》
 これを読むと一つの問題に身をもってぶつかっていく時枝博士の真剣さがまざまざと感じられる。このように西田博士の学問と時枝博士の学問を照らし合わせる人はないけれども、合わせてみると両博士が学問に対してほぼ同様なことを、ほぼ同様な態度で考えていたことが明らかになるのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・9・22(10位になぜかブラジル人少年)

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時枝誠記と小林英夫

2020-09-21 03:05:23 | コラムと名言

◎時枝誠記と小林英夫

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十 国語学原論」を紹介している。本日は、その三回目。
 
     二
 時枝誠記博士は全生涯におけるすべての著書論文を通じて、言語とはいったい何であるかを考究された。それは私にはかの哲学者西田幾多郎〈キタロウ〉博士が私たちの自己とはいかなるものであるかを問題にしたのを思い起こさせる。よく西田博士門下の哲学者は博士に接してまず感じるのは思想を求めることの激しさであって、この激しさは博土がいつも何ものかに駆り立てられて思索していることを示すものであるという。そういえば国語学者で時枝博士くらい常に何ものかに駆り立てられるように思索していく学者を知らないので、私はここで両者を照らし合わせて考えてみたいと思う。
 さて時枝博士の『国語学原論』は第一篇総論、第二篇各論から成る。総論は一言語研究の態度、二言語研究の対象、三対象の把握と解釈作業、四言語に対する主体的立場と観察的立場、五言語の存在条件としての主体、場面及び素材、六フェルディナン・ド・ソシュールの言語理論に対する批判、七言語構成観より言語過程観へ、八言語の構成的要素 言語の過程的段階、九言語による理解と言語の鑑賞、一〇言語の社会性、一一国語及び日本語の概念、一二言語の史的認識と変化の主体としての「言語」の概念に分かれ、フェルディナン・ド・ソシュール〔Ferdinand de Saussure〕の言語理論を批判するという形で、博士独自の言語本質観である言語過程説の立場を説明する。ついで各論は第一章音声論、第二章文字論、第三章文法論、第四章意味論、第五章敬語論、第六章国語美論に分かれ、言語過程説の立場から国語の諸事実を説明しているのである。それは『国語学原論続篇』が『国語学原論』以後の時枝博士の言語過程説の発展を体系的にまとめたものといいながら、第一篇総論が一『国語学原論正篇』の概要と『続篇』への発展、二言語過程説の基本的な考へ方、三言語過程説における言語研究の方法に分かれ、第二篇各篇が第一章言語による思想の伝達、第二章言語の機能、第三章言語と文学、第四章言語と生活、第五章言語と社会及び言語の社会性、第六章言語史を形成するものに分 かれていて全く組織が違うのである。では時枝博士自身日本の六百年の伝統的な国語研究の中に潜んでいるものを育てて言語過程説と名づけ、これを近代的な言語理論に組み替え学問的に体系立てた『国語学原論』はどのようにしてまとめられたのであろうか。それにつき時枝博士が『国語学原論』を書いていかれる頃、身近かにいた言語学者小林英夫博士の「日本におけるソシュールの影響」(「言語」昭和五十三年三月号、特集ソシュール――現代言語学の原点)という文章を見たい。小林博士はこの中で橋本進吉博士がソシュールの学説に異常な興味を示し橋本博士の学説にソシュールのそれが色濃く出ていることをいわれ、
《いま引合いに出した時枝氏がアンチソシューリアンであることは天下周知のことにぞくする。しかしこれこそもっとも深刻なソシュール学の影響と見て見られないことはないのだ。
わたしの京城帝大赴任は一九二九年〔昭和四〕春のことであるが、一年前に赴任された時枝氏は当時ヨーロッパに留学中であり、その秋にもどられて、わたしは久しぶりに再会したのである。というのも東大生時代いっしょに金田一〔京助〕講師のアイヌ語学のクラスに出ていたので旧知だったからである。
 時枝君は帰来、熱心にソシュールを勉強した。そしてそれをうのみにせず、合点のいかない点はあくまでも究明せずにはおかなかった。研究室が近かったので、ほとんど毎週一・二度はわたしの部屋へ見え、議論を吹っかけた。そしてその議論の末が必ず論文となって現われるのであった。あの『国語学原論』は、よくみれば一貫した成書ではなく、いくつかの論文の集成に外ならぬのだが、その一つ一つは必ずわたしとの議論の末になるものであった。かれの有名な言語過程説の解説や批判を今ここでおこなうつもりはない。ただここで明らかにしておきたいことは、それの出産の秘密である。結果においてたとえ消極的であろうとも、右の意味で、かれもまたソシュールの影響下にあることは認めざるをえないところである。
 ただかれのソシュール理解なるものは、多くのばあい『原論』〔ソシュール『一般言語学講義』〕の初めの数章を読んでえた印象をもとにして成立したものであり、けっして全巻を読破した上これを構造的に把握して成ったものではないのである。かれは暁星中学の出身ではあったが、大学を出たころはその仏語力の大半を喪失しており、もっばらわたしの訳書〔小林英夫訳『言語学言論』一九二八〕を通じて泰西の言語学説を吸収することを努めていたようである。》
と述べておられる。小林博士は論文「文体論」を京都大学に提出して学位を取った人であるが、これは晩年の文章であるためかまことに鈍いというか味気ない文章である。私は日本の学者は自分でものを考えていくタイプの人は少ないが、時枝博士はその少ない学者の一人であると考える。したがって、この『国語学原論』がいくつかの論文の集成などとは考えない。そういう意味で『国語学原論』は非常に重要な書であると思う。西田博士の高弟下村寅太郎博士の『若き西田幾多郎先生――『善の研究』の成立前後――」(昭和二十二年〔2〕)をひもとくと、西田博士の最初の体系的著作である『善の研究』(明治四十四年)が金沢という北国の辺陬〈ヘンスウ〉において、不遇な高等学校の一教師によって成ったことの意義を高く評価していられるが、時枝博士の『国語学原論』も決して学問研究に最も有利な中央の学界において成立したのではなく、朝鮮の京城の地において若い一人の国語学徒によって成った。博士はただ一人で思索するよりほかなかったのであるが、そうはいっても近代の学問は単に一人の強靭な思索力だけでは形成されるものでなく、やはり近代の学問の成果を身につけなければならない。そのためには西欧の学術書を読破しその内容を把握しなければな らなかったのであるが、時枝博士はその方面を恰好〈カッコウ〉の小林博士に俟ったのであろう。とにかく学問の中心から遠く離れた地でただ一人思索を専らにして、「文の解釈上より見た助詞助動詞」(「文学」昭和十二年三月)、「心的過程としての言語本質観」 (「文学」昭和十二年六月、七月)、「語の形式的接続と意味的接続」(「国語と国文学」昭和十二年八月号)、「文の概念について」(「国語と国文学」昭和十二年十一月、十二月号)、「言語過程に於ける美的形式について」(「文学」昭和十二年十一月、昭和十三年一月)、「言語に於ける場面の制約について」(「国語と国文学」昭和十三年五月号)、「場面と敬辞法との機能的関係について」(「国語と国文学」昭和十三年六月号)、「菊沢季生氏に答へて」(「国語と国文学」昭和十三年九月号)、「国語のリズム研究上の諸問題」(「国語・国文」昭和十三年十月)、「敬語法及び敬辞法の研究」(京城大学文学会論纂第八輯『語文論叢』所収、昭和十四年二月)、「言語に於ける単位と単語について」(「文学」昭和十四年三月)、「国語学と国語の価値及び技術論」(「国語と国文学」昭和十五年二月号)、「懸詞の語学的考察とその表現美」(『安藤教授還暦祝賀記念論文集』昭和十五年二月)、「言語に対する二の立場――主体的立場と観察的立場――」(「コトバ」昭和十五年七月)、「言語の存在条件――主体、場面、素材――」(「文学」昭和十六年一月)というように多くの論文を次々と書き進めていかれたのである。これらの論文は問題へのさぐりの入れ方、解答にまで導くそのいき方にいささか強引性急なものがありはするけれども、そこにまた時枝博士の国語学徒らしい熱情的なものがあり、ここに『国語学原論』のなまなましい源泉を見ることができるのである。【以下、次回】

〔2〕下村寅太郎博士は明治三十五年〔一九〇二〕生まれ、第三高等学校から京都大学哲学科に進まれた。時は西田幾多郎博士、田辺元〈ハジメ〉博士と続く京都学派の全盛期であった。のち東京文理科大学助教授を経て教授になった。私〔根来司〕は在学中西洋哲学史の講義を聞いた。博士の処女作は西哲叢書の一冊『ライプニッツ』(昭和十三年)であり、続いて『科学史の哲学』(昭和十六年)を書かれたが、これが出世作となり、『無限論の形成と構造』(昭和十九年)で学位をえた。昭和四十六年『ルネッサンスの芸術家』(昭和四十四年)で日本学士院賞を受けられた。その後も老いを知らぬかのように、『モナ・リザ論考』(昭和四十九年)、『ブルクハルトの世界』(昭和五十八年)など名著が相次ぐ。畏るべきことである。

 注〔2〕は、「第十 国語学原論」の最後に置かれていたが、便宜上、ここに置いた。

*このブログの人気記事 2020・9・21(9位の『暗黒街のふたり』は久しぶり)

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『国語学原論続篇』に対する阪倉篤義の書評(1956年7月)

2020-09-20 01:59:06 | コラムと名言

◎『国語学原論続篇』に対する阪倉篤義の書評(1956年7月)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十 国語学原論」を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した箇所のあと、改行せずに、次のように続く。

これに対して、昭和三十年〔一九五五〕六月に公刊された〔時枝誠記〕博士の『国語学原論続篇――言語過程説の成立とその展開――』の書評新刊紹介はいくらもあるが、次にその最もすぐれたものとして「国語学」第二十五集、昭和三十一年〔一九五六〕七月に載った阪倉篤義〈アツヨシ〉博士の書評を引いてみよう。まず阪倉博士は、「本書の正篇『国語学原論』が刊行されたのは、昭和十六年〔一九四一〕の末であった。入営を旬日の後に控へたあわただしさの中で、恐らくはこれが最後の読書になることを覚悟しながらあの書物を読み終へた時の交々〈コモゴモ〉の感慨を、今なほ鮮かに想ひ起すことができる。無論それまで、学生時代から、京城大学の時枝教授の論文に接する機会は、決して少くはなかつたし、『国語学史』もその前年〔一九四〇〕に既に刊行されてゐた。ただしかし、言語過程説と称する、氏の特異な言語本質観に基いて、果して一貫した国語学の体系が立て得られるものかどうかといふ点にはなほ、期待をまじへた不安の念の去り難いものがあつたのは事実であつた。その時に当つて『国語学原論』は、文法論を中心として、その期待に見事に答へるものであったのである。『従来の構成主義的言語学の諸部門が、言語過程観に従つて、如何に根本的 に改められねばならないかを明かにする為に、具体的な国語現象に直面しつつ、これを新しい体系に組織することを試みた』といふ序文のことばには、必ずしも無稽の揚言とはなし得ないものが含まれてゐることを思はせられた。あの書物の成立を見て、われわれは言語過程説なるものを改めて認識し、そして新しい視野の展開を予想して胸躍らせることができたのである。」というふうに、『国語学原論』が刊行された昭和十六年末、入隊を間近かに控えてこの 『正篇』を読んだ感激を語られ、ついで『続篇』の書評をはじめられる。
《しかしながら、博士にとつて、この「原論」正篇は、その後の研究の基礎工作に過ぎなかつたやうである。「如何なる問題を捉へ、如何なる領域を展開し、そして国語の全貌を学問的体系の下に如何に描き出すかといふことは、全く今後に残された問題である」とは、その後六年、終戦のすぐ後(二十二年)に刊行された「国語研究法」に披瀝された抱負であつたが、今回の続篇に至つては、更にかう述べられてゐる。「(正篇の)第二篇の各論は、当然、「正篇」の総論の展開したものであるべき筈であるが、実は、この各論の組織は、在来の言語学、国語学の諸部門をそのまま踏襲したに過ぎないものであつて、そこには、まだ、言語過程説独自の体系といふものは、打出されてゐなかつた。従つて、各論は、総論を承ける〈ウケル〉ものとしては、甚だちぐはぐなものとなつてしまつたのである」。ここにこの続篇が書かれなければならなかつた重要な動機が存するといふのであり、従つてこの続篇において、はじめて、言語過程説に基く国語学の体系は正しく展開されてゐるものと見るべく、今後の言語過程説批判は、ここに説かれてゐるやうな点に基いてなされなければならないといふことになるのであらう。
 ところで、少しく意外なことに、今この続篇を読み終へての全体的な印象は、かつて正篇に接した際に与へられた感銘に比べると、むしろやや稀薄なやうに感じられる。われわれは、この書物においては、もはや正篇における時ほど、論の特異さによる驚きを経験しはしないのである。これは一つには、早く言語過程説のよつてゐた機能主義的な立場といふものが、もはや現在では国語学界に、かなり一般的な考へ方になつてしまってゐるといふことにもよるのであらう。「正篇」から「続篇」への十四年間は、終戦を間にはさんで、学界にとつてもまた大きな変動の時期であつたことを、改めて想ひ起させられるのである。が、又一つには、右のやうな「続篇」の議論の穏やかさといふものが、実は、言語過程説の側から現在の一般的な議論の方へ歩みよることによって生れて来た面のあることをも指摘できるのではあるまいか。言語過程説に対する批判はこれまで数多く現はれたが、その中心をなすものは、この理論が個人心理学的であり、言語の社会性についての考慮を欠いてゐるといふ点に 関する非難であつた。「続篇」は、かなり意識的に、この批判に答へようとされた点が窺はれる。言語の社会性といふ問題は、言語過程説からでも、かういふ風に説明できる。といふところから、更に進んで、そのやうな言語の社会性を正しく論じ得るところにこそ、この理論の特質はあるとまで主張されるに至つてゐるのがこの続篇である、と見るのは誤りであらうか。》
 阪倉博士のこの書評は正鵠〈セイコク〉をえていると思う。時枝博士はさきの紹介に見られるとおり、日本固有の言語観をたどる国語学史研究からはじまり、『国語学原論』において日本古来の言語観にもとづく言語過程観の正当さを強調された。つまりこの言語過程観は日本の古い研究の中に培われた〈ツチカワレタ〉言語本質観であって、それはヨーロッパに発達した言語構成観に対するそれであった〔1〕。

〔1〕元神戸大学学長須田勇博士は数年前私〔根来司〕に言語と脳の関わりから国語学者時枝誠記博士が言語を心的過程とみるのはきわめて興味深いと語られ、著者『第二の知』(昭和五十六年)に述べられるようなことを教えてくださった。須田博士は明治四十五年〔一九一二〕生まれ、慶応義塾大学医学部本科をおえ、昭和二十年〔一九四五〕瘋癲痙攣の研究で北里柴三郎賞を受けられた。のち神戸大学医学部教授、医学部長を経て、神戸大学学長になられた方であるが、『時枝誠記博士論文集』全三巻(昭和四十八年――昭和五十一年)を読まれたよしである。

 ここまでが、「第十 国語学原論」の「一」である。注〔1〕は、もともと、「第十 国語学原論」の最後に置かれていたが、便宜上、ここに置いた。

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