◎大橋保夫の論文「ソスュールと日本」(1973年8・9月)
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十 国語学原論」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
三
さて時枝誠記博士の言語過程説についての根本的な批判は『国語学原論』が公刊されて十数年たって現れる。それは言語学者服部四郎博士が昭和三十一年〔一九五六〕十一月三日、京都大学で開かれた国語学会公開講演会において、「言語過程説について」と題して行われた講演で、のち同じ「言語過程説について」(「国語国文」昭和三十二年一月)という論文として活字化された。時枝博士は所用があって服部博士の講演は聞かれていないが、服部博士の論文に対して「服部四郎教授の『言語過程説について』を読む」(「国語国文」昭和三十二年四月)という論文を書かれて反論されている。ところで、この服部、時枝両博士の言語過程説についての論争であるが、この論争についてまた十数年たって言語学者大橋保夫氏が「ソスュールと日本 服部・時枝言語過程説論争の再検討(上)(下)」(「みすず」第百六十六号、第百六十七号、昭和四十八年八月号、九月号)と題して長大な論文を書かれている。これは大橋氏が昭和四十八年〔一九七三〕五月十九日に行われた日本フランス語フランス文学会大会の特別シンポジウム「ソスュールをめぐって」でされた話をもとにして、その日割愛した服部博士のソスュール解釈に対する批判の実例を加えられたものであるが、氏はまず(上)で日本で行われて来たソスュール〔Ferdinand de Saussure〕をめぐる論争の意義を再確認しようとされて、次のようにいわれる。
《日本においてソスュールがこれほどよく読まれ、また大きな影響をおよぼした理由の一つは、言うまでもなく小林英夫氏の活躍にある。単にきわめて精緻な翻訳を出し精力的な紹介を行っただけでなく、ソスュールおよびそれにつながる西欧のいろいろな新しい言語学の理論と方法で武装して、旧式の日本の国語学者の研究にきびしい批判を加えたので、言語の研究を志す者はすべてソスュールを研究せざるを得なくなったのである。こうして、 「近代言語学=ソスュール」という等式が成り立つと言ってもあまり誇張でないほどの状況が生れた。デ・マウロが小林氏の功績を無視してポリワーノフやパーマーの影響を言うのは不当であろう。
しかし、わが国でのソスュール受容を特異なものとし、ソスュールを批判の対象とすることによってソスュールを有名にしたのは、言うまでもなく時枝誠記の「言語過程説」である。主著『国語学原論』(岩波、一九四一)は、その名前からも明らかなように、Cours 〔Cours de linguistique Générale,1916〕(当時の邦訳題名『言語学原論』)に対置すべきものとして書かれている。言語過程説そのものの当否については論議が今も統いているわけだが、ここではそれをいちおう別にしておこう。それに対し、言語過程説の出発点になったソスュール批判についてはCours の読み方を誤っているとする指摘がいくつも出され、時枝自身は承服してはいないけれども、「仮に一歩を譲つて、私のソスュール解釈に誤りがあつたとしても、それによつて言語過程説の妥当性を云々することは、当を得たことではない」という線まで後退し、一般には議論は落着したかのように思われている。》
大橋氏はこのようにいわれて時枝博士を批判した服部博士のソスュールの読み方が正しいかというと決してそうではないとし、服部博士のソスュールの読み方を検討していかれる。そして(下)に至って、
《前回は、時枝誠記のソスュール批判の中心であり、服部四郎氏の時枝誠記批判の出発点になっている「実在体」entitéの解釈について、それがはっきり実在論的言語観に立つものであることを述べた。「言語過程観」は「言語実在観(実体観)」に対置されているのであるから、「実在」とは何かが追究されなければならないのは当然であるけれども、同時に「言語」の概念を明確にすることが必要であることは言うまでもない。
小林英夫氏が「言語」と訳した原語がlangueであり、それに対し時枝誠記が「言語」と呼んでいるものはソスュールの用語で言えばlangageに対応するものであって、フランス語にしてしまえばさきの「言語【ラング】実体観」と「言語【ランガージユ】過程観」とを対立的にとる必要はないようにも見える。また、ソスュールがラングとランガージュとの 間に立てた基本的区別を時枝誠記が無視してソスュール批判を行ったのは、服部氏その他の人々の指摘のとおり、不適切と言うほかはない。しかしながら私は、時枝誠記の理解がこのように不十分であるにもかかわらず、ソスュール/時枝誠記の対比は言語学にとって基本的な重要性をもつ問題であって、服部氏の説くような形で解消しうるものではないと考える。》
と述べられる。この辺を一々紹介しえないのは心残りであるけれども、私はこの論文で大橋氏が言語過程説の意義にいい及ばれるところまで引用を飛ばそうと思う。
《時枝誠記のソスュール解釈が多くの誤解を含んでおり、そのソスュール批判が的はずれであり、また言語過程説の理論に粗雑なところがあることは否定しがたい。私は、最上の言語過程説批判は、時枝・服部を通さないソスュールそのものにあると思っている。しかし、それにもかかわらず、言語過程説の意義を評価する。なぜならばそれは、本質的部分の追究によって普遍性を把握するためにソスュールが意識的に排除した、個別性・多様性を、もっとも意識的に、かつシステマティックに取扱おうとした言語学だからである。ソスュールが可能性を否定しないまでも本来の言語学から排除した「パロルの言語学」の価値をもっとも明確に把握したものは言語過程説であろう。》
要するに大橋氏はこの論文で服部博士のソスュール解釈を批判されているのであるが、それは同時に時枝博士のソスュール解釈の修正にもなっているのであった。氏はこの論文の結び近くで、「当時、国語学界と言語学界の最高峰として自他ともに許した時枝誠記と服部氏の論争が、ここに述べたようなソスュール理解にもとづいていたのは、学問のために残念なことであった。」と述べられているが、この論争の服部博士に対する批判がないだけに私は大橋氏の論文は興味深いものであると思う。
明日は、いったん、根来司著『時枝誠記 言語過程説』から離れる。