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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

清軍派は、腐敗した重臣・政党人・財閥の一掃を期し……

2020-05-26 05:13:03 | コラムと名言

◎清軍派は、腐敗した重臣・政党人・財閥の一掃を期し……

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その六回目。
 本日、紹介するのは、「清軍派追出しの陰謀」の節である。この節は、やや長いので、二回に分けて紹介する。

    清軍派追出しの陰謀
 これらの事件〔三月事件、十月事件〕に参画した者たちは、奇妙なことには宇垣〔一成〕大将を初め、一般には陸軍内部の穏健派と見られ、荒木〔貞夫〕、真崎〔甚三郎〕派を急進派と呼んでゐた。何故なら、前者が旧来の政党人や財閥と結託してゐるに反し、荒木、真崎派は、政治に容喙〈ヨウカイ〉し政権を握らうとする軍人の傾向を一掃し、軍人をして軍人本来の面目に還らしめようといふ謂はゞ清軍派ではあるが、国家の前途を心から憂へるところから、重臣や政党人や財閥の腐敗した者たちを痛烈に剔抉〈テッケツ〉し、これが一掃を期し、真に昭和維新を齎し〈モタラシ〉たいと考へてゐたからである。この純真な気持を受継いだ青年将校の中には憂国の激情み難く、終に昭和七年〔一九三二〕五月十五日、犬養〔毅〕首相暗殺といふ五・一五事件を起し、その他これと一連の繋りを持つ井上〔準之助〕蔵相、團琢磨〈ダン・タクマ〉等の暗殺事件、その他の騒擾〈ソウジョウ〉事件を頻発せしめた。
 清軍派によつてかういふ事件が起されると、生命の惜しくなつた重臣、財閥、政界人たちは、陸軍部内の穏健派を巧みに利用して、先づ荒木、真崎の両巨頭追出し策を講じ、併せて、理想に走らうとする青年急進派の気持を国外にそらせるために対外戦争を計画したのである。
 昭和六年〔一九三一〕十二月、政友会の犬養内閣が成立した時、荒木大将は陸相に就任し、七年〔一九三二〕五月十五日犬養首相が暗殺せられ、その後へ齋藤〔実〕内閣が成立しても荒木大将は相変らず陸相に居据り、九年〔一九三四〕一月、林銑十郎大将に後を譲るまで満二年の間、真崎参謀次長と共に清軍派の黄金時代を現出した。その間三月事件、十月事件に関連した者達を外地に追ひやつたので、彼等は何とかして中央へ還らうとし荒木、真崎追出しに狂奔した。その手に乗ぜられて荒木大将は先づ退陣したが、真崎大将は教育総監となつてなほ中央に残り、陸軍省にも清軍派の柳川〔平助〕中将が次官として残つてゐたので、財閥重臣の手先に躍る所謂穏健派の林陸相は思ひのまゝ腕を揮ふことが出来なかつた。そこで昭和十年〔一九三五〕七月、部内に派閥を設けて蟠踞〔蟠踞〕するは軍の統帥を紊る〔ミダル〕ものとして真崎大将を辞任せしめようとしたが、頑として動かず、「今次の人事異動は部外の干渉が加はつてゐる。斯くの如きは建軍の大義に反するものである」と云つて却つて強く反対した。そこで陸相は閑院参謀総長宮の御威光をかりて真崎を納得させようとしたが、真崎が頑としてきかぬので、「軍の人事異動を妨害するもの」との汚名を着せ、突如これを罷免してしまった。これを聞いた某大将は、「親友にあらぬ汚名を着せるとは武士の風上にもおけぬ卑劣漢」と言って林陸相を面罵したが、重臣、財閥の方では、満洲事変の際に独断越境して軍を進めた英断にも比すべきものと林陸相をほめちぎつた。然もこの時には建川〔美次〕第十師団長を陸軍次官に、小磯〔国昭〕第五師団長を航空本部長に、東條〔英機〕第二十四旅団長を整備局長にするといふお膳立がチヤンと立てられてゐたのである。【以下、次回】

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弾薬は豊橋の佐々木到一連隊長が持参する

2020-05-25 03:07:45 | コラムと名言

◎弾薬は豊橋の佐々木到一連隊長が持参する

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その五回目。
 本日、紹介するのは、〝「十月事件」の真相〟の節である。

    「十月事件」の真相
「十月事件」は「三月事件」の思想を将官級から佐官に受継いだもので、橋本欣五郎大佐が中心をなしてゐる。即ち永田鉄山少将、橋本大佐、田中清少佐、池田紀久少佐等が、満州事変や対独問題で興奮してゐる青年将校たちや民間の浪人壮士たちを煽動してクーデターを決行しようとしたもので、 林銑十郎、小磯〔国昭〕、建川〔美次〕等の三月事件の中心人物をかついで政権を奪取しようとしたのである。
 彼等は盛〈サカン〉に待合や料亭に会合し、大いに痛飲しながら天下国家を論じ、武力蹶起の計画を巡らし、決行の上はかういふ内閣を作らうと大臣の顔ぶれまできめてゐた。そして、よく事情を知らぬ純真な青年将校が、「酒席の費用は何処から出るのですか」ときくと、
「心配するな。陸軍から出てゐるんだ。陸軍の大世帯はこれ位の金に困りやしないよ。政党人のやうに、へんな財をから〔ママ〕せしめて来たやうな不純なものではないんだから、安心して飲め」
といふやうなことをいひ、
「成功の暁には大いに論功行賞するぞ」
といつて青年達を喜ばせたり、
「弾薬は豊橋の佐々木到一〈トウイチ〉連隊長が決行直前に持参することになつてゐるから安心せい」
「俺達は足利尊氏になつても陛下に短刀を突きつけてでも断じて決行するぞ」
「その時の詔勅の草稿は、大川周明が用意してゐる」
などと大言壮語して青年たちを煙に巻いた。しかし純真な青年たちの中には、何はともあれ陛下を驚かし奉る〈タテマツル〉ことは恐懼〈キョウク〉にたへないとし、
「吾々は決行の暁には二重橋前で切腹して申訳したいと思ひますが幹部の御意向は如何ですか」
と問ふと「切腹なんかせんよ」と答へた。そこで純真な青年将校たちは、漸く幹部の態度に疑惑を持ち初め、些か〈イササカ〉内部に動揺を来して〈キタシテ〉ゐたが、〔一九三一年〕十月十五日、渋谷の侍合銀月で誓約の血判をさせられ、決行の日近きにありと思つてゐた矢先、翌十六日に、幹部級が築地の錦水に会合してゐると、突如荒木〔貞夫〕大将が乗込んで来て、懇々として順逆を説き、このために青年将校の気持が幹部から離れ去つたので、終に具体化せずに終つたのであつた。
 これらの関係者達は、その年の十二月に荒木大将が陸相となるに及んで満洲へ追ひやり、橋本大佐を予備役に編入してしまひ、越えて七年〔一九三二年〕一月真崎〔甚三郎〕大将が台湾から帰り、閑院参謀総長宮〈カンインサンボウソウチョウノミヤ〉殿下〔閑院宮載仁親王〕の下で参謀次長になつた時、三月事件のために清水組に隠匿してあつた爆弾などを取上げて、これらの事件を表面に出さないで済ませたのであつた。

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宇垣大将が承知しても俺は承知しないぞ(真崎甚三郎)

2020-05-24 03:31:54 | コラムと名言

◎宇垣大将が承知しても俺は承知しないぞ(真崎甚三郎)

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その四回目。
 本日、紹介するのは、〝「三月事件」とは何か〟の節である。

    「三月事件」とは何か
「三月事件」とは満洲事変に先立つ昭和六年〔一九三一〕三月に起つた事件である。これは宇垣一成〈カズシゲ〉大将の政権慾から初まつてゐる。
 当時は濱口〔雄幸〕内閣で、宇垣大将は陸軍大臣であつたが、陸軍の小磯〔国昭〕、建川〔美次〕、二宮〔治重〕、杉山〔元〕、永田〔鉄山〕、といふやうな将官が中心となつて宇垣陸相を擁立し、陸軍に政権を奪はうと計画し、民間の大川周明、清水行之助〈コウノスケ〉、北一輝などと通謀し、折柄開会中の第五十八議会を機とし、軍隊を動かして議会を包囲してクーデターを断行、一気に宇垣内閣を作らうとしたものである。クーデ一の計画は北が樹て、永田鉄山が計画書を書き、それによつて各自の持場で行動を起した。ところが佐郷屋留雄〈サゴウヤ・トメオ〉といふ、これには関係ない青年が飛出して濱口首相の横腹を刺した。この突発事件のためにクーデターの計画は些か〈イササカ〉頓座したばかりか、うまくゆけば手を下さずして宇垣陸相に政権が来さうな状勢になつた。といふのは、当時民政党内には安達派と宇垣派があり、濱口総裁なき後は、どちらかを総裁にかつがうとし、党内の大勢は初め安達謙三氏に傾いてゐたが、その後宇垣派の策動効を奏し、大体宇垣大将に政権が転がりこみさうになつた。そこでクーデター中止の命令を下した。
 尤もその一方には、徳川義親〈ヨシチカ〉侯がこれを知り、大川周明をつかまへて泣いてその非を説いた事実もあり、更にまた真崎甚三郎大将(当時第一師団長中将)が軍事課長であつた永田を捕へ、
「宇垣大将が承知しても俺は承知しないぞ。クーデターなんか皇軍を一兵たりとも動かすことは断じて許さぬ」
 と強硬に申入れたので、遂に事なきを得たのである。

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陸軍と海軍とは伝統的に仲が悪い

2020-05-23 00:47:45 | コラムと名言

◎陸軍と海軍とは伝統的に仲が悪い

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その三回目。
 本日、紹介するのは、「醜い軍部の派閥争ひ」の節である。

    醜い軍部の派閥争ひ
 抑も〈ソモソモ〉我が軍部、特に陸軍には、昔から種々な派閥があり、これが猛烈な勢力争ひを続けて来た。明治の大業をなしたものは薩長土肥の雄藩の武力であつたが、中でも薩長の力は強く、明治新政府の政権は殆どこの二藩で壟断〈ロウダン〉してゐた。中には伊藤博文や井上馨のやうに早くも文官に身を転じ、その方で勢力を得たものもあるが、多くは武官のまゝで政治に干与した。山県有朋の如きはその尤〈ユウ〉なるものであるが、山県、桂〔太郎〕、乃木〔希典〕といふやうに、長州藩からは主として陸軍が出、伊東〔祐亨〕、伊集院〔五郎〕、西郷従道、東郷〔平八郎〕といふやうに薩州藩からは海軍が多く出たところから、長の陸軍、薩の海軍といふことに大体色分けされ、薩長が幕末の尊皇運動の頃から犬猿もたゞならぬ間柄であつたのを明治の時代までも持越して相争つた〈アイアラソッタ〉。そのために陸軍と海軍とは今日に至るまで伝統的に仲が悪い。これが今次の戦争にどれほど悪影響したかは誰もが知つてゐるところで、アツツ島の守備隊長が山崎〔保代〕陸軍中将だと海軍陸戦隊は殆ど命令に従はず、マリアナ島の守備隊長が南雲〔忠一〕海軍大将だと陸兵はハキハキした行動を取らない。一つの大きな上陸作戦には流石に〈サスガニ〉協力するが、間の輸送のやうな場合には、陸軍御用船は海軍があまり親切な護衛をせず、いゝ加減なところで逃げてしまふ。そこで陸軍は、何くそ、それなら自分で護衛の任にも当つてやるといふので、船舶兵を新設して駆逐艦ぐらゐの船を造る。また、各自の作戦は容易に語り合はないし、兵器の改良や発明は絶対秘密主義を守り、協力して智慧を貸し合ふなどといふことはしない。飛行機にしても同じやうな型のものを、わざわざ少しばかり形を変へて注文し、同じ工場に対しては、俺の方を先にしろ、俺の方を争ひ合ひ、終戦間際になつて同じ物を協同で注文するやうになると、今度は出来た飛行機を奪ひ合ふ。それが軍全体の作戦上どこに幾ら必要だからといふ理由からではなく、取つたら取り得だといふので、係官が作戦には関係なく腕競べをするといふ馬鹿気た〈バカゲタ〉乱脈ぶりであつた。
 同じやうなことが、同じ陸軍または海軍の中にも行はれてゐた。特に陸軍は派閥争ひが強く、荒木〔貞夫〕閥だ、東條〔英機〕閥だ、などといふものが勢力争ひに鎬〈シノギ〉を削り、他派を陥れるためには醜悪な陰謀を逞しうした。近年における最も顕著なるものが「三月事件」、「十月事件」と呼ばれるものである。

 文中、「マリアナ島の守備隊長が南雲海軍大将だと」云々とあるのは、正確な表現とは言えない。当時の南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将の肩書きは、中部太平洋方面艦隊司令官兼第十四航空艦隊司令長官。中部太平洋方面艦隊は、マリアナ諸島・パラオ諸島・トラック島方面に点在する海軍部隊・陸軍部隊を統括指揮していた。南雲中将がいたのは、マリアナ諸島の中心であるサイパン島である。なお、中将は、サイパン島玉砕の際に自決している。

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東洋民族は白色人種から搾取されてきた

2020-05-22 00:47:29 | コラムと名言

◎東洋民族は白色人種から搾取されてきた

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その二回目。
 本日、紹介するのは、「戦争は誰の手で計画されたか」の節で、これは、昨日、紹介した「戦争犯罪者とは何か」に続く節である。なお、これ以降、特に断らない限り、節の順番に紹介してゆく。

    戦争は誰の手で計画されたか
 先づわれわれの知りたいのは、大東亜戦争は誰の手で計画せられたか、といふことである。
 われわれが今日まで教へられて来たところによれば、東洋民族は白色人種のために数百年に亘つて搾取され、虐げられ〈シイタゲラレ〉、だまされて来た。そこで此の白人の搾取や圧迫から解放されなければならない、人類は平等の権利があり、各々に特徴ある歴史と風俗とを持つてゐる、だからこれを全面的に生かし、各々その処を得しめ、平等に、兄弟相携へて行かねばならない、つまり八紘一宇〈ハッコウイチウ〉の精神で世界を光被しなければならない――これが大東亜共栄圏樹立の理念であつた。一言にして尽せば東亜諸民族の解放である。
 もう一つの理由は、われわれ日本人は非常に多産な国民で、年々百二十万人の人口増加を見てゐる。然も国土は非常に狭く、その上耕地に至つては全面積の一割五分にしか当らない状態では、マルサスならずとも到底生きて行くことが出来ない。現に農村では人口が過剰になり、農村の疲弊は年と共に増大して行きつゝある。だから何としても国外に安住の地を求めねばならぬのに、米国は移民法によつて日本人を閉出すし、支那もまた抗日思想を鼓吹して日本人の平和的入国を拒まうとしてゐる。人間には生存権がある。この権利によつて満洲や北支に先づ安居楽業〈アンキョラクギョウ〉の地を求め、延いては〈ヒイテハ〉東亜の諸地域にも及ぼさうとするのである。然るに米英両国は支那を使嗾〈シソウ〉して抗日運動を助け、事毎に〈コトゴトニ〉我を圧迫し、終には〈ツイニハ〉経済断行〔経済断交〕をして日本を窮地に陥らしめた。よつてこの圧迫を排除するために止むを得ず鉾〈ホコ〉を執つて起つたのである――かういふのである。
 その言たるや誠に美しい。だが事実は、さういふ美しい理想や、止むに止まれぬ生存権の叫びによつて戦争が初められたのではなく、一部の好戦的軍閥、政権慾に血迷つた軍閥の陰謀によつて計画されたものであることは、各方面から実証があげられてゐる。

*このブログの人気記事 2020・5・22(8位に珍しいものが入っています)

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