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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

北一輝は日本の国体の否定者である(津久井龍雄)

2018-02-23 01:07:37 | コラムと名言

◎北一輝は日本の国体の否定者である(津久井龍雄)

 津久井龍雄の『右翼』(昭和書房、一九五二)という本は、以前、このブログで紹介したことがあったと思う。本日は、同書から、北一輝について書いている部分を紹介してみよう。
 この本で津久井は、二度ほど、北一輝〈キタ・イッキ〉に言及しているが、本日、紹介するのは、二「右翼の回想」の(5)「猶存社・行地社・老壮会」の最初のところである。

 (5) 猶存社・行地社・老壮会
   北一輝という人物
 北一輝本名は輝次郎〈テルジロウ〉、北昤吉〈キタ・レイキチ〉はその弟だが、試みに東京陸軍軍法会議が公表した二・二六事件の判決理由書によってその経歴をうかがって見よう。
《北輝次郎は新潟県佐渡島に生れ承久〈ジョウキュウ〉以降皇室に関係ある島内幾多の遺跡伝説等に刺戟せられ夙に〈ツトニ〉国史及び国体に付〈ツキ〉関心を有し、長じて同地中学校〔佐渡郡全町村組合立佐渡尋常中学校〕に学びしも病気の為半途退学、爾来上京独学を以て広く社会科学に関する研究に没頭せしが二十四才の頃『国体論及び純正社会主義』と題する著述を出版し以て独創的国史観に基き当時幸徳秋水〈コウトク・シュウスイ〉一派の唱道せし直訳的社会主義に痛烈なる反駁を加へ世論を喚起しこれが機縁となり支那亡命客孫逸仙〔孫文〕、黄興、宋教仁、張継等と相識り終に同人等の支那革命党秘密結社に加入し、二十九才の秋頃支那第一革命〔辛亥革命、一九一二〕勃発するや単身渡支し上海、武昌、南京等の各地に於て革命速成の為画策奔走し居たるが、三十一才の時帝国領事より三年間支那在留禁止処分を受けて帰朝し大正五年〔一九一六〕頃『革命の支那及び日本の外交革命』を著述して朝野の人士に頒布し同年夏再び支那に渡り第三革命〔袁世凱の失権・死去、一九一六〕に参加したるも事志と違ひ上海に滞在中遥に祖国を顧るに欧洲大戦以来世界を風靡せる左翼思想は澎湃〈ホウハイ〉として国内に瀰漫〈ビマン〉し、加ふるに重臣、官僚、政党等所謂特権階級は財閥と結託して私利私慾を肆〈ホシイママ〉にし国政を紊り〈ミダリ〉国威を失墜し国民生活を窮乏に陥らしめたりと思惟〈シイ〉し今にしてこれら特権階級の猛省を促し政治経済其他諸般の制度機構に一大変革を加ふるに非ざれば我国もまた露独の跡を踏み、三千年の歴史も一空に帰すべしと為し国家改造の急務なる所以を痛感し茲に近代革命の中核は軍部並に民間有志の団結に依り形成せられるものなりとの信念の下に大正八年〔一九一九〕八月頃国家改造案原理大綱と題し三年間憲法を停止し戒厳令下において革命政府を樹立し私有財産並に個人の生産党に大なる制限を加へまた皇室財産を撤廃せんとする矯激なる思想体系の著書を執筆し当時渡支中の大川周明〈オオカワ・シュウメイ〉に示せしところ深くその共鳴を得〈エ〉爾来これを基礎として日本国内の改造を断行せんことを相〈アイ〉約し大正九年〔一九二〇〕一月帰朝するや大川周明、満川亀太郎〈ミツカワ・カメタロウ〉と共に猶存社〈ユウゾンシャ〉に拠り前記思想の普及に努めたるも後〈ノチ〉同人等と感情の阻隔を生じこれと関係を絶ち大正十五年〔一九二六〕頃前期著書を日本改造法案と改題しこれが版権を当時現役を離れ彼等の傘下に在りたる西田税〈ニシダ・ミツギ〉に付与して出版せしめ同人と堅く相結ぶに至るや専ら同人を指導督励し主として陸軍部内将校等に対し該著書を指導原理とせる国家革新思想の普及宣伝に当らしめると共に同志の獲得並にこれが指導統制に任ぜしめ云々………(下略)》
   北、大川の結合
 これから以下は二・二六事件に直接関係する部分に入るのであるが、以上を以て見ても北が尋常普通の人物でないことがわかる。右の文中に出る北が二十四才の頃書いた『国体論及び純正社会主義』は国体と社会主義に関する研究としては頗る独創的で、これによれば彼はむしろ日本のいわゆる国体なるものの否定者である。人間の思想は常に変化し転向するものだから、北も二・二六当時においてはどのような国体観をいだいていたかわからぬが、若し『国体論及び純正社会主義』当時のままのものであったとしたら、彼の追随者や崇拝者はすべて全く北の思想を知らずして之に傾倒したものといわなければならない。『国体論及び純正社会主義』より遥かに後に書かれ、日本の国家主義革新運動の聖典視された日本改造法案においても、彼は天皇を以て『国民の天皇』と規定したという故で、一部の国体主義者の非難を蒙ったことがある。しかしその辺にこそ北の『革命家』としての面目が存することを思うべきであろう。【以下、略】

*このブログの人気記事 2018・2・23

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一時間目の授業は突然、自習になった(1936・2・26)

2018-02-22 02:48:44 | コラムと名言

◎一時間目の授業は突然、自習になった(1936・2・26)

 あいも変わらず、二・二六事件の話である。机上に、相田猪一郎著『70年代の右翼――明治・大正・昭和の系譜』という本がある。どういうわけか奥付がないので、詳しいことはわからないが、一九七〇年(昭和四五)に、大光社から出された本らしい。著者の相田猪一郎は、朝日新聞社会部の記者で、「事件記者」として知られていた(インターネット情報)。
 著者は、福島県相馬郡原町(原町市を経て、現在は南相馬市)の出身で、小学校六年生のとき、地元で事件を知ったという。以下は、前掲書の第三章第二節「二・二六事件」からの引用。

 二・二六事件は巷の庶民にどううつり影響を与えていたか――東京やその周辺の状況などは、いままでいろいろの本に書かれたり、語り伝えられているが、地方のことはあまり書かれていない。地方といっても、上野駅からそのころ汽車で十時間、福島県の太平洋岸の人口一万二千人ぐらいの田舎町での話しであるから、これもやはり一断面である。それも当時、小学校六年の私の目で見たり聞いたりした話である。記憶がいまだに昨日のように鮮明に残こっている。これからみてもいかに同事件の影響が社会に強烈な印象を与えたかを物語る証拠であろう。
 田舎町―通称、浜通りといわれている原町(現在は市)は、そのころ、これという全国的な名産もなく、火事の火元になれば親子孫と三代ぐらいにわたってあの家は火元だったといわれ、中学の入試におちると「××の家の息子は中学に入れなかった」と数年間にわたっていわれるような話題の少ない静かな町であった。旧正月が過ぎ、二月もなかばになると、人びとは三月の中学校の入試、農家の今年の作付けなどがまず話のタネになるのだ。
 こんなとき、二・二六事件の第一報が二月二十六日の朝、H町に入ってきた。
 わたしはこの朝、友達の新聞販売店の息子を登校のためさそいに行った。中学校の入試を目前にして、あれこれ入試のことをいつも話し合いながら小学校へ通っていたのだ。この朝も例によって、そのためにさそいにいったのである。ところが家の前までいくと「大変なことが起きた。大変なことが起きた」と、友人の父親がひとりごとをいって速報を家の前に貼り出してした。みると総理大臣や大臣などが早朝軍人に殺されたという一報だった。家へ入っていくと、父親は、電話機をがらがら回しながら東京の本社を早くつないでくれ、と町の郵便局の電話交換手をどなっている。事件はあっという間に町に知れ渡ったのだろう。登校すると、一時間目の授業は突然、自習ということになった。自習はわたしのクラスだけでなくほとんどのクラスもそうだった。わたしは、教室をぬけ出し、前夜雪が降ったため銀世界の校庭に飛び出し、悪童グループと雪合戦をして遊んだ。自習なのに遊んでいるところをみつかれば、あとがうるさいと、担任教師の様子をうかがうため、こっそり教員室をのぞいた。ところが、教員室においてある木でつくった一㍍四方の大きな火ばちを多数の教師が囲こんで真剣な表情で話し合っている。話の内容を聞こうと窓に耳をつけてじっとしていたが、内容は聞きとれない。ときおり「大変なことが起こった」「これからどんな世の中になるのだろう」――こんな話を、大きな声で話すのが聞こえてきた。軍人に内閣総理大臣や大臣が殺される大変な時代になったのだということは子供心にも強く印象に残こった。
 家に帰ってくると、家人も、また近所の人びとは数人集まると路上でひたいを寄せながら「これからどうなるのだろ」と心配そうな表情で話し合っていた。子供心にも大変な世の中になっているということが、身にしみて感じたので、なんとなく販売店の友人のところへ行った。おそらく分からないながらも、新しいニュースを入手しようとしたのではないだろうか。ところが、友人の父親は、おしかけた近所の人びとを前に「東京の本社に問い合わせても、本社は朝知らせたほかのくわしいことは、まだ、わからないと、いう返事なのだ」と、説明し「困ったもんだ」「どうなるんだろう」との連発だった。
 町はその後、三、四人集まると、話題はこの事件のことでもち切りだった。いずれにせよ一断面かも知れぬが地方の片田舎の町には混乱とか騒然さとかいうものは、まったくなかったが、かつてなかった心配、不安のうずをまき起こした。

 二・二六事件と、直接の関係はないが、火事の火元になれば三代にわたって噂されるという話がおもしろい。もっともこれは、たぶん日本全国、どこのムラでもマチでも、また、昔も今も、同じことだと思う。

*このブログの人気記事 2018・2・22(10位に注目していただいた方に感謝)

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北一輝、井上日召、石原莞爾と法華経信仰

2018-02-21 00:48:12 | コラムと名言

◎北一輝、井上日召、石原莞爾と法華経信仰

 昨日に続いて、河原宏の論文「超国家主義の思想的形成――北一輝を中心として――」(一九七〇)の一部を紹介したい。昨日、引用した部分に続いて、次のようにある。

 次に、近代日本の横断面としての一時期、さきにのべた横軸に相当するものをとりあげてみよう。その時期とは概ね一九三二年〔昭和七〕の五・一五事件から三六年〔昭和一一〕の二・二六事件にいたる期間で、この間いわゆる超国家主義者といわれる人たちの活動が顕著である。その際、これら超国家主義者の間に――もとよりそのすベてではないが――法華経、乃至は日蓮宗に対する強烈な信仰が作用していたことも見過すことのできない現象である。このような面での象徴的、代表的人物としては北一輝、井上日召、石原莞爾の三名をあげるのが妥当であろう。一体彼ら――そのフォロワーたちをも含め、それを代表する意味で――は、なに故法華経信仰に超越の契機を求め、また求めざるをえなかったのか。このテーマこそ実は北一輝に即して本稿で迫求しようとするものであり、ここでは概括的にのべるにとどめるが、その一つの理由は大正時代、特にその後から昭和の初期にかけてのアノミックな時代に、個人の自我の発達と国家の進路、あるいはその将来への展望との間に埋めがたい疎隔感がひろがっていったことであろう。したがってこの疎隔関係をとらえるには、相対的に個人の自我と国家の発展とが密着していた明治期との対照の下のおかなけれない。この対照は北一輝の思想的閲歴の中に鮮やかに浮かびあがってくる筈である。
【中略】
 北の中国体験は一九一一年〔明治四四〕の武昌蜂起と共に始まる。彼はこの年渡航以来、三年間の中断をはさんで一九一九年〔大正八〕末まで及んでいる。彼の法華経への傾倒は、彼自身の証言によって一九一六年(大正五)に始まっている。井上日召がはじめて満洲に渡ったのは一九〇九年〔明治四二〕である。彼の場合はさまざまな宗教体験をへているが、「自伝」〔『日召自伝』日本週報社、一九四七 〕においても強調し、その後の彼の人生を方向づけることとなった法華経への決定的入信は一九一四年〔大正三〕である。また石原莞爾の場合、田中智学の主宰する国柱会の信行員となったのが一九一九年である。彼の場合は一九一〇年〔明治四三〕、少尉に任官の翌年、会津歩兵第六十五連隊とともに朝鮮に渡っている。伝記〔藤本治毅『石原莞爾』時事通信社、一九六四〕によれば、彼は朝鮮で辛亥革命の報を聞き、革命軍の勝利のしらせに兵を連れて山に登り、「支那革命万歳」を叫んだという。彼の最初の中国赴任は一九二〇年、漢口の中支那派遣隊司令部付となった時である。
 北一輝、井上日召、石原莞爾の名を歴史上大きくク口ーズ・アップすることになったのは、北における二・二六事件(一九三六年)、井上における血盟団事件(一九三二年)、石原における満洲事変(一九三一年)であり、この期間はいわゆる超国家主義運動の最盛期である。しかし思想的に彼らは一九一四年から一九一九年の間、すなわち大正中期のアノミックな〔無規範の〕時代に、法華経への傾倒という形での超越を試み、同時にそれぞれの形で中国体験をしている。勿論、これら三者の思想内容に大きな差異のあることはいうまでもないが、もしそれらを超国家主義思想として一括できるとすれば以上の二点において著しい類似性のあることが認められるであろう。
 こうして、これまでのべてきた二つの軸の交点に立つのは北一輝である。またこのような超越をその思想的意義においてもっとも深くきわめたのも北一輝だといえる。いいかえれ、土着的なもの即ち守旧的、保守的、退嬰的という常識的理解を打破し、むしろそれを通じて革命に至る道を模索し、しかも思想的には土着的なものの中から普遍的なものへ突き抜ける道程を探求した。彼はそれを超越の形式において果そうと試みたのである。その試みは正に彼がこの形式によって乗りこえようとした天皇制権力による政治死という形で挫折せしめられるのだが、その思想的意義はかかってこの試みのうちに求めらるべきであろう。

 河原宏は、幸徳秋水・北一輝・尾崎秀実という縦軸(昨日のコラム参照)、および、北一輝・井上日召・石原莞爾という横軸を設定し、北一輝という思想家が、「二つの軸の交点」に立っていると捉えたのである。
 この論文「超国家主義の思想的形成」は、北一輝という思想家について研究しようとする者にとって、きわめて有益である。と同時に、河原宏という思想史家(というより思想家)のセンスと力量を示す、注目すべき論文と言えるだろう。

*このブログの人気記事 2018・2・21

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思想の確立が同時に生死解脱を要請する

2018-02-20 05:20:39 | コラムと名言

◎思想の確立が同時に生死解脱を要請する

 このところ、二・二六事件関係の文献を読みあさっているが、基礎知識がないことが幸いして、どんな文献を読んでも興味深いし、読めば読むほど認識が深まってゆくのを感じる。
 本日は、日本政治思想史家の河原宏(一九二八~二〇一二)が、一九七〇年(昭和四五)に発表した論文「超国家主義の思想的形成――北一輝を中心として――」の一部を紹介してみたい。この論文は、早稲田大学社会科学研究所プレ・ファシズム研究部会編『日本のファシズム―形成期の研究―』(早稲田大学出版部、一九七〇年一二月一〇日)に収録されている。当時の河原宏は「早稲田大学助教授」で、四一歳だった。

 北一輝は、近代日本においてこのような思想的課題〔ナショナリズムをこえる道は可能か〕にもっとも厳しく――その成否ば別として――取り組んだ人物なのだ。彼の思想的意義もこの点にあろう。単にインターナショナリズムをナショナリズムに対するのではなく、また多くの人がやったように、伝統的ナショナリズムを革新しようとして、更に極端なナショナリズムにおちこんでゆくのでなく、ナシナリズムの宿命を見据えながら、その中からナショナリズムを乗りこえる道を模索した。しかしその際、彼が「超越」的形式をとらざるをえなかったことは、当面の対象である天皇制ナショナリズム、あるいは天皇制支配原理と深くかかわっている。
 このかかわり合いは、ちようど座標軸のように縦横二本の軸をとらえて考えることができる。まずここではその縦軸とみなすべきものの意味からとりあげてみようか。ここで挙げるべき象徴的、典型的な人物は幸徳秋水、北一輝および尾崎秀実〈ホツミ〉の三人である。ここでは言葉の通俗的な意味での左翼、右翼の区別など問題にならない。これら三人の人物が象徴しているのは、天皇制国家がもたらす政治死との関連である。この点で彼らは極めて類以した運命を辿った。しかも彼らの死は、権力によるフレーム・アップの色彩が極めて濃いものである。高橋和巳は、あらゆる権力には「逆鱗」とでもいうべきものがある。天皇制国家における逆鱗とは支配天皇制支配そのものである。しかもそこに一つの思想が存立すべきだとすれば、否応なく天皇制支配の原理に触れざるをえない。北一輝についていえば、彼はこの点の明確な自覚からその思想的な歩みを踏みだしたといえる。その処女作「国体論及び純正社会主義」の第四編「所謂国体論の復古的革命主義」はつぎのような書き出しで始まっている。
「只、此の日本と名け〈ナヅケ〉られたる国土に於て社会主義が唱導せらるるに当りては特別に解釈せざるべからざる奇怪の或者が残る。即ち所謂『国体論』と称せらるる所のものにして――社会主義は国体に抵触するや否や――と云ふ恐るべき問題なり。是れ敢て社会主義のみに限らず、如何なる新思想の入り来る時にも必ず常に審問さるる所にして、此の『国体論』と云ふ羅馬法王の忌諱〈キキ〉に触るることは即ち其の思想が絞殺さるる宣告なり。」
 この最初の認識はちょうど三〇年後、二・二六事件に連坐せしめられて刑死するまで、まっすぐに続いているといえる。したがってこの国体論の前に、即ち天皇制の支配原理の前に、敢えて一つの思想を立てようとする場合、それは常にあらかじめ予想せざるをえない運命である。しかもその権力はフレーム・アップを手段として用いるだけでなく、むしろそのような手段を是認し、聖化さえしている権力だといわなければならない。政治死とはこのような意味である。かくて、天皇制国家において思想をもつことは、同時に自己の生命を超越した立場に自己をおくべく備えておくことに他ならない。このことは、天皇制国家の権力が人間を単に外から拘束するだけでなく、心や精神の内側からも掌握しようとするトータルな支配をめざすことと対応している。日本の近代思想に「超越」的契機が滑りこむ、一つの理由はこの点にあるだろう。そこでは、思想が整然たる論理を展開し、その論理の優劣を競いあうというような悠然たる雰囲気におかれていたのではなく、もっと切迫した、切実な場におかれていたのである。北一輝が後半世、法華経に傾倒していった最大の理由もこの点にあったであろう。秋水や尾崎秀実が禅に傾倒するのも同様である。この三人の死を時代順に並べれば一九一一年(明治四四)、一九三七年(昭和一二)、一九四四年(昭和一九)となる。これはほとんど近代日本の後半部を覆う期間である。つまり思想の確立が同時に生死解脱〈ゲダツ〉の試みを要請するという事情こそ、思想史研究の近代主義者が愛用する歪みとか限界として捕えきれるものではなく、天皇制支配の基本的性格と、そこにおける人間の生き方にかかわる問題だったのである。

 この論文を読んで、北一輝の問題意識というものが、ある程度、理解できた。その処女作『国体論及び純正社会主義』(自費出版、一九〇六)のタイトルが意味するところを、初めて知った。北一輝のこの本は、まだ読んだことはなかったが、今年は読んでみようか、という気になった。

*このブログの人気記事 2018・2・20

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身捨つるほどの思想はありや

2018-02-19 03:42:23 | コラムと名言

◎身捨つるほどの思想はありや

 数日前、書評紙『週刊読書人』の二月一六日号を買った。トップに「追悼西部邁」とあり、一面から二面にかけて、田原総一郎・猪瀬直樹両氏の対談記録が掲載されている。
 二面の最後に、猪瀬直樹氏の〈追記〉があり、次のようにあった。

 西麻布の路地で西部邁さんの息子さんから声をかけられた。ばったり会って、立ち話になりました。
 姉、つまり娘さんと夜の一時まで新宿の文壇バーで呑んでいて、早く帰れ、というから帰ったが、自殺するに違いないと確信して弟、つまり息子さんを呼び、夜中の三時ごろ多摩川の田園調布五丁目あたりの岸辺に駆けつけた。街灯のない真っ暗闇のなかを姉と弟二人で懐中電灯で探したが何も見えない。ほんとうの闇なのです。【後略】

 報道には、西部邁さんが亡くなったのは一月二一日「早朝」とあった。しかし、実際には、同日の未明ではなかったのか。それにしても、西部さんは、街灯のない真っ暗闇のなか、どうやって岸辺にたどりついたのか。やはり、懐中電灯などを用意されていたのだろうか。
 この追記を読んで、寺山修司の短歌を思い出した。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」。これにならって、一首。「電灯で照らす川面に闇ふかし身捨つるほどの思想はありや」。

*このブログの人気記事 2018・2・19(ミソラ事件と2・26事件とが……)

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