礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西部邁氏は、なぜ「保守主義者」になったのか

2018-02-27 08:16:39 | コラムと名言

◎西部邁氏は、なぜ「保守主義者」になったのか

 西部邁氏に対する追悼の文章が、次々と発表されている。西部氏が、自殺の直前に校了された本も、これから刊行されると聞いた。
 私は、西部邁氏の思想を、あまり評価していない。「過激派」であった氏が、「保守主義者」になった理由がよくわからないからである。あるいは、その理由に関する氏の説明に、釈然としないものを感じるからである。さらに、西部氏が、「保守主義者」として強調する「伝統」なるものの実体が、サッパリわからないからである。
 これらについては、五年近く前、このブログのコラムで書いたことがことがある(「過激派にして保守派の西部邁氏にとっての伝統とは」2013・7・30)。このとき、西部邁著『破壊主義者の群れ』(PHP研究所、一九九六)に収められていた、「戦後五十年を顧みる」(初出、一九九五年四月)という文章から、その一部を引用した。本日は、同じ文章から、〝保守への目覚め――欠乏し欲望するものとしての「伝統」〟という節の全文を引いてみたい。

 保守への目覚め――欠乏し欲望するものとしての「伝統」
 三十歳近くまで裁判にかかわっていた若者は、当時、大学の教師にしかなれないという事情にあった。少なくともその傾向が強かった。私もそうなってしまったのだが、皮肉なことに、近代経済学者ということで大学助教授になるちょうどそのころに、近代経済学は経済にまつわる社会的、政治的、文化的な要因を、そしてそれらの要因に強く関係してくる歴史的な影響を、いささかも説明できない、そもそもそれらを説明するための概念枠組を欠いている、ということに私は無関心ではおれなくなった。したがって私は社会経済学者となり、日本の経済学界から逸脱するのやむなきに至った。
 三十代、日本から逸脱してみる必要を感じ、学者として外国体験をいくどか重ねた。それまでにも予感していた思想上のコンバージョンが、転向というより改心が、実際に起こったのはイギリス滞在においてであった。つづめていうと、その保守的な精神風土のなかで、「革命と自由」のことを忘れえぬものは保守主義者にしかなりえないのだということを、私は、ほとんど悟りのような境地において、知ったということである。
【一行アキ】
 リボリューションつまり革命とは、歴史に内蔵されている(はずの)良き価値・規範を「再び(リ)」「巡りきたらせること(ボルーション)」である。そのようなものとしての価値を伝統と呼ぶなら、伝統の「再巡」としての革命を願うものは歴史的な秩序を保ち守るという意味で保守派たらざるをえない。
 自由についても然りであって、秩序のない自由は放縦にすぎない。そして、秩序が大事だといっても、それが自由を抑圧するようでは元も子もない。自由と両立する秩序、それは唯一、伝統としての歴史的秩序である。なぜといって、自由の原資ともいうべき人間の個性は、伝統という精神的土壌に根差すときにはじめて、存分に育つものと思われるからである。
 革命主義者も自由主義者も、「革命と自由」の根拠を尋ねつづけた挙句には、保守主義者になるほかない、これがイギリス人たちの発見した大人の知恵であるといってよい。むろん、伝統が具体的に何であるかは、第一にそのときの状況に依存し、第二にそれを論んじるものたちの会話・議論・討論の推移に依存する。つまり伝統の実体を教条として示すことが難しい以上、保守派の人間はおのれを「主義者」としては表現できないのが普通である。しかし伝統を破壊することに進歩を見出しような時代にあっては、たとえばその典型ともいうべき戦後日本においては、伝統の発掘と定着をよびかけるために、保守的人間はあえて「主義者」として振る舞わざるをえないのである。
【一行アキ】
 ここで戦後という時代に北海道という場所で育った私は、自分が保守主義者であることについて、いささかの特権があると思わずにはおれない。つまり何かの欠乏(ウォント)にあえいでいるものがそれを激しく欲望(ウォント)するのであるが、私の場合、欠乏し欲望するものが伝統なのである。より正確にいうと、自分の個性と自分たちの時代を安定かつ豊饒にするものとしての伝統は何かと問いつづけるプライベートな思索とパブリックな討論、その欠乏に私ははなはだしい不満足を覚え、その充足を著しく欲望するということだ。
 かくして私はみずから保守主義者を名乗ることになった。大学という場所が保守主義者にとってかならずしも適切な場所ではないと判断して、七年前に、大学を辞めた。時々ふざけ半分に反動主義者を自称するようなことをしながら、当人としては快活に保守思想家の道を歩んでいるつもりでいる。いや、伝統の発見においても確立においても自分のなしうることはほんのわずかだという悲哀の気分がなくもないのだが、時代の瘴気【しようき】に中毒するよりはずっとましだと納得しているのである。

 何度、読んでも、よく理解できない文章である。
 外国滞在中に、日本の伝統文化を再確認したという話はよく聞くが、西部氏の場合は違う。イギリスに行って、その「保守的な精神風土」に接し、それによって回心(conversion)が起きたと言っている(最初の下線部分)。こういう保守主義者というのは、あまり例がないのではないか。
 また氏は、革命主義者も自由主義者も、「革命と自由」の根拠を尋ねつづけた挙句には、保守主義者になるほかないと述べ(二番目の下線)、これを、「イギリス人たちの発見した大人の知恵」としているが、これは単に、「西部邁氏の発見した転向者の知恵」にすぎないのではないか。
 一番、気になるのは、「私の場合、欠乏し欲望するものが伝統なのである」(最後の下線)というところである。これは要するに、自分には、「伝統の実体」として提示できるようなものはない、と言っているようなものではないか。
 西部邁氏は、本当に「伝統」を重んずる「保守的人間」だったのだろうか。「保守主義者」を振る舞い、あるいは「反動主義者を自称」することによって、論壇で一定の地位を保つことになった、「過激な思想家」ではなかったのか。

*このブログの人気記事 2018・2・27(10位以外は二・二六事件関係)

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北一輝の無罪論は成り立ちに... | トップ | 小坂ダムの決壊(1907)... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ( 伴蔵)
2018-03-04 00:08:20
下線部『革命主義者も自由主義者も、「革命と自由」の根拠を尋ねつづけた挙句には、保守主義者になるほかない』西部氏のこの文章は、「イギリス人たち」ではなく、ユダヤ人でイギリスの宰相を務めたベンジャミン・ディズレーリの、「16歳にして自由主義者にあらざる者は心を持たず、60歳にして保守主義者にあらざる者は頭を持たぬ」という格言をパクったものと考えられます。
返信する
伴蔵さんのご指摘に感謝 (礫川)
2018-03-04 15:32:00
なるほど、そうでしたか。いつも適格なコメントありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事