◎北一輝、井上日召、石原莞爾と法華経信仰
昨日に続いて、河原宏の論文「超国家主義の思想的形成――北一輝を中心として――」(一九七〇)の一部を紹介したい。昨日、引用した部分に続いて、次のようにある。
次に、近代日本の横断面としての一時期、さきにのべた横軸に相当するものをとりあげてみよう。その時期とは概ね一九三二年〔昭和七〕の五・一五事件から三六年〔昭和一一〕の二・二六事件にいたる期間で、この間いわゆる超国家主義者といわれる人たちの活動が顕著である。その際、これら超国家主義者の間に――もとよりそのすベてではないが――法華経、乃至は日蓮宗に対する強烈な信仰が作用していたことも見過すことのできない現象である。このような面での象徴的、代表的人物としては北一輝、井上日召、石原莞爾の三名をあげるのが妥当であろう。一体彼ら――そのフォロワーたちをも含め、それを代表する意味で――は、なに故法華経信仰に超越の契機を求め、また求めざるをえなかったのか。このテーマこそ実は北一輝に即して本稿で迫求しようとするものであり、ここでは概括的にのべるにとどめるが、その一つの理由は大正時代、特にその後から昭和の初期にかけてのアノミックな時代に、個人の自我の発達と国家の進路、あるいはその将来への展望との間に埋めがたい疎隔感がひろがっていったことであろう。したがってこの疎隔関係をとらえるには、相対的に個人の自我と国家の発展とが密着していた明治期との対照の下のおかなけれない。この対照は北一輝の思想的閲歴の中に鮮やかに浮かびあがってくる筈である。
【中略】
北の中国体験は一九一一年〔明治四四〕の武昌蜂起と共に始まる。彼はこの年渡航以来、三年間の中断をはさんで一九一九年〔大正八〕末まで及んでいる。彼の法華経への傾倒は、彼自身の証言によって一九一六年(大正五)に始まっている。井上日召がはじめて満洲に渡ったのは一九〇九年〔明治四二〕である。彼の場合はさまざまな宗教体験をへているが、「自伝」〔『日召自伝』日本週報社、一九四七 〕においても強調し、その後の彼の人生を方向づけることとなった法華経への決定的入信は一九一四年〔大正三〕である。また石原莞爾の場合、田中智学の主宰する国柱会の信行員となったのが一九一九年である。彼の場合は一九一〇年〔明治四三〕、少尉に任官の翌年、会津歩兵第六十五連隊とともに朝鮮に渡っている。伝記〔藤本治毅『石原莞爾』時事通信社、一九六四〕によれば、彼は朝鮮で辛亥革命の報を聞き、革命軍の勝利のしらせに兵を連れて山に登り、「支那革命万歳」を叫んだという。彼の最初の中国赴任は一九二〇年、漢口の中支那派遣隊司令部付となった時である。
北一輝、井上日召、石原莞爾の名を歴史上大きくク口ーズ・アップすることになったのは、北における二・二六事件(一九三六年)、井上における血盟団事件(一九三二年)、石原における満洲事変(一九三一年)であり、この期間はいわゆる超国家主義運動の最盛期である。しかし思想的に彼らは一九一四年から一九一九年の間、すなわち大正中期のアノミックな〔無規範の〕時代に、法華経への傾倒という形での超越を試み、同時にそれぞれの形で中国体験をしている。勿論、これら三者の思想内容に大きな差異のあることはいうまでもないが、もしそれらを超国家主義思想として一括できるとすれば以上の二点において著しい類似性のあることが認められるであろう。
こうして、これまでのべてきた二つの軸の交点に立つのは北一輝である。またこのような超越をその思想的意義においてもっとも深くきわめたのも北一輝だといえる。いいかえれ、土着的なもの即ち守旧的、保守的、退嬰的という常識的理解を打破し、むしろそれを通じて革命に至る道を模索し、しかも思想的には土着的なものの中から普遍的なものへ突き抜ける道程を探求した。彼はそれを超越の形式において果そうと試みたのである。その試みは正に彼がこの形式によって乗りこえようとした天皇制権力による政治死という形で挫折せしめられるのだが、その思想的意義はかかってこの試みのうちに求めらるべきであろう。
河原宏は、幸徳秋水・北一輝・尾崎秀実という縦軸(昨日のコラム参照)、および、北一輝・井上日召・石原莞爾という横軸を設定し、北一輝という思想家が、「二つの軸の交点」に立っていると捉えたのである。
この論文「超国家主義の思想的形成」は、北一輝という思想家について研究しようとする者にとって、きわめて有益である。と同時に、河原宏という思想史家(というより思想家)のセンスと力量を示す、注目すべき論文と言えるだろう。