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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

古畑種基の日本民族論(1949)

2016-06-15 09:17:43 | コラムと名言

◎古畑種基の日本民族論(1949)

 先日、早稲田の古書店で、古畑種基著『法医学雑記』(筑紫書房、一九四九)という本を手にした。法医学者として知られた古畑種基の論文、エッセイを集めた本である。
 その最後に、「血液型より見たる日本民族」という一篇がある。東京人類学会編『日本民族』(岩波書店、一九三五)所収の古畑論文「血液型より見たる日本民族」の再掲であろうと思われたが、明らかに、書き直された跡がある。これも、ひとつの史料であろうと思って、購入することにした。
 本日は、「血液型より見たる日本民族」(一九四九)の論旨を、端的にあらわしている部分を引用してみたいと思う(二〇四~二〇五ページ)。

 日本民族の血液型
 以上血液型の人類学上の応用に関して概略を叙説したがこれによつて血液型の研究が人類学上参考になることが多い事を了解されたと思う。兎に角今まで述べて来たように、血液型の分布を調べると或民族と第二の民族との血縁が近いか遠いかと云うことが凡そ〈オオヨソ〉推測されるものである。【中略】大体からいつて日本人の血液型分布は日本民族独特のものと考えてよく、日本人であれば何処で調べても必ず「日本人型」を呈するとゆうことは、血液型の人類学的に応用される根本原理である。「一民族の血液型は混血さへなければ一定である」とゆう原則を如実に証明しているものである。これによつてみると、日本民族は殆ど平等に血液が分布していると考えられる。これは日本人は全部血縁を等しうする大家族民族たることを示しているとゆうべきであつて、「四海同胞」とゆう言葉の字義通り我我日本人の脈管の中には一様の血液が流れて居るのである。つまり日本島とゆう大陸から離れた島の中で、二千有余年の間一所に住居して居る間に、混血が行われ、東北人の血管にも、南方九州人の血管にも、等しく日本人に共通の血が流れて居るものと見られるのであつて、又日本人は共同の祖先を持つ民族と考えてよいのである。

 途中、【中略】の部分があるが、このあたり、文章の脱落があるらしく意味がつながらない。やむなく、【中略】としたものである。
 さて、古畑は、「二千有余年の間」に、「日本島」で混血がおこなわれたとしている一方で、「日本人は共同の祖先を持つ民族」とも述べているわけだが、この論理がよくわからない。混血した民族のうちで、ある民族が、「共同の祖先」として特定できるというなら、まだ意味が通る。しかし、古畑が言おうとしているのは、そういうことではない。
 混血の結果、日本人独特の血液型分布が生じ、この分布は、東北から九州まで共通している。だから、日本人は、「血縁を等しうする大家族民族」であるという見解は、わからなくはない。しかし、日本人が「血縁を等しうする大家族民族」だという見解から、「日本人は共同の祖先を持つ民族」だとする見解を導くのは無理がある。
 また、古畑は「四海同胞」という言葉を、間違えて使っている。「四海」というのは、全世界ということである。
 古畑種基が一九三五年(昭和一〇)に発表した論文「血液型より見たる日本民族」の問題点については、以前、このブログで取り上げたことがある(古畑種基と「血液型ナショナリズ..)。その問題点は、一九四九年の「血液型より見たる日本民族」においても、ほぼ同様に、指摘できるように思う。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2016・6.15(6・9・10位に珍しいものが入っています)

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大政翼賛会は解散、大日本婦人会も解散

2016-06-14 21:00:42 | コラムと名言

◎大政翼賛会は解散、大日本婦人会も解散

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、六月一四日~二二日の日誌を紹介する(一七七~一八五ページ)。
 なお、『永田町一番地』は、すでに、六月二九日までの分が紹介済である。

 六月十四日 (木) 晴
 午前七時、田原と一緒に朝食を食べる。熱はあるも今回は前回と比べて意識明瞭で、朝食もかなり食べられる。朝食後は眠ることが病気に一番と、また毛布にくるまって休む。
 午後三時、大量の発汗で体温計三十七度六分まで下がる。衣袴を全部着替える。もう少しだ、頑張ろう。衣袴を替えてまたも横になる。
 午後七時、夕食時聞に気がついたが、自分の衣袴が干してある。田中君が知らぬ間に洗濯してくれたのだ。
「おいすまんなあ」といえば、
「班長殿、まだ熱があるようで、こんど汗が出たとき着替えられるものがないので、洗っておきました」という。多謝多謝である。
 午後八時、田原が下番して来た。田原に、
「明日の午前八時からの勤務はおれがつく。おれの体はよくわかるが、今回は前回より回復が早いように思う。前回と違うのは、発熱前夜、キニーネを普通一錠飲むのを三錠にした。だから、来月からはもっと対策を自分なりに考えてゆきたい。今晩ぐっすり休んで、もう一回汗を出して熱を下げれば、明日は完全によくなる」と、自分にも宣言するように言った。
「おい、勤務中、変わったことは?」と聞く。昨日はまったく聞けなかったが、今日は聞ける。田原は、
「はッ、情報としましては、昨日はニューディリー放送はありません。昨日も今日も午後七時のNHKニュースを聞きました。昨日は大政翼賛会が解散式を行なったそうです。また翼賛壮年団や農業報国会なども同時に解散し、国民義勇隊の結成を急ぐとしております。
 今日のニュースでは、国内の全自動車が陸軍の所管に移されることになったと報じておりました。以上であります」
「有難う」と礼を言った。まず病気回復が先決と横になる。眠りすぎると夢を見る傾向だが、眠らねばならない。

 六月十五日 (金) 曇後雨
 午前六時、二度目の発汗となった。手拭で汗を拭き衣袴を着替える。体温三十六度二分。これでやっと勤務ができる。二人に迷惑をかけた。午前七時の朝食は、なんと菜も汁も佃煮も、久しぶりにうまい。
 午前八時、上番。上下番の挨拶を田中候補生と交わすのも久しぶり。繰りあげ勤務して事実上は一日しか休んでないが、長いこと休んだような気がする。眠りすぎたせいだろうか。
 午前十時ごろから外は雨が降って来たらしい。雨が降ったら、今日は敵さん休みだろう。
 正午のNHKのニュースが流れる。
 ――明治以来の婦人団体が一昨日をもって解散致しました。大日本婦人会は昭和十七年二月、愛国婦人会、国防婦人会、連合婦人会の統合により結成されました。二十歳以上の婦人が加入し、軍人援護、防空訓練、廃品回収など国家政策に協力してまいりましたが、今回の国民義勇隊結成にともない、六月十三日付をもって解散致しました――と。
 国民義勇隊に女子まで包含されると聞き、ただ驚く。男子も女子も国民皆兵にするというが、武器は果たしてあるのだろうか。兵隊だ、兵隊だといって、数だけ多く作って、何個師団相当の人員といったって仕方がないように思うが、そして敵の弾丸除け用に使うのは問題だ。午後も電話なく静かである。
 午後四時、下番する。ちょうど雨は一休みしてやんだ時間帯のようだ。衣袴、褌、靴下など一式洗濯する。褌の枚数の多いことよ。病後だ、あんまり無理すまいと、タ食後は早く横になる。

 六月十六日 (土) 曇
 午前八時、上番す。下番者田中候補生は、
「田原候補生からの申し送りでありますが、昨夜午後十時のニューディリー放送によれば、米軍はB29約四百七十機にて大阪を空襲爆撃しました」と。
 大阪も自分が神戸にいたので、ときおり足を運んだ。梅田付近、御堂筋、心斉橋、難波界隈、上六、天六とあちこち瞼に浮かぶ。聖徳太子の建立されたという四天王寺は、焼けずに残っているだろうか。ふと、先日、隊長がこれ以上国民に犠牲を強いるのは酷だといわれたことを思い出す。私もその点、同感だが、一下士官ではどうすることもできない。
 正午NHKニュースによれば、
 ――本日午後一時より大日本青少年団は神宮外苑の日本青年会館本部で解散式を行なう予定でございます。解散のうえは学徒隊や国民義勇隊に移行することとなっておりますという。【後略】

 六月十七日 (日) 晴
 午前零時、上番する。下番者田原候補生の報告では、
「昨日午後五時、陽江よりB29七機が東進し、海岸線の艦船を狙って爆撃しました。五時二十分海晏に、五時二十八分広海に、五時四十七分平沙に、午後六時斗門に、六時二十八分珠海に、六時四十分香港に、と各地で艦船を爆撃致しております。香港九龍から、このB29が東進致しておりますが、その後どこも確認しておりません」
 自分の勤務時間になると、どこからもベルはかかって来ない。まだ珠江界隈の大デルタ地帯を残しており、この地域の船舶攻撃に、数日後にはかならず来るだろう。注意を充分しなけれぽならない。
 電灯のもと、眠さはないが、それこそ真綿で首を絞められるようにジワジワと絞めつけられる気がする。沖縄はどうなっているのだろう。沖縄もじわじわと攻められていることだろう。【中略】
 どこからもベルのない静かな中を、時間ばかりが過ぎてゆく。そのうちニューディリー放送が流れてくる。もう十時に在るのかと時計を見る。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、本日、米軍のB29約百二十機は九州の鹿児島、大牟田などを空襲し爆撃しました。繰り返し申しあげます。…………。――
 こちらは静かでも内地は大変な模様。いつも思うことだが、ニューディリー放送では、どこから飛びたった米軍B29はとの説明が一切ない。せめてもう一言つけ加えて欲しいものだ。
 午後十二時、下番する。人間は二十四時間構成で生きており、また八時間後に勤務するのかと思うと、八時間おきに横になっても眠れず、非常につかれた気がする。

 六月十八日 (月) 晴
 午前八時、上番する。
 午前九時、ニューディリー放送が流れてくる。朝の放送は珍しい。
 ――こちらニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべぎ情報によりますと、昨夜、B29約百機は四日市、浜松、静岡の中部方面を夜間空襲し、焼夷弾を投下致しました。繰り返し申しあげます。…………。――
 夜の空襲警報では夕食、防空壕に入っていて、出て見れば火の海となったのではないだろうかと想像する。焼夷弾は爆弾のように大きくなく、手榴弾のちょっと大きいくらいだから、一機に何千と積めるので百機とは大変だったろう。今朝この時点、まだ燃えているのではないだろうか。この時間が自分の勤務時間でよかったと思った。若い静岡出身の彼らにとっては気になることだろう。後で情報記録簿を見ての感じと、ここで直接放送を聞いた感じは大変な差だ。【中略】
 午後四時、下番する。上番者田中候補生に、「珠江沿いに西日を受けて上流の方から来るような気がする。来れば一時間以内だろう」と。下番しても明朝午前零時から勤務なので手拭で体をよく拭き、そのまま横になって寝る。一時間も眠ったか。
「班長殿、空襲です」といって田原が鉄甲を持って来た。
「何時か」と聞くと、「ちょうど五時です」という。多分、梧州からの珠江沿いと見たが、綏江沿いも考えられる。三水辺りで空襲警報をかけたなと思う。
 もうそろそろ来てもよいと思うのに、飛行場爆撃に来ない。遠くで爆撃の音、高射砲の破裂音が聞こえ出した。と思っていたら、やっぱりやって来た。ドスーン、ドスーンという爆弾投下の音に、ドーン、ドーンという高射砲の音がつづく。時計を見れば五時二十五分だ。白雲飛行場の細長い滑走路を見て落としたくなったのだろう。
 今日はわりに早く引き上げた。どうやら黄埔の港から珠江大デルタ地帯の港を巡っているのだろう。なかなか解除にならない。
「おいじっとしていても、時間が勿体ない。一勤に備えて眠っておく。もし急用があれば起こしてくれ」といい、鉄帽を頭のところにおいて横になる。そのまま眠ってしまった。
 午後十一時半、上番準備のために起床する。どの衣袴も洗濯する閑がないので、どれもこれも臭い。自分が決めた勤務予定だから文句はいえないが、十二時間勤務なら八時間睡眠を取っても、洗濯時間が充分できる。とにかく隊長も上山少尉も一勤の時間はおられないので、汚れた衣袴だが着ていくとしよう。

 六月十九日 (火) 晴
 午前零時、上番する。下番者田中候補生は、
「班長殿のおっしゃった通りB29八機は午後四時十分、梧州から珠江沿いに徳慶、肇慶、白土を経て午後五時二十分、広東上空に、その間も各地で船舶を攻撃した模様です。白雲飛行場と天河飛行場には、それぞれ四機ずつ分かれ爆撃しました。今日は飛行場の攻撃はわずかで、大半が珠江上の船舶攻撃で、黄埔のみでなく東莞、順徳、さらに中山方面まで船舶をねらって投爆を繰り返し、いったん黄埔まで逆戻りした後、東江に沿い東莞、恵州を経て河源から江西省方面に北に向かって脱去致しました。河源は午後六時五十五分でありました」
「ご苦労。ご苦労」
 自分の勤務時間になってからは、どこからもベルがなく静かである。隣りの部屋は全員引きあげ、広い壕の中、ただ一人の勤務である。【後略】

 六月二十日 (水) 晴
 午前零時、上番する。下番者田中候補生の報告は、
「昨夜午後十時のニューディリー放送によると、一昨日(六月十八日)、米第十軍司令官バックナー陸軍中将は、沖縄南部真壁付近で戦死した旨報道されました」と。
 真壁というのを地図で見ると、沖縄の南部も南部で、東南は摩文仁〈マブニ〉、南は米須〈コメス〉、西は喜屋武〈キャン〉となっており、敵の司令官がこんなところにと、敵側の進攻度におどろく。十日前に日本に対して降伏勧告をした男で、名前もよくおぼえている。それにしても、敵としては一日遅れであるがよくも発表したものだ。
 逆に考えると、今日まで補給の武器、弾薬、糧秣なく頑張っている牛島中将閣下をはじめとする第三十二軍に敬意を表したい。また沖縄県民の家は焼かれ、田畑は潰され、親を失い、子を失いと悲惨な人々の数も多く、軍と共に戦い死亡した人も多いのではないだろうか。【後略】
 
 六月二十一日 (木) 曇後雨
 午前零時、上番する。下番者田中候補生の報告では、
「午後七時のNHKの放送によりますと、(一)米と代用食品の抱き合わせ配給が東京ではじまったこと。(二)焼け跡のくず鉄から手榴弾をつくるため都内に電機製鉄炉一基が設置されたことが放送されました」
「沖縄のことは何かいってたか」と聞くと、「何も放送はありません」という。沖縄戦線はその後、どう展開して行ったか気になって仕方がない。武運長久を祈るのみである。毎度のことながら今日も一勤勤務はまったく静かだ。【後略】

 六月二十二日 (金) 雨
 午前零時、上番する。下番者田中候補生が、
「午後七時、NHKの放送によると、戦災者北海道開拓協会では、かねてから家や職場を失った戦災者を対象として北海道への集団帰農者を募集していたところ、昨日付で来る七月六日、第一次千百人が出発することになると発表しておりました」という。
「ああこの間、募集発表を言ってたなあ。ありがとう」
 こちらは雨。一勤は閑というのが定評なのに、雨が降ってはなおさらのことである。
 六月に入って、もうかなりの日数雨が降る。今後どうなるかだが、この南支、やっぱり六月が雨期ではないだろうか。
 情報室の日めくり、今日は夏至である。これからが暑いんだ。頑張ろう。勤務は真面目に机に対座しているのにベルはなし。いつの間にか朝となったのか。【後略】

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マトモなことを言うとヒドイ目に遭う

2016-06-13 03:03:17 | コラムと名言

◎マトモなことを言うとヒドイ目に遭う

 昨日の続きである。『思想の科学』一九六〇年(昭和三五)八月号「よみがえる戦争・戦後体験」特集から、中野徹雄氏の「知識人の責任」というエッセイを紹介している。
 本日は、その二回目で、とりあえず、これが最後。前回、紹介した部分のあと、一ページ分ほど飛ばしたところから、再度、引用する。

 ここで卒然と知識人の一般的な病弊ということに議論が移るのは適当ではないかも知れないが、なるべく前に述べた思い出話と関係づけて考えて行ってみたい。繰返すようであるが、私達の実感としては、「大東亜戦争」自体についての罪悪感などというものは少しもない。しかし敗ける戦争を続けて同胞の殺戮を忍ばなければならない、あるいは自分自身も殺されなければならないなどということは、およそ正気の沙汰ではない。戦争は止めなければならない、という判断は、健全な生物本能に基いてもたらされる筈である。この判断は、先ず最初に情報に通じた戦争指導者の頭脳に生じ、次いでは情報についての判断力を具えた知識人層に生じた筈である。もしも事実に直前〔ママ〕して思考するならば、である。いや、もしも事実に直面して思考したならば、開戦が最大の愚挙であったのであり、その愚挙としての評価は、更に遡って中国大陸の侵略にも当嵌らなければならない。それにしても連鎖反応的な愚挙が、事実に直面した健全な思考の表白によって赤信号が点ぜられることなしに、行きつくところまで行ってしまったということは、どうせマトモなことを言っても通らない、それどころか非道い〈ヒドイ〉目に遭うだけだという状況の積み重ねがあって、それでは結局他人に向って言うこともできないようなことは、いくらマトモなことでも考えても仕方がないということになり、マトモなことのかわりに幾分かでも充足感を与えるような観念にとりすがっておくという、知識人の心理的経過を示しているのではないか。つまり、(1)マトモなことが通らないこと、(2)マトモなことについて沈黙すること、(3)マトモな考え方を放棄すること、の三段階があると、一応概括できるであろう。もちろんこの三段階は、歴史的に、また社会的な態勢の積み重ねによって生じ、人間から人間へと意識的・無意識的にバトン・タッチされて行く。しかし、いわゆる知識人たるものは、少くともこの三つの段階のいずれかに参加している人種である。マトモな議論とかマトモな思考というのは、それこそ戦争を止めろというような端的に危機的な問題についてでもありうるし、さほど切迫しない政治的・社会的あるいは文化的な問題についてでもありうる。知識人がマトモだと考えていたことは、現実への通路が断たれていた。壊れたラジオみたいなもので、スイッチをひねっても点かない。点かないという体験の積み重ねは、スイッチを放棄させたのである。しかし、この壊れたラジオみたいなものに思考がとどまるものであるならば、つまり知識人の思考というものが仮りに自らの現実対応能力を次々と喪失させて行くものであるならば、そして、長い社会的体験の末に破滅的な戦争に対する発言力をすら封殺してしまうほどチエのないものであるならば、知識人たることは知識による自家中毒にすぎないということになりはすまいか。言いかえると、それは現実による検証においてマトモでなかったことが証明されたと言うべきではなかろうか。私にとって問題が深刻に感ぜられるのは、敗戦に至るまでこのような心理的経過が、戦後の知識人によって、より大きな範囲で再び繰返される危険が看て取れることである。戦前と異るところは、舞台が戦前のような知識人の狭い、孤立的なサークルにおけるものではなくて、遥かに広範な公然たる群衆劇になり、全国民的な規模における政治体験として再現されつつあることである。【後略】

 この間、一度も改行がないが、原文のままである。中野徹雄氏は、引用した部分の最後のところで、「敗戦に至るまでこのような心理的経過が、戦後の知識人によって、より大きな範囲で再び繰返される危険が看て取れる」と述べている。
 このことを指摘するだけなら、このエッセイは、一個の「知識人の責任論」にすぎない。しかし、そのあとで中野氏は、「戦後」においては、そうした「心理的経過」が、「広範な公然たる群衆劇」として再現されようとしていると指摘している。
 鋭い指摘である。中野氏は、このエッセイで、「大衆の政治体験」、あるいは「大衆の政治的成長」という言葉を用いている。
 中野氏は、このように、「大衆」の動向に注目し、その重要性を指摘することによって、「知識人の責任」論というワクを、ここで、すでに超えたのだろうか。
 そう読めなくもないが、やはり違うようだ。ここで氏は、「大衆」に注目しているが、それは、やはり「知識人」からの視点であり、「知識人の責任」という問題意識からの関心にとどまっている。
 しかし、今、それを指摘したところで、どうなるものでもない。これはまだ、「知識人」にそれなりの存在感があった時代の文章、すなわち、知識人が「知識人」を名乗ってモノを言うことが許された時代に書かれた文章なのである。
 このエッセイに対する私の注文は、実は、別の点にある。それは、「戦前・戦中」における「大衆の政治的成長」という視点が、筆者の中野徹雄氏には、欠けているのではないかということである。
 エッセイの冒頭に紹介された「思い出話」などは、むしろ、次のような話として聞いたほうが、理解しやすいのではないだろうか。――戦中においては、配属将校という存在は、「大衆の政治意識」を体現するものであり、それゆえに、その発言力は、「知識人」階級に属する旧制高校生の「マトモ」な感覚を凌駕しえていた。しかし、さすがに敗色が濃くなると、「大衆の政治意識」のみでやってきた配属将校も、「知識人」階級の「マトモ」な感覚を探ってみたいと思うようになったのだろう、と。

*このブログの人気記事 2016・6・13

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「君達は、この戦争に日本が勝つと思うか」

2016-06-12 06:30:21 | コラムと名言

◎「君達は、この戦争に日本が勝つと思うか」

 先日、たまたま、『思想の科学』のバックナンバーを手に取った。一九六〇年(昭和三五)八月号、「よみがえる戦争・戦後体験」特集である。そこに載っていた中野徹雄「知識人の責任」というエッセイがおもしろかった。
 このエッセイを、二回に分けて紹介する。

 知 識 人 の 責 任
 思い出話になるのであるが、昭和二十年〔一九四五〕の春、つまり東京がB29の来襲の度毎に〈タビゴトニ〉灰燼〈カイジン〉に帰しつつあったあの終戦の年の春、私は旧制高等学校の第二学年の生徒で、配属将校の指揮下で軍事教練に参加した。その軍事教練のさなかに警戒警報が、更に空襲警報が発せられて、青空にB29と日本陸軍の戦闘機の空中戦が演ぜられ、日本の戦闘機が煙を吐きながらキリもみに墜落するのが眺められた。今となっては、私達の目〈マ〉のあたりにしたあの戦闘機に乗って戦死した陸軍軍人が誰であったか判ろう筈もないが、平和の時代の感懐としても悲痛な気持が湧く。しかし、あの時の私達は、恐らく無感覚に近かったのではないかと思う。大規模な殺戮が日々、東京都民の焼死という形で、目の前にあった。戦争の巨大な重圧は、私達の心にそのような人間的感傷の余地を与えなかったようである。ところで、この日の出来事で、全く今日においても鮮明に蘇る感情を刺激したものがある。それはややお恥しい種類の感情なのであるが、恐怖感、それも生命の危険にまつわるようなものではなく、配属将校が私達を並べておいて、日本の戦闘機の墜落を見終った後に、次のように質問したときに感じた恐怖感である。
「君達は、この戦争に日本が勝つと思うか、敗けると思うか」
 この質問による恐怖感は、少しく説明しないと判らないと思う。一つは、下手な返答をすると、満座の中でハリ倒されるという肉体的恐怖もあった。更に、下手な返答でこの実直な(というのも今日なればこその批評であるが)配属将校を怒らせてしまって、そのブラック・リストに載せられ、教練に落第点をつけられて、入営してから幹部候補生になる途をとざされ、散々な目に遭いはしないか、というやや長期の見通しにそった恐怖もあった。もちろんこれは杞憂で、私は入営すらしないで終戦を迎えたのであるが、「勝つと思います」と答えることは、あまりにも白々しい。寮の中でのヒソヒソ話に、敗戦後の日本の「大統領」は、延安の日本解放委員会とやらいうものの野坂某(というのは、私達は野坂氏の名前を知らなかったし、その時は参三ではなかった)か、それとも最近物故された賀川豊彦氏か、と取沙汰〈トリザタ〉されていた時期であった。
「敗けると思います」と答えることは、当時の敗戦主義者という奇妙な「主義者」の一人と目されることを意味した。当時、私達の西洋史の教授がヨーロッパの情勢の説明を講議でしゃべったら、すぐさま憲兵が「敗戦主義的な講義ではなかったか」といって調べたという状況であった。
 しかし、恐怖の原因は、それだけではなかった。もう少し根深い恐怖であった。背を向けて見ないように努めている怪物の方に無理やりに顔を向けさせられるような恐怖である。もう少し平和の時代らしい、日常的な比喩で言えば、朝晩コキ使われても貯金が一銭もできないようた下積みの勤労者が、一体、君の老後の暮しはどうなるのか」と質ね〈タズネ〉られたときに感ずるような恐怖である。つまり、事実に直面することのもたらす恐怖感であった。
 配属将校が第一に指さして答を求めた生徒は、日頃温和しい〈オトナシイ〉男で、今日では確か生命保険会社に勤めているのであるが、この男はヘドモドして答えなかった。これはまず最も正直な態度だったと考えられる。好意的に後から解釈すれば、「敗けると思うけれども、敗けると公言することは恐ろしい」という沈黙の、しかも雄弁な答だったのだから。しかし、配属将校は苛立った。口に出して訊ねてしまった以上、自分の発言の後始未をしなければならない。この質問というまことに愚かしい行為は、文弱な生徒達の目の前で自分の同僚が撃墜されたことによる一種の屈辱感を、威丈高〈イタケダカ〉な質問で取繕う、アテのない試みだったのだろうから。もっとも、このような立場に立たされたとき、人はどのような態度をとるべきか、はなはだむつかしいことは事実である。私は何も茶化して言っているのではない。最も平凡で人間的な挙措は、恐らく、墜落した戦闘機の方に向って瞑目して、それから常のごとく教練を再開して、何も言わないことであったろう。或いはもう少し達人めいて、終始少しも顔色を動かさずに、直ちに教練の再開を命ずる、というやり方もあったろう。しかし、この配属将校はそうはできなかった、目前の事件に対する彼の心の反応が、言葉となって外に出てしまったのであるし、もう少し良く解釈すれば、この事件を機として文弱な生徒の精神訓練を試みた、のかも知れない。
 日本機の墜落に動じなかった私達も、この質問には色を失った。しかし、第二番目に指さされた生徒の賢明な解答によって、私達は秘かに胸を撫でおろしたのであり、配属将校も満足気に首肯いた〈ウナヅイタ〉のである。それは、今日ではある戦後急速に伸びた貿易商社の海外駐在員となって、キビキビと働いている男なのだが、サッと不動の姿勢を執って、次の通り答えたのであった。
「ハッ、勝たねばならないと思います」
 この答はまことに見事であった。進退きわまった私達には天来の妙手というところであった。答に詰った第一番目の正直男もこの不正直な答に感謝したし、配属将校は「そうだ、勝たねばならんのだ」とオーム〔鸚鵡〕のように返答する始末であった。【中略して、次回に続く】

 以上は、このエッセイの導入部分であって、まだ筆者は、その説かんとする主題に踏み込んではいない。しかし、ここで、筆者が紹介した、敗戦直前の旧制高校における配属将校および生徒の言動は、それ自体が、実に興味深かった。
 それは、あらゆる意味で「手詰り」になってきている今日の日本の状況が、この敗戦直前における日本の姿とダブって見えたからである。
 今日、存亡の危機に直面しているような会社はいくらでもある。そんな会社の社員が、社長あるいは上司から、「君達は、この会社が生き残れると思うか、生き残れないと思うか」と問われたとすれば、やはり、「ヘドモドして」答えられないのではないか。
 もちろん、「ハッ、生き残らねばならないと思います」という回答はありうるが、そんな回答が何の役にも立たないことは、問うほうも、問われるほうも、よくわかっているのである。

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マラリアの発熱を予告しておく

2016-06-11 03:27:53 | コラムと名言

◎マラリアの発熱を予告しておく

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、六月一一日~一三日の日誌を紹介する(一七三~一七七ページ)。

 六月十一日 (月) 曇後雨
 午前零時、上番する。下番者田中候補生の報告によれば、
「昨夜午後十時のニューディリー放送では、(一)米軍B29約三百機、P51約七十機は、関東地区南部の各地を空襲し銃爆撃を致しました。(二)沖縄米軍司令官バックナー中将は、日本軍司令官牛島〔満〕中将に降伏勧告をしたと放送してました。以上であります」と。
 それにしても、米軍の司令官バックナー中将とは失礼きわまる奴だ。戦いの最中に降伏を進める〔ママ〕とは何事や。もってのほかではないかと思いながら、上山少尉の書かれている沖縄地図を見ると、糸満から知念を結ぶ線上まで敵は南下して来ているようだ。後は与座岳、八重瀬岳と南部の一握りの地域となっている。上山少尉も涙を流しつつ書かれたのであろう。
 関東南部には、三百七十機のコンドル〔B29〕、ホークス〔P51〕の大戦爆連合の大群だ。先日の隊長の話ではないが、この爆撃のたびに日本国内では親を失い、子を失い、あげくの果てには家を焼かれるという悲劇が、そのつど起こっていることを思うと耐えられない気持がする。【中略】
 厠に出たが、何度出ても曇っているのか、月も星も姿を見せてくれない。当番兵が朝食を持って来てくれて、ああ朝かと気づく。午前八時、下番する。内務班に帰るやすぐ横になる。
 午前九時半、せっかくよく眠っているところを、「班長殿、空襲です」と起こされる。
「おい、月曜日の空襲は恒例になったなあ」と話す。B29五機の模様である。広東といえぼ、白雲山を目標に攻撃する以外ないのかと聞きたいくらいに、一番に白雲飛行場を攻撃してくる。ドオーン、ドオーンと地響きをあげて爆弾の音が聞こえてくる。【後略】

 六月十二日 (火) 雨
 昨日からの雨はまだ降りつづいている。午前零時、上番する。下番者田中候補生の報告によると、「昨晩午後十時のニューディリー放送は、米軍P51約八十機は昨日、京浜地区を空襲し銃爆撃を加えたと発表しました」と。
 内地は昨日といい一昨日といい、爆撃を受けていることは梅雨の中休みなのか空梅雨〈カラツユ〉なのだろうか。あるいは梅雨の本番はまだなのか。こぢらは昨日今日と連続の雨。
 レシーバーはちゃんと耳にかけているが、閑にまかせて先月、マラリアで発熱を起こした五月十六日から前例を計算すると、二十九日目に発熱を起こしており、同様の計算をすると明日の十三日ということになる。病気を予告することはどうかと思うが、勤務を変更するときにはみんな予定があり、予告できればした方がよい。そんなことを考えさせてくれるほど一勤は閑である。二度厠に行くも、二度とも雨で、しかも真っ暗である。厠の中も雨水のため満水で板が水に浮いている。板を踏みはずすと落ちてしまう。無理もない、厠には屋根がない。あるのは四本柱と茣蓙〈ゴザ〉だけだ。
 午前八時、上下番挨拶を田原候補生と行なう。下番時、田原候補生に自分のマラリアの現状を話し、午後四時からの田中候補生の三勤と明日の一勤を交代してやって、もしマラリアが発生しなかったらよしとするが、「万一その時点でおれがマラリアになっていたら、明日の二勤から一応、十二時間勤務の午後八時まで、田中君がその後をやってもらうようによく相談してくれ、おれからも頼んでおく」と事前に了解をとっておく。【後略】

 六月十三日 (水) 晴
 午前零時五分ごろ、内務班に帰って横になる。横になったときは案外、もう大丈夫ではないかと思いつつ眠った。まったく普通通りで心配なかった。
 午前三時ごろからぞくぞく寒くなった。自分の毛布をまず体にぐるぐる巻きにしてもなお寒い。田原が気づいて彼の毛布や田中の毛布もかけてくれるが寒い。しばらくもがいていたが、寒さの中、眠り込んでしまう。田原が午前五時ごろから水を汲んで来て手拭を水につけ、よく絞って頭に乗せてくれる。多謝多謝だ。
 田原が「班長殿、朝食少しでも」といってくれるが、食事する気力なし。
 午前八時、田中が下番して体温計を借りて来てくれた。やっぱり四十度五分ある。静養第一と睡眠を採る。
 三人の中で一人欠けると大変だ。若い二人に長時間の勤務は酷だけど、二、三日だ、許して欲しい。自己暗示をかけて眠ることのみを考えた。
 午後七時、田中が「班長殿、朝も昼も食べておられないからぜひ」といって夕食をすすめてくれる。自分も元気になれるからといって、自分にいい聞かせるように食べた。意外とよく食べられた。
 午後八時、下番者の田原が帰って来た。体温計で熱を計るも、四十度のまま下がらず。病気は気を病むことが一番だからと、熱が下がるまで眠ることとして横になる。

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