◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その1
昨日、桃井銀平さんから、「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」と題する論文の投稿があった。これは、本年八月一日から九日にかけて、このブログで紹介した「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の「2,西原学説と教師の抗命義務」に続くもので、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」の全文である。
ここでは、「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」という表題で紹介させていただくことにする。
A4で二〇ページに及ぶ長文なので、以下、何回かに分けて、紹介してゆきたい。
日の丸・君が代裁判の現在によせて (2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前) 桃井銀平
3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評
西原博史はこの裁判で2通の鑑定意見書を書いている。それらを検討することによって、原告の思想・良心がどのようなものとして採り上げられているのか、最高裁判決と鑑定意見書との内容的相関関係はどのようなものか、などについて分析する〔1〕。さらに、最高裁判決についての西原の論評を採り上げ、結果的に敗訴に終わった裁判をどう総括しているかを検討する。
(1) 第一審西原博史鑑定意見書「教諭に国歌斉唱時のピアノ伴奏を求める職務命令と、信条に基づくその職務命令の履行拒否を理由とする戒告処分は適法か」(2002.7.5)
本鑑定意見書は、提訴(2002.1.25)の半年近く後に提出された〔2〕。西原は憲法上の論点を以下の3つに整理してそれぞれに見解を示している。
「(1)本件職務命令は、子どもの基本的人権を侵害するがゆえに違法なものではなかったか、
(2)本件職務命令は、原告本人の基本的人権を侵害するがゆえに違法なものではなかったか、
(3)本件処分は、原告の職務上の権限または基本的人権を侵害するがゆえに違法な ものではなかったか。〔3〕」
① 論点(1)について
A、西原による結論
問題となった小学校入学式では、自発的な選択が不可能なかたちで生徒に対して国歌斉唱が求められており、ピアノ伴奏は「強制のための補助手段」となっており、職務命令は生徒の「思想・良心の自由を侵害する具体的な実効行為を内容とするもの」であるが故に違法な職務命令を拒否した原告Fの行為には何らの違法性も存在しないという。以下、結論部分を引用する。
「 本件入学式においては、子どもに自発的選択の機会があることが伝えられないまま、「国歌斉唱!」という号令とともに、子どもたちが国歌斉唱の場に投げ出されており、子どもたちにおいて自発的な選択が可能だと受け取れる余地が保障されていない。そのような状況の中で、国歌斉唱に参加することに対する心理的抵抗を低める効果を期待されて、ピアノ伴奏を実施する旨の決断が下されているわけであり、その意味で、ピアノ伴奏は、子どもたちの意思に無関係に国歌斉唱へと誘導する、強制のための補助手段となっている。こうしたピアノ伴奏を求める職務命令は、子どもたちの思想・良心の自由を侵害する具体的な実行行為を内容とするものと位置づけざるを得ない。
このように、ピアノ伴奏が子どもたちの思想・良心の自由に対する侵害を招来する ことが認識可能である局面で、受命公務員である原告が、その違憲性・違法性を認識し、拒否したことは、子どもたちに対する人権侵害を防ぐ、教育公務員としての当然の責任に出た行動であり、賞賛されこそすれ、違法行為として断罪されるいわれは全くない。本件職務命令は、子どもの権利を侵害する違法な内容のものであって、適法なものとして成立しておらず、その違法な職務命令を拒否した原告の行為に何らの違法も存在しない。〔4〕」
B、批評
1) 職務命令拒否の違法性を阻却するに足りる明確な侵害事実は認定されているのか?
西原学説においては、そもそも権利主体の主観的受け止め方が重視されており、侵害事実の認定は西原学説が不可避的に要請する課題である。しかし、この裁判においては侵害の発生の事実が立証されているわけではない。本人または親の明示的訴え(典型的には出訴につながるような)がないこの事例では、教師の職務命令拒否の違法性が阻却されるに足るだけの侵害状況の認定は難しいのではないか。卒業式入学式での国旗国歌儀礼は、多くの子どもにとっては、学校で多かれ少なかれ日常的な<一方的指示>の一つである。また、儀式の進行に強制感を感じた生徒がいたとしても、それは必ずしも思想・良心の侵害と受け止めているかどうかは生徒本人の訴えによらねば十分には確認できない。さらに、被侵害感の程度もさまざまでありうる。侵害の事実認定は生徒についてよりも原告自身についてこそ明確に行うことができる。西原の主張はむしろ西原が消極的な客観的憲法判断になじむものである。
2) 「君が代」斉唱<強制>における教師の関わりの評価にも困難がある。
まず、テープ伴奏でも教師によるピアノ伴奏と本質的には変わらない力が生徒に及ぶ。儀式の通常の構造のもとでは、テープも斉唱を促す力を持つ。生身の人間がピアノを弾く、特に日常の授業で指導関係ができている教師が弾く場合、促す力が一層強まるが、儀式に<強制力>があるとしても、ピアノ伴奏で初めて<強制力>自体が生まれるわけではない。この点は、一審判決、第二審(控訴審)判決いずれも指摘し批判することになる。すなわち、儀式のあり方に強制性が認められるにしても、原告Fのピアノ伴奏行為は強制性の存在自体には大きな影響は及ぼせていない。第1章で指摘したことだが、一審東京地裁判決では、この点を鋭く衝いており、二審東京高裁判決もそれを引き継いでいる。
3) 原告の行為は、職務上の義務としての抵抗とは言いにくい。
同じ章で西原は、「職務命令が、子どもの基本的人権に対する侵害を内容とする場合には、その職務命令を拒否することこそ公務員として背負う義務となる。〔5〕」と、記すが、西原が例示する<喫煙を認めない生徒を殴れという校長の職務命令>(「比較対照事例1」〔6〕)においては、子どもの訴えの有無にかかわらず命令された行為は違法である。儀式における子どもの思想・良心の自由侵害はそうではない。訴えがなければ、個別の侵害は明確には認定できない。また、本件の原告は、国旗国歌儀礼の客観法的問題性について強い批判を持っているが、自らが関わる儀式においては<自分が>ピアノ伴奏をすることを拒否しているのであって、<強制性>に寄与するテープ伴奏や他の教師による伴奏代位を拒否しているわけではない。原告Fの伴奏拒否によって、当該儀式における子どもの権利侵害状況の蓋然性はほとんど変わっていない。原告が感じた<義務>は、西原が主張する<義務>とは異なり、基本的には自らに対するものである。
4)従って、原告の拒否行為の違法性を阻却するためには、客観法的憲法判断と原告の行為についての位置づけのしなおしが必要となる。【以下、次回】
注〔1〕先行するいわゆる<北九州ココロ裁判>で、西原学説の圧倒的影響下にある準備書面(14)がでたのは、2000年5月9日(『「君が代」にココロはわたさない』(北九州ココロ裁判原告団編、社会評論社2012)p144)、西原自身が証人として出廷したのは2004年7月21日(同p226)
注〔2〕『日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件 全資料』(日野「君が代」処分対策委員会・日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件弁護団編。日本評論社。2008年8月10日。以下では『全資料』とする)所収。
注〔3〕『全資料』p592
注〔4〕『全資料』p598-599
注〔5〕『全資料』p596
注〔6〕『全資料』p594
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