◎天日槍の来朝と赤絹掠奪事件
福田芳之助著の『新羅史』を読んで、天日槍(あめのひぼこ)という人物に興味が湧いた。しかし、考えれば考えるほど、不可解な人物である。そして、この人物の不可解さは、日本古代史の不可解さを象徴しているとも言える。
今日まで、天日槍に関して、どういう研究が蓄積されてきたのか、今日、天日槍に関して、最も信頼すべき研究をおこなっているのはだれか。これについては、まだ、よく調べていない。ただ、国立国会図書館のデータを見る限り、「天日槍」、「アメノヒボコ」をタイトルに掲げている著作というのは、ほんの数冊にとどまっている。
先日、国立国会図書館に行ったついでに、そのほんの数冊のうちの一冊、今井啓一著『天日槍 改訂版』(綜芸社、一九八六)を閲覧してきた。なかなか労作で、興味深い本でもあったが、概して決定力に欠けるという印象があった。
著者の今井啓一氏(一九〇五~一九七五)は、天日槍が来朝した理由を次のように推理している。ここは、同書のサワリの部分と思われるので、引用させていただきたい。
三
槍〔天日槍〕来化の理由については、垂仁紀三年条一云に日本国に聖皇【ひじりのきみ】有【い】ますと聞き、則ち己が国を弟知古【ちこ】に授けて化帰【まいけ】りと。即ち慕化をいっているが、慕化とはこの後も帰化人の用いる常套文句であり、また記応神段には遁れ去った妻女のあとを追い渡ってきたとしているが、これは他の説話と混淆した疑いがあり、いずれにしても明を闕く〈カク〉としてよい。いま一応、紀の所記によって彼来朝の理由を探索するとすれば、垂仁紀二年条に見えるように、是歳、任那人斯那曷叱智【そなかしち】の帰国に際して任那王に賜うた赤絹一百疋を途中、新羅人が掠奪した事件、同年条一云では、意富加羅【おほから】国王の子 都怒我阿羅斯等【つぬがあらしと】の帰国に際し赤織絹を賜い己が国の郡府【くら】に蔵めていたのを新羅人が聞き兵を起してみな奪ったとする事件に関係があるのではなかろうか。而してわが国にすでに絹織物を産したことは魏志倭人伝に蚕桑緝績・倭錦・異文雑錦などの文字もあって傍証とすべく、この時、任那に賜うた赤絹というのは恐らく軍需品であっただろう。
而して通例の来化なれば直路、大和帝京の地、或いはその近隣地にこそ投入すべきに後記するように、彼の来朝には特に勅使として三輪君祖 大友主と倭直祖 長尾市が態々〈ワザワザ〉、播磨国まで出向いてその審問に当ったというのであるから、槍の来朝には特別な理由、或いは使命があったことが想像される。これ私は前記のように赤絹掠奪事件と関係付け、恐らくその陳弁の旨趣を帯びての来朝と考えたい所以である。【以下、略】
なお、ザット読んだ限りだが、今井氏は、福田芳之助著『新羅史』という先行研究を、おそらく参照していない。
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