礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

森永太一郎についての逸話(木下滋)

2020-06-12 02:30:02 | コラムと名言

◎森永太一郎についての逸話(木下滋)

 福本亀治著『秘録二・二六事件真相史』(大勢新聞社、一九五八)を紹介している途中だが、当ブログの「森永太一郎」関係の記事をお読みになった木下滋さんから、森永太一郎の逸話などについての投稿をいただいたので、本日は、これを紹介したい。なお、木下さんは、これ以外にも、貴重な話題をお持ちのようなので、ご投稿があり次第、順次、紹介させていただきたいと思う。

  森永太一郎についての逸話      木下 滋
 
1 我家での言い伝えの一つ、森永の話とは?
 
 私の母は大正12年(1923年)、東京市赤坂区溜池町弐番地(現在の東京都港区赤坂一丁目)で生まれ育ちました。この敷地の中には何件もの家作があり、人に貸していたのです。母や叔父から良く森永の話を聞いたものです。母や叔父が小学生のとき森永の田町工場(現森永製菓本社)へ見学に行った際、森永の応接室に額に入った森永創業時賃料の領収書が飾ってあり、この領収書がどれだけ大切なものかの説明を受けたと言っていました。母も、叔父も見学帰りに、森永からお菓子をいっぱいもらったと、自慢めいた話しを聞いたのをはっきりと記憶しています。
 後に解かったのは、森永太一郎翁が明治32年(1899年)米国から帰国後、森永西洋菓子製造所を立ち上げた、まさにその場所であり、母の曽祖父木下源三郎が敷地の中にある家作の一軒を貸していたからでした。先に記しました領収書ですが、貸主木下源三郎が森永太一郎翁に宛てたものでした。応接室に領収書が飾ってあった話は、母からも聞いていましたが、私は確かめるべく、一昨年(2018年)、森永製菓本社へ出向き広報の方から、あの領収書は現在も大切に保管してあり、以前応接に飾り、森永の家訓と言うべきものと言われ、母たちが言っていた事が本当だったんだな~と確認できた事と、後に木下と森永の深い関係を記した、礼状と森永製菓100年史(29ページにはっきりと領収書が写っている)が送ってこられました。
 ではこれからは、木下とは何なのか? 何故森永の創業地が溜池二番地なのか? 何故木下源三郎との縁があったのか? 何故森永が急速に発展して行ったかをお話したいと思います。
 
2 木下のこと(木下商店)とは?
 
 当時、明治維新後江戸から東京へ、時代が変わり、文明開化が芽生えはじめの明治三年(1870年)、私の高祖父木下源三郎光再は上京、東京市麹町区内幸町一丁目、旧国会議事堂のあった付近に居を構えたと、国立国会図書館蔵『芝家具の百年史』(東京都芝家具商工業協同組合、1966年)にあります。その後アメリカ大使館員と親しくなり、同国の人々のガイド(案内人)となって、東京市中を案内していたが、翌明治四年(1871年)、外国公館の家具の修理をはからずも引き受けているうち、洋家具に興味をおぼえ、将来日本人の生活様式も必ず、椅子式になるであろうと予想し、家具業者たらんと決心し、明治四年創業で恐らく東京最古開店の業者で、明治五年(1872年)、赤坂溜池町弐番地から、明治七年(1874年)、芝区琴平町一番地へ移転、虎ノ門の木下商店と言われ、第二次大戦まで商売は大いに発展、その顧客層が特権階級で、外国公館からの手引きで、外務省関係、内閣総理大臣官邸、徳川家達公、徳川義親公を始め華族の邸宅、三井の大番頭の池田成彬、団琢磨、三井や、三菱岩崎家、と言うように相手が良かったと書かれています。高級且つ本格的な洋家具の設計製作修理に乗り出し、溜池二番地(森永創業地)は、家具の工業と、家作の地となったわけです。
 
3 森永の創業地が何故赤坂区溜池町弐番地なのか?
 
 明治三二年(1899年)、米国帰りの森永太一郎翁(35才)は、アメリカ大使館に行き、話をする中、館員から木下源三郎を紹介されたようです。私の叔父が言うには、(源三郎が西洋化の商売をすでに成功させていて、家作の持ち主だったから)。そして源三郎は太一郎青年の話を聞き、その考え方と、勢いに共感し、自分の敷地内にある一戸の戸建を貸したのです。あらゆる書物には、赤坂溜池二番地のわずか2坪とありますが、実際にはお菓子の製作場が戸建の中の2坪で、寝泊りする場所が他にありました。そして、その地から製造販売をするわけですが、当初作業所の前に縁台を出し、奥方は背中に赤ん坊を背負い、夫婦共々、マシュマロなどをPRしたり、又手押し車で町に出向くも、当時はまだまだ、一般庶民には、洋菓子自体なじみが無く、高級で、かなり苦労したと聞いています。
 
4 木下源三郎との縁
 
 日頃は単なる借家の借主と貸主の関係と言うよりは、大家と店子の関係が強く、源三郎は自分の道と照らし合わせ、太一郎青年の、頑張りや誠実さに惚れ、賃料の縛りの関係では無く、太一郎青年の苦労を見るとき、そんな中、源三郎が、家賃は成功してからで良いからと応援するようになる。
 それが証拠に、『森永製菓100年史』(森永製菓、2000年)29ページにある領収書は、創業から半年以上纏めて書かれています。又普通で言うなら、会社として、100年以上前の家賃の領収書を令和の現在、大切に保管している事実は、いかに創業当時のご苦労と感謝の念を物語っているとも思えるのではないでしょうか。
 
5 森永の急速な発展
 
 木下商店が手がけるルイ式洋家具は、明治の文明開化のシンボル的存在として、とうに軌道に乗り、客層が、皇室や、華族関係で金に糸目もつけない特権階級でした。「ルイ式家具」とは、「ルイ王朝様式の高級家具」のことで、文明開化ともに日本でもこの様な高級家具が特権階級で好まれ、この洋家具は、後に「芝家具」と称されました。明治期に新橋赤煉瓦通りに、多くの芝家具業者がありました。
そんな中、木下商店は芝家具一号店として、仕事を覚えるなら木下へ、金儲けなら他へ行けと言われたらしく、現在の明治天皇宝物館(明治神宮内)にある明治天皇、皇后座は木下源三郎の作と伝わっています。
 ある時、明治の欧化に特化した鹿鳴館外交に習い、それを受け継いだ、その後の華族会館の頃のパーティーに源三郎が、お土産に森永のお菓子を配ったり、又、その後その出席者たち人脈を太一郎青年に紹介し、その後、次第にすでに西洋家具を使用している華族等の夫人たちからの要求により、銀座などの和菓子店が在庫するようになり、森永の発展にも、少し寄与したと聞いています。そんなこともプラスになり、売り上げは急速に伸びて行き、晩年源三郎も、森永の成功を自分のことのように大変喜んでいたと聞いています。
 
 以上、表現方法や言葉が適切かどうかは別にして、事実に基づく大筋の流れで、母と叔父から伝え聞いた話(口碑)です。

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