礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

末永雅雄の『池の文化』(1947)を読む

2024-04-26 01:36:53 | コラムと名言

◎末永雅雄の『池の文化』(1947)を読む

 今月の初め、中央線沿線の某古書店で、末永雅雄著『池の文化』(創元社、1947)を入手した。「百花文庫」の21、本文206ページ、定価37円、古書価110円。
 考古学者・末永雅雄の名前は聞いたことがあったが、彼が「池」の研究家であることは、この本を読むまで知らなかった。また、末永雅雄が学者らしからぬ文章家であることも、この本を読むまで気づかなかった。
 紹介したいところは、いろいろあるが、本日および明日は、第二章「池の景観」の第一節「池と信仰」を、前後に二回に分けて紹介してみたい。

   第二章 池 の 景 観

       一 池 と 信 仰

 池にする信仰は、水に対する原始信仰を伝へるものと、池そのものは生産の源泉であると云ふ意味からの信仰と池の主の伝説や水への恐怖感から生れる俗信などがある。随つて内容的にも同じでなく地方的差違も多い。しかし地方的な差は地方の特色なり環境を示すことにもなる。或場合には池そのものゝ信仰と云ふより池を介して対象が求められ、それが地方での特色ある人物とか伝説中のあるものがとりあげられてゐる。例へば水に縁の深い龍王神の信仰は殆ど俗伝と結ばれる。池全体が信仰されるのは、原始生活において、天体、山嶽、巨石等が信仰されたと同様に雄大な巨石や山嶽に対する、池沼〈チショウ〉の引き込まれる様な静けさを湛へた凄い恐怖的な環境をもつ碧潭〈ヘキタン〉において信仰を深めるのであらうと思ふ。
 続紀〔続日本紀〕、後紀〔日本後紀〕などの記載によるとしばしば池水〈チスイ〉異変のことがあつて注意せられてゐる。これは平安朝の怪異思想の一端を表はすものとも思はれるが、皇極天皇二年〔643〕七月から九月へかけて河内〈カワチ〉の茨田池〈マンダノイケ〉の水が大に臭くまた異形の虫が現はれた。あるときは藍汁〈アイシル〉の如くに変じた。その為虫が死し虫の為に大小の魚が腐爛して喫へない〈クエナイ〉。九月になつてこんどは白色に変じ漸く臭気が去り、十月に至つて池水が清く澄んでもとに還つた〈カエッタ〉。また或は天応元年〔781〕七月河内の尺度池水血色に変ずることを記してゐる。これらは単に池水変化の記録をなしたに止まるとも見られ、池への信仰とは必ずしも直接の関係がないのかも知れないけれども物の鳴動、水の異変に対しては意味を考へようとしてゐたのではなからうか。
 しかしこれとは違つて阿蘇山頂の神霊池〈シンレイノイケ〉や吉野の奥の池峯池〈イケミネイケ〉の如きは古くより神聖視されまた信仰されてゐた。神霊池はまたの名を神の他とも云ひその池に対する信仰的表はれは、日本後紀〈ニホンコウキ〉あたりより以後かなり多く、恐らく池と信仰を考へるに最も具体的な例であると思ふ。日本後紀延暦〈エンリャク〉十五年〔796〕詔〈ミコトノリ〉して曰く〈ノタマワク〉近頃太宰府の申言〈モウシゴト〉によると、肥後国阿蘇の山上にある沼はその名を神霊池と云ひ、永い年代を経て来てゐるが未だ涸れた〈カレタ〉ことがなかつた。しかしこのたび二十余丈も減水したので卜はせて〈ウラナワセテ〉みると旱疫があると云ふ、とあつて池水異変はある災厄を予報するの徴證として扱はれてゐる。
 また続後紀〔続日本後紀〕承和〈ジョウワ〉七年〔840〕九月に阿蘇の建磐龍命〈タケイワタツノミコト〉の神霊池は未だかつて水の増減を見なかつたが、いま四十丈の減水をしたので、十二月使〈ツカイ〉を伊勢太神宮〈イセダイジングウ〉に遣はしてこの事を述べ国異として懼れ〈オソレ〉られたことがあり、三代実録貞観〈ジョウガン〉六年〔864〕十二月、神霊池に声あり、震動し、池水空中に沸騰し東西に飛び、その東に落ちたものは幕を布いた様で広さ十余町水の色が漿の如く、草木に粘着して数日とれなかつた。これを卜ふに水疫の災があるだらうと現はれたとされて、甚だその池水異変が畏れられたのであつた。【以下、次回】

 最後のところに、「水の色が漿の如く」とあるが、この「漿」は、意味・読みともに不明。あるいは、「鉄漿」(かね)のことか。

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