礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西洋の天文学と国学の日本開闢説

2015-01-02 05:57:15 | コラムと名言

◎西洋の天文学と国学の日本開闢説

 昨日の続きである。海老沢有道の『近代日本文化の誕生』(日本YMCM同盟出版部、改定版一九六八)から、「一一 ごまかされた維新」の章を紹介している。

 昨日紹介した部分に続けて、改行して次のようにある。

 こうした洋学の摂取による国学理論化の動きと、幕末国際関係の緊迫、封建社会の行詰りの認識は、彼ら学者らが世界知識と科学知識を持つようになってからは、ますます積極性を増加し、儒仏の世界観を打破する地球説はもちろん、〔平田〕篤胤〈アツタネ〉の如きは地動説をさえ摂取して日本古説を基礎付け、彼ら国学の指導的人物をして、日本を万国の宗国とするいわゆる八紘一宇〈ハッコウイチウ〉思想を形成せしめ、独善的ながら反鎖国的方向へと進み、矢野玄道〈ヤノ・ハルミチ〉の如く、鎖国は近代の新制で皇国古有の制ではないと、積極的開国論を展開するまでに至るのである。
 しかも国学が日本開闢説を西洋天文学説により合理化したことは、すでに〔前章で〕明らかにしたように科学者の中に明清〈ミン・シン〉耶蘇会士〔イエズス会士〕の著編書を通してキリスト教理解へと進んで行った人々があったように、国学者らはそれを通じて創造神の認識を、会得するようになったのである。国学は訓詁学〈クンコガク〉、文学論乃至は政治論として、皇道主義的経世論として多面性を発揮するが、古代研究の神代への溯源と、現実の封建社会の中に実現せられぬ彼らの理想、古代生活への憧れは、ますますロマン的に理想化せられ信仰化されつつあった。歴史的古代の彼岸は、彼等にとって彼岸となりつつあった。そして古事記・日本書紀神代巻に対する無批判的信仰、古代人が神々の前に随順したその姿が理想的信仰とされ、その神の子孫である天皇へ絶対信仰を捧げることにおいて、古代生活の、純日本的生活の実践とする。こうした点において、国学は本質的に宗教化への性格を持っていたのである。
 宣長においてこの頓向は著るしくなり、賀茂真淵〈カモ・ノ・マブチ〉のいうような老荘的「天地のおのづからなる道にもあらず」、「此世中〈コノヨノナカ〉の事は……みなことごとに伸の御所為〈ミシワザ〉」なのであり、「神の道のまま」に生きることが、主張せられた。篤胤の生きた時代は宣長以上の危機的社会であった。その上、宜長没後の国学陣営の内部抗争、そして外部からの批判。それらに対抗し、それらを克服するに足るだけの理論的根拠を持つことが、国学においてますます強く感ぜられた時代である。そこに篤胤は宣長がまだ明確に創造神として把握しなかった天之御中主神を唯一の創造主宰神として把握し、すべての異説も、諸外国も、すべてはその下に包括されるものと、いわば一段高い次元に立ってそれらをおのずから北服するようになったのである。
 復古神道が明治維新の指導精神にまでなった重要な一つの理由は、儒仏が封建社会の停頓・崩壊とともに、精神的支柱としての権威を失ったからというばかりでなく、復古主義の一面にもつ国学のこうした進取性、洋学の独善的摂取による世界観の拡大、儒仏の上に立つ普遍的、創造主宰神の把握などによる近代的偽装と神学理論化が、また維新そのものの王政復古の性格でもあったからと云える。
 篤胤におけるこうした神学的発展は、実にリッチ〔マテオ・リッチ〕やアレニ〔ジュリオ・アレニ〕の著書に負うたのである。彼が、右に述べたような思想形成の途上にあった時に、彼ら耶蘇会士らが、神学的に科学的に、儒仏を論破する書を入手した彼は、一言一句それに同感せずにはおれなかったようである。この天主教への傾斜を最も具体的に示すのは、彼の初期の著作『本教外篇』二巻である。【以下、次回】

 巧みな文章とは言えない。しかし、画期的なことを言おうとしているのだという筆者の気負いのようなものが、行間から伝わってくる。なお、本日、引用した部分でポイントとなるのは、下線部であろう。

今日の名言 2015・1・2

◎雪の朝二の字二の字の下駄の跡

 江戸時代初期の女流歌人・俳人である田捨女〈デン・ステジョ〉(本名・田ステ)が、六歳のときに詠んだとされる俳句。昨日元旦の東京は、朝、わずかに雪が舞った。田捨女に倣って一句。朝の雪、賀状途絶えしひと三たり。

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2015-01-05 22:44:35
 海音寺潮五郎著『西郷と大久保』によれば、当時(幕末期)国学者の意見も攘夷派と開国派に分かれて争っていたそうです。国学というとなんとなく偏狭で硬いイメージがありますが、それは幕末の水戸学を中心として平田篤胤の高弟の大国隆正や佐藤信淵らが明治新政府と結びついて急仕立てにキリスト教の三位一体説を取り入れた説が人口に膾炙されているからだと思います。
 井伊直弼の雅号である埋木舎(うもれぎのや)は平田篤胤の気吹舎(いぶきのや)から取ったものであり、直弼のブレーンである長野主膳なる国学者は将軍家の後継者選定についても、能のある者(一橋慶喜のこと)が天下を治べきというのは支那の教えであり、皇国の教えから言えば血縁の近い者(徳川慶福のちの家茂)が相応しいと主張したようです。
 このように水戸学や明治新政府の方針で?表に出されなかった国学の説や、各藩には各藩の郷学とも呼ぶべきさまざまな国学があると思うのでいろいろと余り知られていないような興味深いものがあるのではないかと私は思っています。
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