礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

永井荷風、藤蔭静枝、そしてカツ丼

2015-02-16 04:53:09 | コラムと名言

◎永井荷風、藤蔭静枝、そしてカツ丼

 三年前のブログで、日本舞踊・藤蔭流〈フジカゲリュウ〉の創始者・藤蔭静枝に触れたことがある(二〇一二年七月二一日)。そのとき、読みを〈フジカゲ・セイシ〉とした。何を根拠に、そのように読んだかは覚えていないが、そう読んでいた文献を見たような記憶がある。
 数日前、鵜崎巨石さんから、〈フジカゲ・シズエ〉ではないかという指摘を受け、調べなおしてみると、たしかに、百科辞典マイペディアは、「しずえ」と読んでいる。

藤蔭静枝【ふじかげしずえ】 日本舞踊家。本名内田八重。初め藤間静枝を名のり、1917年〔大正六〕藤蔭(とういん)会を結成、坪内逍遥の《新楽劇論》にはじまる新舞踊の道を開いた。1931年藤蔭流を創立,家元となり藤蔭と改姓。(1880-1966)

 当該ブログの読みを、〈フジカゲ・シズエ〉に訂正しておいた。
 ところで、その藤蔭静枝について調べているうちに、彼女が一時、永井荷風の配偶者であった事実を知った。ウィキペィア「藤蔭静樹」の項には、次のようにある。

藤蔭静樹(ふじかげ せいじゅ、1880(明治13年)10月13日―1966年(昭和41)1月2日)は、日本舞踊家。藤蔭流(ふじかげりゅう)を創始し、新舞踊を開拓した。前名に藤蔭静枝、藤間静枝、新巴屋八重次(しんともえや やえじ)、内田静江(うちだ しずえ)など。本名は内田 八重(うちだ やい)。一時期永井荷風の妻だった。

 さらに、次のような記述もあった。

 1898年(明治31年)(19歳)のとき上京し、翌年市川九女八〈クメハチ〉の弟子となり、師匠の知人の依田学海〈ヨダ・ガッカイ〉から内田静江の芸名を貰い、また佐々木信綱の竹柏園で短歌を学んだ。1903年〔明治三六〕、川上音二郎一座の興行に、九女八に従って明治座の舞台を踏んだが、日舞への転進を勧められて二代目藤間勘右衛門〈フジマ・カンエモン〉に入門した。31歳の1909年〔明治四二〕、藤間静枝〈フジマ・シズエ〉の名を許され、生活のため新橋宗十郎町(現中央区銀座7丁目)に新巴家の看板を出し、芸妓・八重次となった。文学芸者と呼ばれた。
 1910年(明治43年)(30歳)、慶應義塾大学文学部教授永井荷風と馴れ初め、交情を深めて後1914年(大正3年)結婚したが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、八重次に戻った。

 文中、「佐々木信綱の竹柏園」とあるところは、「佐々木信綱の竹柏会」としたほうがよいような気がするが、どうなのだろうか。
 それは措くとても、何とも多彩な経歴である。藤間静枝について調べているうちに、永井荷風が読みたくなって、書棚から岩波文庫『花火・雨瀟瀟』を取り出した。一九五四年(昭和三一)六月の初版であるが、私が持っているのは一九六七年(昭和四二)一一月の第八刷である。購入したのは、たしか同年か、その翌年だったと思う。最後に手にしたのは、たぶん四〇年以上前である。
「雨瀟瀟」〈アメショウショウ〉の冒頭近くに、「十年前新妻の愚鈍に呆れてこれを去り七年前には妾の悋気〈リンキ〉深きに辟易〈ヘキエキ〉して手を切つてからこの方わたしは今に独〈ヒトリ〉で暮してゐる」とある。
 こう引用しただけで、これは並の文章ではないと感じた。この間、読点(テン)が全く用いられていない。それでも読みにくくないのは、流れに無理がないからであろう。
 その「雨瀟瀟」の末尾に、「大正十年正月脱稿」とある。大正十年から「七年前」というと、大正三年のことになり、同年に悋気深きに辟易して手を切った「妾」というのは、藤間静枝(八重次)以外にはありえない。
 ちなみに、「悋気」とは、嫉妬の意味である。八重次の「悋気」の原因は、荷風自身が作っている。それにもかかわらず、荷風は、「悋気深きに辟易して」と言ってのける。このセンスは、当時では赦されたかもしれないが、今日では批判の対象となろう。
 しかも荷風は、八重次を入籍していたにもかかわらず、あえて彼女を「妾」と表現している。このあたりの意識も、今日においては問題になるだろう。要するに、人々の意識も変わるし、価値観や規範といったものも変化するということである。
 ところで、ウィキペディア「藤蔭静枝」によれば、藤間静枝は、永井荷風と別れたのちも、荷風を慕っていたらしい。一九五九年(昭和三四)四月三〇日に荷風が没したのちは、「命日の30日に荷風の最期の食事だったカツ丼をとるのを習いとした」という。荷風は、八〇歳で没している。その歳になって、しかも死の直前までカツ丼を食べていた荷風の精力に感嘆する。それ以上に、荷風が没してのちは毎月三〇日にカツ丼を食ベようと決意した藤間静枝(このとき七九歳)の生命力に驚嘆する。

今日の名言 2015・2・16

◎人間とは食べるところのものである

 ドイツの哲学者・フォイエルバッハの言葉。Der Mensch ist, was er ißt. その人がどういう人かは、その人が何を食っているかでわかるといった意味であろう。むかし、関口存男〈ツギオ〉か誰かのドイツ語教本を読んでいて、この言葉を知り、妙に感心した覚えがある。

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芸者八重次 (鵜崎巨石)
2015-02-16 17:58:14
藤蔭静枝がカルタになるほどの人物とはうかつにも知りませんでした。荷風は大正元年9月に材木商の娘と結婚しました(翌年2月離婚)が、新婚中の正月二日、父の臨終の際に、馴染みの芸者八重次を箱根に呼び、死に目にあわないという不名誉な事件を起こしました。
八重次とはその後に結婚していますが、これも荷風のわがままで程なく離婚しています。その後も交情が続いています。そこら辺は断腸亭日乗に明らかです。
生涯に関係した芸者「等」は有名な昭和11年1月30日の日乗に自ら詳しく述べています。八重次も詳しく載っていますが、八重次は所謂「新しい女」であり荷風には一面苦手でした。
老境の荷風が一番性格的に気に入ったのは昭和2年頃に落籍した関根歌では無いでしょうか。
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