礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

訂正・吉本隆明「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」

2013-08-02 04:15:26 | 日記

◎訂正・吉本隆明「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」

 昨日のコラムで、麻生太郎財務相の「ナチス憲法」発言について触れた。昨日は、麻生財務相が発言「撤回」を表明するなどの動きがあり、これについても、論じたいことがあるが、その前に、当コラム記事の内容に関して、急ぎ訂正する必要が生じたので、本日はそれについて述べる。
 本年七月二四日のコラムで私は、次のように述べた。

「自由な選択にかけられた人間の意志」が、それを上回る「何か」によって制約されるという発想を、吉本は、親鸞の『歎異抄』から得たのではないだろうか。その「何か」とは、「マチウ書試論」の場合は「関係の絶対性」であり、『歎異抄』の場合は「宿業」〈シュクゴウ〉ということになるが、発想はよく似ている。いずれも「罪」の意識から逃れるために考え出された論理であり、その点においても共通するところがある。

 また、その翌日、七月二五日のコラムでは、「そういうことは、すでに誰かが指摘しているのかもしれないが、一応、オリジナルな視点だと思っている」と述べた。
 しかし、同月三一日になって、「そういうこと」を、すでに指摘している論者がいたことを確認した。すなわち、礫川の「オリジナルな視点」ではないことが明確になった。この点を急ぎ訂正すると同時に、関係の皆様、コラムの読者にお詫び申し上げたい。
 ただし、あとで触れることになると思うが、「いずれも『罪』の意識から逃れるために考え出された論理であり」云々の部分は、今でも一応、「オリジナルな視点」ではないかと思っている。
 さて、吉本隆明「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」との関係について、すでに指摘されているのは、多羽田敏夫氏である。氏は、本年六月一日発行の『群像』六月号に掲載された「〈普遍倫理〉を求めて――吉本隆明「人間の『存在の倫理』」論註」と題する論文において、吉本隆明「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」との関係を、論文における主要な論点として指摘されている。
 礫川は、この多羽田氏の論文の存在を知らずに、それとは別個に、吉本隆明「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」との関係について指摘したのかというと、そういうわけではない。
 この論文の存在は、批評社の佐藤英之社長から、六月一一日のメールで、すでに教えられていた。画期的な論考だというお話だったので、一応目を通してみたが、今ひとつ、趣旨が読み取れなかった。佐藤社長に対しては、翌六月一二日のメールで、「この論文は、歎異抄13条を扱っていますが、その割には『本願ぼこり』という重要なキーワードが出てこなかったように思います」などという、的はずれな読後感を送ってしまった。要するに、深く読まなかったし、正しく理解できなかったのである。
 それから一月ほどたった七月二〇日・二一日に、新幹線の車中で、呉智英氏の『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、二〇一二)を再読していて、吉本隆明「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」との関係に「気づいた」。いや、気づいたわけではなく、一か月ほど前に読んだ多羽田論文に含まれていた指摘を、この段階になって思い出し、理解したのである。それと同時に、それを自分の「オリジナルな視点」と錯覚してしまったのである。錯覚しただけならまだよかったが、それをブログで公表してしまったのは、慙愧に堪えない次第である。
 恥をさらすようだが、まず、以上のことを申し上げておかねばならない。不幸中の幸いだったのは、この錯覚に自分で気がついたことである(先月三一日に、多羽田氏の論文を再読したからである)。
 なお、このあと、今回の反省の上に立った上で、多羽田敏夫氏の論文について論じてみたい。ただし、明日は、麻生財務相の「ナチス憲法」発言問題について再論することになろう。

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