◎丸山先生が委員会で八月革命という表現を使われ……
二〇一八年一一月一四日のブログに、「八月革命説と丸山眞男」という記事を書いた。「八月革命説」を最初に口にしたのは、政治学者の丸山眞男で、そのアイデアを論文の形にしたのが憲法学者の宮沢俊義だったという「伝聞」を紹介した。
その「伝聞」というのは、憲法学者の鵜飼信成(うかい・のぶしげ、一九〇六~一九八七)のエッセイ「宮沢憲法学管見」(『ジュリスト』第八〇七号、一九八四年二月一五日)に含まれているもので、その日のブログでは、同エッセイの一部を紹介した。
その後しばらく経って、福田歓一(ふくだ・かんいち、一九二三~二〇〇七)の講演録『丸山眞男とその時代』(岩波ブックレット、二〇〇〇)を読み、そこにも、同様の「伝聞」があることに気づいた。このことは、二〇一九年一月二七日の記事「病床で『丸山眞男とその時代』」で報告したが、そのときは福田の文章を引用することはしなかった。
本日は、福田歓一の講演録から、当該部分を引用・紹介してみたい。
……さきに申しました東大内の憲法研究委員会に戻りますと、丸山〔眞男〕先生の回想によればこの委員会ができたのは、幣原〔喜重郎〕内閣の松本烝治私案が出たころで、委員会でも最初は帝国憲法の逐条審議をやっていた。ところが四六年三月六日松本案にあきたらなかったGHQの原案に基づく草案が政府から公表され、委員会はこの案の審議に切り替えた。さらに政府の修正を経た草案正文が発表されるに及んで、対案をつくる時間的余裕がないというので、手続き問題だけを第一次報告として総長に答申した。先生はこの答申の原案を書かれたのですが、その趣旨は草案を国民におろして、市町村を含むレヴュルで憲法制定会議を開き、そこでの議論を積み上げて議会に戻して審議せよ、というものです。これは憲法を国民のものにするための手続きであって、それをしないでおくと、将来改憲が争点となったとき、国民に憲法を守ろうという気概は生まれない、という考慮から出たものです。松本案に示された通り、もともと帝国憲法手直しする程度に考えていた当時の支配者が、憲法制定の経過を、「押しつけ」と言い出す日を予想する側面をもつように思われます。
三月六日に公表された政府草案で、先生に最も予想外であったのは、第九条の戦争放棄ではなくて、第一条の人民主権であった。当時各政党などの発表した案でも、社会党でさえ国家法人説の国家主権で、人民主権をかかげたのは高野岩三郎博士と共産党だけであった。先生にとって、この第一条はまさに国体の解体以外の何ものでもない。そこで回想されるのは、ポツダム宣言受諾までのやりとりです。どこまでも「国体護持」に固執した日本側は、七月二十六日のポツダム宣言をヒロシマ以後ようやく受け入れざるを得ないという瀬戸際で、八月十日の回答にまだ条件をつけて、「主権的統治者としての天皇の大権を変更しない」という言質〈ゲンチ〉を取ろうとした。連合国は宣言の“The ultimate form of Japanese government shall be decided by the freely express¬ed will of Japanese people”という宣言の字句を繰り返して突っぱねた。この人民主権こそまぎれもない国体の解体である。丸山先生はこれをとらえて委員会で八月革命という表現を使われ、委員長の宮沢〔俊義〕教授が、感銘を受けて、先生の承諾を得て八月を論文の標題に使われたことから、この言葉が憲法学界にも流通するようになった、と言います。〈三二~三四ページ〉
これもまた「伝聞」である。しかし、鵜飼信成が、「伝聞」の出所を明らかにしていないのに対し、福田歓一は、「先生」たる丸山眞男からジカに聞いた話を、ここに披露していると思われる。その意味では、この証言は、鵜飼信成の証言以上に、貴重なものと言えそうである。
「八月革命説」については、さらに補足したいことがあるが、同じような話が続くのもどうかと思い、明日は、いったん話題を変える。
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