礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

政府は憲法改正案を撤回すべし(美濃部達吉)

2022-12-15 06:08:38 | コラムと名言

◎政府は憲法改正案を撤回すべし(美濃部達吉)

 行政法学者・憲法学者の美濃部達吉(一八七三~一九四八)は、戦後、枢密院顧問官として、帝国憲法の改正に関わっている。このあたりについては、望月雅士氏の『枢密院』(講談社現代新書、二〇二二年六月)の第四章のⅣの4に、要を得た解説がある。本日は、これを紹介させていただこう。

4 憲法改正と枢密院
 憲法改正案に関する枢密院審査委員会は、一九四六年四月二二日から六月三日まで計一一回開催された。そもそも枢密院に憲法改正案の修正は許容されているのか。会議初日、この問いを発した小幡酉吉〈オバタ・ユウキチ〉顧問官に対し松本烝治〈マツモト・ジョウジ〉国務相は、本草案が日英両文で同時に発表されている以上、実質的に修正はできないと答弁した。
 またこの日、美濃部達吉顧問官から憲法改正手続きについての根本的疑義が提起された。美濃部はこの年一月二六日枢密顧問官に就任したのだが、敗戦直後は明治憲法のもとでも憲法附属法などの改正や運用により、憲法の民主主義化は充分に可能であるとの論説を発表していた。かつて厳しく批判していた枢密院についても、元はといえば、イギリスの制度を模範としたものであり、「イギリス式の民主主義は、我が現在の憲法の下においても、これを実現することが決して不可能ではない」(『朝日』45・10・20)と論じていた。敗戦直後の時点では、明治憲法改正の必要性を美濃部は認めてはいなかったのである。
 美濃部が提起したのは、次の三つの問題である。まず、明治憲法第七三条の憲法改正条項はポツダム直言の受諾によって無効となったこと、二つめに、憲法草案が廃止とする枢密院にその草案が諮詢されるのは不可解であること。そして最後に次のように問いかけた。
「本案前文に『日本国民が制定する』旨明言しあるに拘らず、改正の発案が勅命によりてなされ(……)原案も政府によりて起草せられ、而【しか】も限られたる範囲内においてのみ修正権を有するに過ぎざる議会の協賛を経て、天皇の御裁可により公布せらるべきにおいては、これをもって果して国民の自由なる意思表明によりてなされたりと謂【い】い得べきや、虚為の声明と云わるべきに非ずや」
 美濃部は三つの問題を提起したうえで、政府は本案を撤回し、次の議会で憲法改正の手 続き法を定め、新憲法案を特別議会で最終决定すべしと迫った。美濃部の語気は鋭く、 「会議も一時水を打ったようになった」という。美濃部の考えは、「民主々義的憲法は政府の起草によるよりは、真に国民より選ばれたる委員会によりて自由に討議し起草さるべし」との発言に集約される。美濃部は委員会のなかでこの問題を繰り返し提起したが、支持が得られることはなかった。
 こうして枢密院で憲法草案の審議が進んでいくが、幣原〔喜重郎〕内閣が退陣し、吉田茂内閣成立後の六月一日、審査委員会は再諮詢された憲法草案を無修正に決した。審査委員会の終結を受け、六月八日、枢密院本会議が開催された。潮恵之輔〈ウシオ・シゲノスケ〉審査委員長から審査報告が行われた後、質疑に立った林頼三郎〈ハヤシ・ライザブロウ〉顧問官は、この日の本会議は憲法改正という「歴史的、革命的の重大法案」の審議であり、枢密院はじまって以来、最も重要な諮詢案件と意義づけた。そのうえで憲法の条文を完璧にするためにも、審議に充分な時間を与えるよう希望した。林の要望は、憲法審議を性急に進めようとする政府に釘を刺すものであった。これに先立つ審査委員会で吉田〔茂〕首相は、日本としてはなるべく早く主権を回復し、進駐軍に引き揚げてもらいたい。そのためにも憲法改正を速やかに成立させたいと発言していた。
 この日の本会艤では、三笠宮崇仁〈ミカサノミヤ・タカヒト〉親王が意見を述べた。すでに触れたように、敗戦後、枢密院本会議に高松宮〔宣仁親王〕と三笠宮が出席するようになったが、発言は一度もなかった。「まさか発言されまいと誰も思っておった」ところでの発言だった。高松宮は主権在民の憲法草案には反対の考えだったが、意見を述べるのもよくないと判断し、この日欠席した。
 三笠宮は「現在の日本は、厳正な局外中立の立場に立つ以外には、生きる途〈ミチ〉はないと思う」と述べた。そのうえで、日本は満洲事変以来全世界に脅威を与え、不信を買ってきたが、敗戦を機に平和の方向へと再出発すること、武力の放棄が日本国民の正義感の発達に役立つとし、戦争放棄の条項に賛意を表した。天皇に関しては、今後は政治から離れ、社会事業に向かうことになるだろうと述べ、採決では棄権した。
 二時間におよぶ審議の結果、枢密院本会議は採決となり、一名の反対のみで可決した。反対は美濃部達吉だった。憲法草案は枢密院の可決を受け、「帝国憲法改正案」として衆議院、さらには貴族院に送付され、両院の修正を経て、一〇月一二日再び枢密院に諮詢された。二九日の枢密院本会議は「帝国憲法改正案」を全会一致で可決、一一月三日に日本国憲法として公布された。
 翌四七年四月三〇日、枢密院官制と事務規程を廃止する勅令の審議が最後の枢密院本会議となった。諸橋襄〈モロハシ・ノボル〉枢密院書記官長が五月三日施行される新憲法の趣旨に基づき、枢密院廃止にともなう措置について事務的に報告し、全会一致で議決した。皇室典範の廃止なども含め、この日の枢密院本会議はわずか一〇分で終わった。続いて閉院式が開かれ、六〇年におよぶ枢密院の歴史に幕が下りた。〈三一二~三一六ページ〉

 枢密院が廃止された日付は、一九四七年(昭和二二)五月二日である。最後の枢密院議長は、憲法学者の清水澄(しみず・わたる、一八六八~一九四七)であった。
 清水澄博士は、一九四七年五月三日に遺書を書き、同年九月二五日に、熱海の錦ヶ浦海岸から身を投げた。このことについては、本年八月二三日の当ブログで言及したことがある。

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