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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東宝、籠寅、吉本、宝塚、松竹などの移動劇団

2016-11-25 06:32:35 | コラムと名言

◎東宝、籠寅、吉本、宝塚、松竹などの移動劇団

 政府広報誌(情報局編輯)である『週報』第308号(一九四二年九月二日)から、「戦時下娯楽と移動演劇」(署名なし)という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

移動公演の実際
 かうして準備が整ひますと、いよいよ劇団は移動を開始します。汽車やバスに乗つて旅をする点では、一見いはゆる旅廻りの劇団と違ひはありませんが、旅廻り劇団は金儲けになりさうな場所を自分で選んで移動するのに反して、移動劇団は産業報国会や産業組合などの組織に乗り、その要求に従つて移動します。もとより営利事業ではありませんから移動演劇でも、巡回映写でも、どんな山間僻地【へきち】も厭【いと】ひません。いな、厭はないばかりでなく、そのやうな所にこそ移動文化隊は進んで行くベきであります。
 この頃のやうに輸送が輻湊【ふくそう】し、またバスや車の利用が不便になつては、俳優や映写技師達の苦労は並大抵ではありません。時には重い荷物を負つて、何里も步いて目的地に行かなければならないこともあれば、十何時間も三等車に立ち通しで、着けば直ぐ〈スグ〉舞台に立たなければならぬ場合もあります。
 このやうにして日本移動演劇連盟は、昨年〔一九四一〕から今年〔一九四二〕の五月までに、千七百回の移動公演を行ひ、これをみた観客は実に百四十一万人を超えてをります。尤もこの移動公演の中には、専門の移動演劇隊ばかりでなく、臨時に特別の劇団が入ることもあります。
 例へば市村羽左衛門〈ウザエモン〉一座、市川猿之助一座、井上正夫演劇道場、関西歌舞伎団のやうな天下の名優達が、移動演劇連盟の趣旨に賛同して、自ら進んで奉仕的に移動公演を行つたのであります。最近では新生新派、芸術座、大谷友右衛門〈オオタニ・トモエモン〉一座も参加し、非常な好評と好結果とをもたらしました。このやうな大家が自ら進んでこの運動に参加されることが、どれだけ地方の観客を喜ばせ、また若き移動演劇隊尚を励ますことになるかは、想像に余りあることであります。
 さて目的地に着くと、いよいよ公演でありますが、移動文化、特に移動演劇の公演ほど、凡ゆる〈アラユル〉集会のうちで特色があり、また楽しいものはないと思はれます。先づ俳優達は、土地の青少年団の人々に手伝つてもらつて、舞台を作ります。そこには団長もなければ、幹部俳優、下級俳優の別もありません。手の空いてゐるものすべての協同作業であります。舞台に出てゐたものが、忽ち、効果係に早替りして、雨の音を出したり、犬の鳴声〈ナキゴエ〉をたてたりします。といふのは、専門の移動劇団は経費を安くするために、最小限度の人数を以て構成されてゐるからであります。ですから舞台は文字通り戦場といつても過言ではありません。
 また観客席はといひますと、娯楽に恵まれない地方のこととて、その土地の殆んど全部の住民がまるで重なり合つて坐つてをります。そしてこれ等の人々は都会の観客と違つて、すべてが親しい人達で、今朝誰の家で犬の子が生れたといふやうな、些細なことも知り合つてゐるやうな間柄でありますから、観客席には大都会では見られない和やかな雰囲気がたゞよつてをります。まるでお祭のやうな空気であります。協楽【わらく】と申しますが、移動演劇を機会として村全体の、職場全体の協楽が実現されるのであります。
 さて芝居は劇団員、観客一同起立のもとにとり行はれる厳粛な国民儀礼の後に始まります。
 地方の観客は、都会の人と違つて、平素かうした娯楽とは縁遠い人々でありますから、その観劇の態度も非常に熱心、真面目であります。素朴ではありますが、またそれだけに純真でもあります。従つてこれ等の人々には、移動演劇の使命の下にほんたうに国家に対する御奉公のためにやつてゐる俳優達の真心は直ぐに移ります。人場料もとらない位の劇団でありますから、さぞかしひどい旅廻り劇団であらうと、初めは多少軽蔑の念を以て観に〈ミニ〉来た観客も、芝居の進行するにつれて、正直に自分の誤りを認めて、芝居の終つた後、わざわざお礼を言ひ、移動演劇こそほ我々の芝居である、大いにやつて呉れなどと激励して帰ると聞いてをります。
 日本移動演劇連盟は創立してから未だ一ケ年〈イッカネン〉しかたつてをりませんから、地方の人々が連盟のことについて無知であるのはやむを得ないことで、劇団員の話によりますと、芝居の始まるまでは、旅廻り劇団並【なみ】の相当ひどい待遇をされる場合がかなり多いさうですが、芝居が始まると世話人の態度も一度に変り、そして翌日つぎの移動地に向けて出発する途中、路〈ミチ〉で行き逢う村民達から「昨晩は御苦労様でした」と挨拶されたりすると、移動の苦労など一度に消しとんで、これこそ自己の天職であるとの感をますます深くするとのことであります。或る東北の工場では、初めのひどい待遇に引かへ、帰る時には工場全員が仕事を止めて、道の両側に並んで見送りをしたといふやうな、嘘のやうなほんたうの話さへもあつたさうであります。

共楽の精神
 だいぶ横道に逸【そ】れましたが、とにかく移動演劇の公演では、舞台と観客とが、都会の劇場では殆んど見受けられない程に、しつくりと融合して、靄々【あいあい】たる和気が場内に溢れる。そこには、文字通り舞台もなければ、観客席もない、渾然たる雰囲気だ醸し出されるのであります。これでこそほんたうの演劇であると思ひます。とりすました客席や御義理でやる舞台、こんなことでは演劇の効果は絶対に上るものではありません。産業報国会の支部長は、その土地の警察署長ですが、芝居が終つて後片付けの時、署長自ら箒【はうき】をとつて客席を掃くなどといふ微笑ましい〈ホホエマシイ〉光景は、他の如何なる芝居にもみられない風景でありますが、これといふのも、移動演劇が行く先々にほんたうに朗らかな協楽の精神を植ゑ付けることに相当成功してゐるからであると思ひます。
 まことに移動文化こそは、国民文化建設の第一線を承はる非常に大切な分野であると断言できると信じます。政府も、国民も、業界も、劇団も、観客も、喜びと潤【うるほ】ひに充ちたものにするために、そして如何なる長期戦も戦ひ抜く国民力を培【つちか】ふために、相携へて、かうした移動文化を盛り育てゝ行かうではありませんか。

「移動公演の実際」の節の途中、二九ページに、「日本移動演劇連盟活動組織図」というものが掲げられている。
 中央に、「日本移動演劇連盟事務局」とあって、その右に「情報局」、左に「大政翼賛会」が配置されている。日本移動演劇連盟事務局の上には、五つの組織の名前がある。右から順に、「陸海軍省」、「厚生省軍事保護院(軍人援護会)」、「大日本産業報国会中央本部」、「大日本青少年団」、「産業組合中央会」である。
 日本移動演劇連盟事務局の下には、計十三の移動劇団の名前がある。これは、左から順に、次の通り。

・東宝移動文化隊
・籠寅移動演劇隊
・籠寅移動演芸隊
・新興移動演劇隊
・吉本移動演劇隊
・宝塚移動歌劇団
・吉本関西移動劇団
・移動演劇「くろがね」隊
・松竹国民移動劇団・第一班
・松竹国民移動劇団・第二班
・松竹関西移動劇団
・臨時参加劇団移動隊
・移動演劇瑞穂劇団

 この文章を読んで感じた素朴な疑問だが、当時、いわゆる「旅まわり」の大衆演劇の一座は、当局によって、どのように処遇されていたのだろうか。あるいは、そうした一座は、当時の事態に、みずから、どのように対応をしていたのだろうか。

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