礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

あれでよかったのです(渡辺和子、1997)

2017-02-15 02:06:52 | コラムと名言

◎あれでよかったのです(渡辺和子、1997)

 昨日の続きである。
 二〇一二年八月一一日のブログで私は、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」というコラムを書いた。また、昨年(二〇一六)の二月二六日には、これを改訂したコラム「護衛憲兵はなぜ教育総監を守らなかったのか(改)」を書いた。
 しかし、今年に入って、社会運動史研究会編『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』(同時代社、二〇一三年七月五日)を読んだ結果、その改訂版を、さらに補訂する必要を感じた。
 説明上、まず、「護衛憲兵はなぜ教育総監を守らなかったのか(改)」の一部を引用する。

◎護衛憲兵はなぜ教育総監を守らなかったのか(改)〔2016・2・26〕
【前略】 
 二〇一二年八月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』本年九月号に、渡辺和子さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記が載った。新聞広告でこれを知り、久しぶりに同誌を購入した。渡辺和子さんは、この事件で射殺された渡辺錠太郎〈ジョウタロウ〉教育総監(陸軍大将)の次女にあたる。事件当時、九歳だった彼女は、至近距離から父・渡辺錠太郎の死を見届けたという。
 その手記の一部を引用させていただこう。
《一九三二年には五・一五事件がありました。その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭〈コウテツ〉され、父が後任になりました。翌月には永田〔鉄山〕少将が暗殺される事件も起きました。そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。
 私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとのは何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。
 また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。》
 この早朝の電話は、牛込憲兵分隊の「当直下士官」からのもので、その内容は、「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた。鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の蹶起だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」というものだったという(大谷敬二郎『昭和憲兵史』)。
 しかし、電話を受けた佐川憲兵伍長は、この内容を渡辺錠太郎教育総監に伝えなかったばかりか、襲撃部隊が到着するまで、一時間近く、二階で慢然と待期していた。このことから、この「当直下士官」の電話は、公的なものでなく私的なもので、その内容は、「これから、そちらに襲撃部隊が向かうと思うが、このことは渡辺総監には伝えるな。また、襲撃部隊に対して、最後まで抵抗すると、命を落とすことになるので、それは避けよ」といったものだったと推測される。
 さて、この手記を読んで、あるいは、関係の文献を読んで、今なお、いくつかの疑問が去らない。箇条で挙げよう。
1 渡辺和子さんは、『文藝春秋』二〇一二年九月号の手記で、常駐していた護衛憲兵が教育総監を守らなかった事実を、初めて、明らかにされたのか、それとも以前にも、何らかの形で、それを明らかにされていたのだろうか。【以下略】

 上記の改訂版のうち、さらに補訂する必要を感じたというのは、引用した部分の最後にある疑問その「1」である。この疑問は、『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』の二四一ページを読んだことで解消した。
 結論から言えば、渡辺和子さんは、常駐していた護衛憲兵が教育総監を守らなかった事実を、『文藝春秋』二〇一二年九月号の手記で、「初めて」明らかにされたのだろうと判断できる。
 ともかく、同書の同ページから引用してみよう。

〔注2〕筆者大谷氏によれば、牛込憲兵分隊から六時十分前頃、渡辺邸の当直憲兵佐川伍長宛に、「十分警成するように」との電話があり、すず子夫人が取り次がれたことになっているが、渡辺大将の次女、渡辺和子先生は、「電話はかかっておりません。当日朝、電話を使った母は『久保に急を知らせるための一回だけ』と明言していましたし、また私もそれを目撃しています」
と証言していらっしやる。和子先生はまた、
「なぜ、憲兵隊から連絡がなかったのでしょう。時間は充分あった害なのに」と不思議がっていらっしやる。
もし憲兵隊から連絡があったとすれば、渡辺大将は難を避けることが可能であった答である。すぐ近くには久保さん宅があるのだから。
然し和子先生は、「あれでよかったのです。若し避難していれば、卑怯と言われたことでしょうし、生きていれば敗戦の際、戦犯として米軍に裁かれ、屈辱を受けた答ですから」
とも仰せになったが、私は真実悲しい気持ちで、先生のこのお言葉を伺った。
 以上は、一九九七年四月七日に先生が、拙宅でお話しになったことである。
 電話の件は、大谷氏の思い違いだろうか。或いは憲兵としての立場が、あのように書かせたのだろうか。

 この〔注〕は、『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』の第二部「安田優 資料」を構成する資料のひとつである「血ぬられた重臣邸、他」に対して、安田善三郎さんが付された注である。「血ぬられた重臣邸、他」は、大谷敬二郎著『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)の一部である。したがって、著者大谷氏とあるのは、大谷敬二郎のことである(当時、東京憲兵隊赤坂憲兵分隊長)。
 また「久保さん宅」というのは、渡辺錠太郎の長女(渡辺和子さんの姉)の嫁ぎ先の久保家のことである。
 安田善三郎さんは、渡辺和子さんのことを、ここで「先生」と呼んでいる。これは、一九八六年に賢崇寺でおこなわれた法要の際の渡辺和子さんの態度に打たれ(昨日のコラム参照)、以後、「生涯唯一の師」と仰ぐようになられたからである。
 さて、安田善三郎さんが記されているように、渡辺和子さんは、一九九七年四月の時点では、事件の日の早朝、護衛憲兵を呼び出す電話があった事実を明らかにしていない。それを初めて明らかにしたのは、『文藝春秋』二〇一二年九月号に載せた手記だったのだろう。もちろん、断定はできないが。

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