礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

左翼弾圧と『鞍馬天狗』

2016-01-06 05:42:05 | コラムと名言

◎左翼弾圧と『鞍馬天狗』

 昨日の続きである。加太こうじ『国定忠治・猿飛佐助・鞍馬天狗』(三一新書、一九六四)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
 昨日、引用した部分のあと、少し飛ばして、「Ⅴ 知的で清潔なアウトサイダー」の「2 <暗い谷間>の英雄――正体不明の意義――」の最初のほう紹介してみたい(一八四~一八九ページ)。

2 <暗い谷間>の英雄――正体不明の意義――
大佛次郎という人 大佛次郎は本名野尻清彦、郵船会社員の子として明治三十年(一八九七年)横浜に生まれた。一家が東京へ転住したため横浜市太田小学校から小学一年在学中に東京牛込・筑土〔津久土〕小学校に転校し、のち芝白金三光町に移り、そこの〔白金〕小学校を卒業、府立一中という当時では一番の優秀校へはいり、一中から第一高等学校仏文科をへて、東京帝国大学(東大)政治学科を卒業した。在学中教室に出たことは一ヵ月ほどで、あとは漫然と芸術に親しんで新劇運動などもしたというのが、鞍馬天狗を書くまでの略歴である。鞍馬天狗を書いたのは二十七歳のときだから、チャンバラ時代劇を書くよりも、大佛は気分的にはるかにゾラ、モーパッサン、あるいはフローベルやユーゴーなどに近かったと考えられる。大仏の時代物の諸作にはそういうフランス文学の持つ味と、デューマやルブランに見られる(三銃士やルパンのような)冒険と痛快さがある。大佛は、はじめは収人を目的として、乞われるままに『鞍馬天狗』を書いた。講談調の時代物が流行していたので講談調に近い文体で『鬼面の老女』などを書いた。だが、文学として遇せられるにおよんで、より格調の高い文体によって『鞍馬天狗』を書く。そういう点は、芸術を目指して私小説などを書き、収入のために転じて大衆的な小説を書いた者と婆勢がちがっていた。それゆえに、大佛は、どのような活劇やチャンバラを書こうと、昭和二年〔一九二七〕『赤穂浪士』を発表してのちは、大衆的な興味と、深い感動をともなう芸術性をその作品中に統一しようと努力するのを忘れていない。『鞍馬天狗』は大佛のそういう態度が、より大衆的なかたちであらわれた作品であり、『ドレフュス事件』〔一九三〇〕はより知識層向きにあらわれた作品である。
『鞍馬天狗』と左翼の弾圧 『鞍馬天狗』が昭和という時代、特に暗い左翼弾圧と世界的な不景気の昭和初期から、太乎洋戦争終結後の、いわゆる戦後感を反映した作品であることは、『鞍馬天狗』を年代順に一読すれぱすぐに理解できる。それゆえに、鞍馬天狗という人物が浪人であり、どこに住んでいるのか、維新後どこに消え去ったのか――大佛は天狗の本名を倉田典膳〈テンゼン〉と書いたり、寝泊りしているようすを書いているし、維新直後の天狗も書いているが、それにしてもなお――不明の人物といわざるを得ないのである。国定忠治は大戸〈オオド〉の関所脇で死刑になり、源義経は奥州衣川〈コロモガワ〉で討死〈ウチジニ〉し、猿飛佐功は大阪落城とともに消える、そういう悲しみを愛する鞍馬天狗に背負わせたくないから、作者は天狗をはじめからアウトサイダー的な英雄に仕立てておかなければならなかったのである。大佛次郎が『赤穂浪士』を書き『鞍馬天狗』をさかんに書いた時期における左翼弾圧は、小林多喜二の小説『三・一五』や『党生活者』に見られるが、当時の左翼に対する捕物のようすが、勤王の志士や鞍馬天狗に対する左幕派の侍によって『鞍馬天狗』のなかにえがかれているとも見られる。三・一五事件は昭和三年〔一九二八〕、四・一六は翌四年〔一九二九〕で、それが多くの人に知られるようになったのは裁判終結の昭和七年〔一九三二〕夏における記事解禁以後である。当時の報道から、解禁になった記事中の捕物の部分をご紹介する。
《三月十五日、これが全国一斉に検挙をはじめる日である。十四日夕刻、警官の非常招集がおこなわれた。あらかじめ調べた共産党員の周囲には前夜から網が張られてねずみ一匹逃がさないような厳重な手配ぶり……(略)ところが巨頭連は、当局の異状な警戒を感づいたのか、福本〔和夫〕、中尾〔勝男〕、三田村〔四郎〕、鍋山〔貞親〕、中村〔義明〕などの幹部たちは、みな姿を消したあとであった。当日、全国の大検拳にひっかかった数は約四千人、警官隊におそわれたところは労働農民党本部、無産者新聞社、日本労働組合評議会、マルクス書房、産業労働調査所、希望閣などであった。労農党、全日本無産青年同盟、労働組会評議会は治安警察法第八条によって解散を命ぜられた。
 三・一五以後、難波英夫、佐野学は変装してソ連へ逃げた。市川正一、山本懸蔵も国外へ脱出した。以来、渡辺政之輔、鍋山貞親、国領伍一郎、相馬一郎、三田村四郎などを中心に共産党は再建される。その中でも数かずの捕物がおこなわれた。たとえば、市川帰国の報をきいた当局は、そのかくれがと見られる東京・神田佐久間町金網業、島田方をおそい、奥の六畳間で布団をかむって寝ていた人の掛け布団をいきなりひっぱがして「御用だ」というが、それは島田の妻某女だった。市川は大森のかくれがにいたのである。のちに市川は大森で捕われた。党の中堅伊藤保と真庭末吉は東京の寺院街・谷中初音町〈ヤナカハツネチョウ〉で街頭連絡中を追われ捕物になって力つきて捕えられた。真庭の住居から出た暗号の党員名簿は当局によって解かれ、やがて中央政治部の砂間一良〈スナマ・イチロウ〉が捕えられた。ヒの後、当時、巨頭といわれた三田村四郎が浅草聖天町〈アサクサショウデンチョウ〉のにぎやかな小住宅が櫛比〈シッピ〉している街のかくれがでつかまる。――「ごめんください」高木巡査部長と中平巡査が戸をあけた。三田村の愛人森田京子はなかなか取次がない。二階からごそごそ逃げる用意らしい音がする。高木巡査部長は、バタバタと階段をのぼった。五段目の階段をふんだとき、階上から轟然とピストルの音が起こった。弾丸は高木巡査部長の右のほおに当った。三田村は裏口の物干台から屋根伝いに地上にとびおりた。次いでふたりの男女が警官にピストルをつきつけながら逃走した。たちまち三田村たちに対する警戒網は全市に張られた。――のちに三田村は帰国した鍋山とともに捕えられた。
 渡辺政之輔は上海へ渡り、日本へ帰ろうとして台湾の基隆【きいるん】の港で、湖北丸という汽船に乗っているところを警察の調べにあってあやしまれた。モータボートヘ乗せられて連行されているうちに渡政〔渡辺政之輔〕は与瀬山という刑事を射殺しそのピストルで自殺した。これは指紋調査でののちに渡政とわかった。(渡政自殺は当局発表、日本共産党は渡政は警察官に射殺された、といっている)
 佐野学は中国の上海で捕えられた。
 そして四・一六の大検挙になる。昭和四年〔一九二九〕四月十六日のこの事件で六百余名がつかまった。
 その後も、東京・赤坂新町カフェ・ボントンの二階で特高課の警部と佐野学が乱闘をしたのち捕えられた。石川島の工場街では月島署の巡査某が殺された。(雑誌『モダン日本』昭和七年〔一九三二〕九月号より。但し抜き書である)》
『モダン日本』という雑誌は、のちに大仏も短編を発表している。この解禁記事は合法出版物なら大差がない。それは当局の指示によって書いた記事が主だからだが、記事中、野坂参三、宮本顕治などは、ほとんど出てこないし、徳田球一、志賀義雄もちいさい。転向組だけが英雄的に大きくあつかわれて書かれているのは記事が当局製だったからだ。
 しかし、乱闘や捕物のようすは、他の映画や小説にもよく似たものが多いが、『鞍馬天狗』のなかにも実に多い。左翼の捕物には覆面の鞍馬天狗が助けにくるという錯覚を起こさせそうな場面がある(いちいち例をひくまでもないからここではあげない)。暗号の党員名簿を当局がおさえて、それを台帳に使って共産党員を捕えるのは、これと同じようなかたちが『角兵衛獅子』その他の鞍馬天狗シリーズに見られるのは偶然だろうが、とにかく、鞍馬天狗シリーズがそういう昭和初年の時代相を多分に反映しているのは否定できない。【以下略】

 いかにも加太こうじらしいというか、加太こうじでなければ、恐らくできない指摘である。明日は、少し話題を変える。

*このブログの人気記事 2016・1・6(2位・9位に珍しいものが入っています)

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