◎ドイツは日本軍の感情を尊重するに努めた
三国同盟の話に戻る。渡辺俊一氏の論文「近衛文麿と国体主義」(二〇一六)が、重光葵(しげみつ・まもる)の『昭和の動乱』を援用しているのを見て、急に『昭和の動乱』が読みたくなった。半世紀近く前から書棚にあるが、通読したことはなかった。
この本は上下二冊に分かれていて、「上」は一九五二年(昭和二七)三月発行、「下」は同年四月発行、中央公論社の刊行である。
上には「三国同盟 その一」、「三国同盟 その二」という章があり、下には「三国同盟 その三」という章がある。
本日は、「三国同盟 その一」の章を読んでみよう。この章は、第四編「日支事変(近衛第一次内閣)」に含まれている(一八六~一九二ページ)。
三国同盟 その一
一
支那事変に関する日独の結合 ドイツによつて、支那問題を解決しようといふ軍部の考へ方は、昭和動乱全局について意義深いものであつた。
日本とナチ=ドイツとは、一九三六年防共協定締結以来、ベルリンにおいて大島〔浩〕=リッペントロップの連絡を通じ、東京においてオット武官の日本軍部との接触によつて、急速に密接の度を加へて行つた。軍部は、英米に対しては理解も少く、また満洲事変以来極度に悪感を有つてをつた。自覚しい新興ナチ=ドイツは、何もかも軍には手本であり協力者であると思はれた。ドイツは、蒋介石に対して有力なる軍事顧問を送つてをり、これを通じて支那側にも圧力を加へ、日支和平を実現する力を有するものと軍部は判断した。
防共協定成立後、欧洲における形勢は急に逼迫して来たので、ドイツとしては、ますます日本との関係を重んじ、両国の接近を計ることに意を注がなければならなかつた。日本を利用するためにも、ドイツは支那問題については、日本側の歓心を迎ふることを得策と認め、ヒットラーは、旧来の分子の反対を押し切つて、このためにあらゆることをなすに、吝か〈ヤブサカ〉ではなかつた。満洲国の承認もやつた。支那における軍事顧問の引揚げも断行した。支那におけるドイツ人の経済活動に関する日本軍の特別取扱ひ(諸外国よりも)は、ドイツ側の強い要求であつたが、これについても、遂にその要求を固執することを止めた。
英米側が、日本の支那における行動に反対を続け、ますます支那援助に進むと反比例して、ドイツは、支那における日本の施策について好意を表し、日本軍の感情を尊重するに努めた。その対照は日本軍部の頭を漸次支配するに至つた。
二
日独と英(米)仏との対立 元来、日本とドイツとの関係は、防共協定締結の経緯によつて明らかなやうに、ソ連を狭む両国の地位から来たものであつて、対ソ問題を外にしては、両国の関係は希薄であつた。然るに、支那においては、政治上の問題でも経済上の発展についても、日独の利害は、寧ろ対立的であると考へられた。従来の考へ方に、大なる変化が起つわ。一方、日本において、支那問題の進行とともに、その解決についてドイツの力に依頼する考へ方が強くなつて行くとともに、他方、欧洲問題が逼迫するに従つて、ドイツにおいては、軍部を通ずる日本との関係にますます重きを置くやうになつた。日本が支那問題にますます深入りし、陸軍は陸上より、海軍は海上より南進を続けて遂に止まるところを知らぬこととなつて、北方ソ連を対象としてゐた従来の陸軍の考へ方は、支那問題を通じて、次第々々に変化し、漸次英米を対象とするやうになつて行つた。ドイツもすでに、対ソ問題の外に、対英(米)仏の問題を、イタリアとともに真剣に考慮せざるを得ぬまでに、欧洲の形勢は切迫しつつあつた。この一般形勢は、コミンテルンの世界政策上最も歓迎したものであつて、共産党の世界的組織は、これに油を注ぐべく最善を尽した。ゾルゲが尾崎〔秀実〕とともに東京において、最も努力した時期もこの時であつて、当時ゾルゲが、ソ連に対する日本の危険は除かれたと、クレムリンに報告したのはこの形勢を観取したからである。支那問題を通ずる日独の接近は、日本が対支戦争に深入りするに従つて、日本の南進政策を决定的ならしむる基礎を作つた。
支那問題は、日本に取つては、結局英米に対する問題であつた。支那において、日独間に従来あつた故障が除かれて、協力の途が開かれたことは、日独をして英(米)仏に対し、共同の動作をとらしめ得る前提となつたわけである。この空気の中で、日本軍部は三国同盟の交渉開始に着手した。その情況は、恰も満洲事変後に日独の間に対ソ軍事協定を実現せんとした情況と相似たものがある。【以下、次回】
重光葵の文章は、冷静で客観的、しかも簡潔で好感が持てる。ここでは、日本の軍部がドイツに接近しようとした背景に、「支那問題」があったことを指摘している。
なお、ドイツの外相の名前「リッペントロップ」は、原文のまま。
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