礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

激しい議論家で相手を説破せねば止まぬ

2019-04-14 00:53:31 | コラムと名言

◎激しい議論家で相手を説破せねば止まぬ

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その四回目で、「五、伊藤公との初対面」を紹介する。

  五、伊藤公との初対面
 その頃大蔵省は伊達〔宗城〕大蔵卿の下に、大隈〔重信〕侯が大輔で、伊藤公が少輔でした。伊達さんは素〈モト〉より看板で、実権は此の二人にありましたが、私が第一に逢つたのは大隈侯でした。これが旧幕府の時代でありますと、新参者が上役に逢ふ時なんてものはそれこそ大変でしたが、さて逢つて見ると案に相違の書生肌で、その間に少しの隔り〈ヘダタリ〉もない。君も僕も勉強中の書生なのだから、堅苦しい事は一切やめて、愉快な書生づき合ひで仕事を遣らうぢやないかと云ふ話なのです。私は驚きもしたし、又非常な愉快を感じたのでした。私は其の時私の考へを遂一述べて、恁う〈コウ〉云ふ次第であるから静岡に帰つて、やりかけた仕事を続けたいと申しますと、大隈侯が仔細に聞き終つて、それは甚だ宜い考への様だが、一を知つて二を知らぬと云ふものだ。君が静岡で会社をやるにした所が、肝腎な政府の財政基礎が纏らなければ根本が出来ぬと云ふものでは無いか、静岡だけでどんなエラい事をやつても、結局それが何れだけの国家を益する事になる。かう云はれましたので、私はお役を頂くのは結構だが、私は何も知りませぬと云ふと、知らぬのはお互だ、私だつて実は何も知らぬ、知らぬから皆なで勉強して、何も彼も新しく作り直さうと云ふのでは無いか、同僚には伊藤と云ふ男も居るから、逢つて置いた方が宜い、此の男は却々理窟も言ふし学問もあるから、何でもお互に胸襟を開いて相談するが宜い、何事も旧幕式では不可ん〈イカン〉と云ふ調子で、旧幕時代の有様とはまるで違ふのに驚きました。其の時私は懐中にお断りの書面を持つて居たので、それを出すと侯は頭から受付けないで、まあ吾々の仲間になつて、見極めのつくまで遣れと云ふので、私も其の時は多少不満でしたが、一面には非常に愉快にも感じましたので、其の侭役人になつて了つた様な次第であります。
 さて其の翌日か翌々日かに伊藤公に逢ひました、これが実に伊藤公と私との四十年に亘つた御交誼の最初だつたのであります。どうも激しい議論家で、どこまでも論じて、相手を説破せねば止まぬと云ふ風の人でありました。無論一見旧知の如く、凡てが書生づき合ひで、旧幕時代のやうな上下の懸隔は露〈ツユ〉程もありません。こゝに至つて私の辞退の念もほんとうに動き出して、かう云ふ具合ならば、何か私にも出来ると云ふ決心がつきました。それで一生懸命に政府と云ふ大本の財政基礎を築かねばならぬと決心した訳であります。
 それからは寄ると触ると大議論で、随分激しかつた事もありましたが、段々相談の結果、大蔵省と云ふ名前は、大宝令のその侭で面白くないが、そんな事はどうでも宜い、当時の大蔵省としては第一の職務が政府の収入たる租税の事ばかりで、他には何もない。これではならぬ、大蔵省の本務は未だ沢山ある筈だから、それから定めて行く必要がある。私はかう感じたので、此の意見を大隈、伊藤の両君に持出しました。それは尤もだと云ふので早速省内に改正掛を置く事になり、巴里から帰つたばかりの新参者の私に其の掛長を仰付けられました。さあ何をして宜いか薩張り〈サッパリ〉解らぬ、何も彼も漠然たるものばかりで手のつけ様がない。それで伊藤公が、こんな具合では真の会計事務はとても出来ぬ。いつまで議論をしても、結局空論に終るだけの事であるから、これは誰かを外国に派遣して、彼地の実際の情況を視察し、制度を研究して来る外無い。欧羅巴には銀行と云ふ便利なものがあるさうだが、それが日本に採用出来るかどうか、太政官制で、兌換〈ダカン〉制度をせねばならぬが、一体その制度はどう云ふ具合に立てたものであるか、誰れ一人として解つて居る者がない、これは誰かを派遣して充分に取調べて貰ふの外はないと云ふ事になりました。

*このブログの人気記事 2019・4・14(なぜか家永三郎の宗教論が1位)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 無下に断ってつまらぬ誤解を... | トップ | 井上馨「山県はあゝ云ふ一徹... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事