礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木内曽益「二・二六事件の思い出」(1952)

2024-02-25 00:03:33 | コラムと名言

◎木内曽益「二・二六事件の思い出」(1952)

 今月の20日から23日にかけて、木内曽益(つねのり)の「二・二六事件秘録」という文章を紹介した。
 木内には、これとは別に、「二・二六事件の思い出」という文章がある。こちらは、『日刊警察』の1952年2月26日号、および27日号に掲載されたもので、のち、木内曽益著『検察官生活の回顧(再改訂版)』(私家版、1968年11月)に収録された。これを前後二回に分けて紹介してみたい。引用は、『検察官生活の回顧(再改訂版)』より。

 二・二六事件の思い出 ――あれから十六年――     木 内 曽 益

 早いものだ。あれからもう十六年になる。二・二六事件の前哨戦ともいうべき血盟団、五・一五事件に私が当時東京地検〔ママ〕の検事としてその捜査を担当した関係から二・二六事件でも、私が民間側の主任検事として軍側の捜査に協力することになつた。これは私の過去をかえりみて最も思い出の深いものの一つである。
 思い起すと、昭和十一年〔1936〕二月二十六日の早朝、まだ私が床の中におつたとき、枕元においてあつた警察電話のベルがけたたましくなる。私は不吉な予感を抱きながら急いで受話器を取ると、当時の警視庁特高課長の毛利基〈モウリ・モトイ〉氏からの電話で「今暁叛乱軍が首相官邸等を襲撃した。然し、まだ詳しいことは判らぬが、一応報告する」というのであつた。私は床から飛び起き、身仕度をして当時の住居であつた池袋四丁目の自宅を出て、いつもの通り池袋駅から省線に乗り市ケ谷駅下車、当時市ケ谷新橋間を通つておつた黄バスに乗つた。すると、乗客の中で、「今朝何か起つたらしい」というようなことをいつておる人があるので、私は、これは叛乱事件の事をいつておるのだなあと思つた。
 このバスは、普通は市ケ谷から麹町四丁目に出て平河町〈ヒラカワチョウ〉から左に曲り国会議事堂の横から裁判所のところを通つて新橋に行くのだが、今朝はバスが動き出すと車掌は「今日は何か事故があつたようで、平河町を右に曲つて山王下〈サンノウシタ〉から新橋に行くことになりましたから」といつていた。私はこれは叛乱事件のため首相官邸から国会議事堂附近は通行止めになつておるのだと思つたので、麹町四丁目でバスから降りて、通りがかりの円タクを拾つた。
 半蔵門のところまで来ると、両側から銃剣の兵隊さん達か私の車を取り巻き、「これからさきに行くことが出来ないから戻つてくれ」という。私はまだそのときは、実はこの兵隊さん達が叛乱部隊の人達とは思わなかつたのであつて、首相官邸等を襲撃した連中は五・一五事件のときのように、とつくに引き上げてその後を警備しておる正規の兵隊さん達だとばかり思い込んでいたのである。それで私はこの人達に名刺を出して「この事件のためにこれから検事局に登庁するのだから通してもらいたい」と頼んだが、中々承知しない。二、三押問答をしておるうちに一人の下士官が「何だ何だ」といいながら出てきた。私が前に血盟団事件や五・一五事件の主任検事であつた関係で陸海軍部内にも私の名前が多少知られておつたためか、その下士官も私の名前を知つておつたらしく「木内検事殿ですか、それなら通つてもよろしい。しかし、車のままでは困るからこれから先は歩いて行つてもらいたい」というので、私は車をすてて三宅坂に向つて歩いていつた。
 三宅坂のところまで来ると、また銃剣の一隊にとりまかれ、これから先は通せないから戻れといつてききいれてくれない。それで私は半蔵門のところで通してくれた事情を話して「もう桜田門も目の前だから通してもらいたい」といつて頼むと、やつと承知してくれたのでどうやら無事に検事局に着くことができたのである。
 三宅坂のところでは、参謀肩章をつけた陸軍の将校連も大勢銃剣の一隊に阻止されていた。
 先程も述べたように、このとき私は銃剣の一隊は、首相官邸等を襲撃した部隊の引き上げたあとを警備している兵隊さん達とばかり思い込んでおつたのだが、検事局に着いてから警視庁と連絡し色々と報告を聞いて見ると、これらの兵隊さん達は叛乱部隊だということがわかり、俺も知らぬが仏で力んできたが、下手すると突き殺されたかも知れなかつたと思い冷汗三斗〈レイカンサント〉の思いをした。(警視庁は叛乱部隊に占拠されて、幹部は神田錦町警察署に移つていた)
 これから私は二・二六事件の民間側の主任検事として、この事件の捜査に当つたのは勿論、戒厳令が布かれてからは検事局側の代表として、戒厳司令部参議員に任命されて参議員会議に列席し、又軍官捜査連絡会議にも検事局側代表委員としてこれに参加することになつた。警視庁側の委員は当時の特高部長の安倍源基〈アベ・ゲンキ〉氏(後の鈴木終戦内閣の内務大臣)特高課長の毛利基氏(後の埼玉県警察部長)であつて、憲兵隊側委員は東京憲兵隊長坂本俊篤〈トシアツ〉氏(後の報知新聞社常務取締役)、大谷敬二郎〈オオタニ・ケイジロウ〉氏(終戦当時の東部憲兵隊司令官)、軍法会議側委員は第一師団法務部長島田朋三郎〈トモサブロウ〉氏(終戦当時東部軍法法務部長法務中将、終戦直後自決)であつた。
 また陸軍省関係の委員中にはその後太平洋戦争当事の首脳幹部となつた人が多く、当時陸軍省軍事課々員有末精三〈アリスエ・セイゾウ〉少佐(後の参謀本部第二部長・中将、終戦直後進駐軍連絡委員長となりマ元帥を厚木飛行場に迎えた人)同課員真田穣一郎〈サナダ・ジョウイチロウ〉少佐(後の参謀本部作戦部長、次いで軍務局長・少将)兵務課長田中新一中佐(太平洋戦争開戦当時の参謀本部作戦部長、次で南方方面兵団師団長・中将)軍事課高級課員武藤章中佐(開戦当時の軍務局長、次いで山下兵団参謀長・中将、東京裁判で絞首刑となる)等そうそうたる人々がおつた。【以下、次回】

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