◎萩原朔太郎のエッセイ「作文の話」(1938)
二〇一二年一一月一五日のブログで、“萩原朔太郎のエッセイ「能の上演禁止について」(1940)”というコラムを書いた。
そのとき、同エッセイの前半部分を引用したあと、それに私は、次のようなコメントを付した。
不勉強にして、これまで萩原朔太郎の文章というものを、ほとんど読んだことがなかったが、この文章を読んで感心した。文章の趣旨に賛同したというわけではないが、巧みな論理の運び方には感服したし、能楽に対する素養を踏まえた説得力も意外だった。しかも萩原は、検閲というものを意識し、忌諱に触れることのないよう、慎重に言葉を選んでいる。このあたりの細かな神経にも感心させられたのである。
こう書いた後、しばらく、萩原朔太郎の文章に接する機会がなかったが、最近になって、「作文の話」というエッセイを読んだ。これが、実におもしろかった。あらためて萩原朔太郎の文章力に感心させられるとともに、「作文」の秘訣を伝授されたような気になった。
以下に、その全文を紹介してみる。引用は、『日本への回帰』〔萩原朔太郎全集 10〕(小学館、一九四四)から。
作文の話
学校の時、僕は作文の時間が大嫌ひであり、同時にまた大好きであつた。嫌ひといふわけは、受持ちの教師によつて、僕に全く興味のない課題を、出すからだつた。例へば「机」といふやうな題を出して、所感を述べろと言ふのである。但しその前に、教師が一通り説明する。即ち、机が如何なる材料によつて造られてるか。使用の目的は何か。種類はいくつあるか。形はどうであるか。脚は何本あるか。等々の説明である。こいつが、僕には苦手であつて、どうも教師の言ふ通りにうまく書けない。仕方がないので、結局「机ハ木ニテ造リ、勉強ノ道具ナリ」と一行に書いて出し、丙を頂戴することになる。もつと困るのは、日常書簡文の練習である。例へば「花見に友を誘ふ文」といふやうな題が出される。僕にはそんな友人が無い上に、てんで花見に行かうなんて気がないので、いくら頭をひねつて考へても、何にも書くことの材料がない。そこで結局「花見ノ頃トナリマシタ。明日午後、上野ヘ御一所ニ行キマセウ。サヨナラ。」と、簡単明瞭に書いて出し、教師から駄目を押されて叱責される。そこへ行くと優等生の模範作文はうまいもので、先づ陽春の気候を叙し、桜花の美を讃へ、遊山の興を述べ、友の近況を問ひ、最後に眼目の用件を述べるのである。もつともこれは、初めに先生が一通り概説してくれるのだから、生徒の独創で書いたのではなく、文字通り「文を作つた」文章なのだが、それが即ち「作文」としての上乗なのだ。一体、学校の優等生といふ連中は、他のすべての学科を通じて、かうした「要領」を掴むことの名人だ。あへて劣等生であつた僕が、負惜しみで言ふわけではない。
しかしまた教師によつては、時に自由課題等によつて、生徒の所感を勝手に書かせる場合もある。かういふ時には得意のもので、滔々数千言、教師を驚かせるやうな長文を書き、ウルトラ甲上三重丸を頂戴した。そこで僕の作文点は、甲上と丙下の両極端で、中間の乙といふ点が無いのであつた。しかし近頃文筆稼業を始めてから、次第にこの両極の対比がなく、中庸の乙ばかり増えるやうになつて来た。それは色々な雑誌社やジヤーナリストから、学校式の課題作文を課せられるので、否でも練習をせねばならず、原稿紙を埋めることの作文術が、上達して来た為なのである。
このジヤーナリストの注文には、しかし最初の中は全く困つた。先方の出す注文課題が、うまくこつちの興味と一致し、自分の書きたいことに触れてる場合は好いのであるが、先づそんなことは偶然であり、たいていはちぐはぐに食ひちがつてる。僕は文筆稼業を始めてから、久しく忘れて居た小学校時代の古い記憶、鉛筆の心〈シン〉を甞めながら、一時間も頭をひねつて苦しみぬき、最後に白紙を出した苦い記憶を思ひ出した。そんな思ひをする位なら、初めから注文を謝拒して、こつちが何時でも好きな時に、興に乗つて書いた作品だけを、逆に自分から持ち込んで行く方が好いのであるが、僕の過去の経験からして、この手が全く通用しないことを知つたので、近頃はすつかりあきらめてるのである。
だが習ふより慣れろである。次第にその無理をしてゐる中に、だんだん課題作文がうまくなつた。つまり注文して来る課題の中に、何かしら自分の興味の種を見附けて、無理にこじつけてしまふのである。こいつは一つの練習だが、つまりは平常の心がけで、だれにも出来る芸当である。これが熟練してくると、どんな雑誌社の注文にも恐れなくなる。さあ矢でも鉄砲でも持つて来い、と言ふ気になる。しかし種のない手品はできない。こつちに満更ら〈マンザラ〉主観的関心のない問題や、ジヤンルのちがつた別世界の作品など課題されると、こいつは文句なしに断る外はないのである。しかしジヤーナリストの方でも、たいていの見当は附けてるから、そんな意外な注文は滅多に来ない。不思議なことは、〆切間際まで何うでも書けず悩んでる原稿が、最後の速達催促を受けた日には苦し紛れに出来てしまふから妙である。精神一到、豈に〈アニ〉何事か成らざらんやといふ真理は、この原稿稼ぎを経験した人にはよく解る。
つい最近まで、僕の所へいちばん多く来た注文は、詩を別として、所謂「季節もの」の随筆である。ジヤーナリストの常識では、この種の随筆は詩人の畠にきめてるらしい。つまり詩人といふ人間は四季の変遷、花鳥風月の美を吟懐するものと極めて居るのだ。所があいにく、僕にはそんな風流心が微塵もないので、この種の課題作文がいちばん困る。いつも引き受けてしまつた後で、散々な苦しみをし、ロクな金にもならない仕事で、間尺〈マシャク〉に合はない馬鹿々々しさを後悔して居る。そこで最近ふと思ひ附き、俳句の歳事記を買つて置くことにした。すると例へば、初秋の随筆を頼まれた時、歳事記の頁をめくつて、天文、地理、人事、草木、魚介等の各項から、種々のトピツクを選出し、そこから思想の糸口が手繰り出せる。これはまことに便利である。だが本来言へば、この種の随筆の注文は、専門の風流人たる俳人や歌人に持つて行くべきで、僕等の新派詩人の所へ来るのは無理である。僕等はゲーテやボードレエルと同じく、宗教や恋愛に関するヒユーマニズムの問題なら、いくらでも悦んで議論するが、雪月花の風流には少しく無関心の徒輩であるから。
要するに文筆稼業といふものは、或る意味に於て文字通りの作文(文を作るの技術)である。考へて見れば馬鹿々々しい。しかし、その作文の課題を通じて、自由に自分の主観を述ベ、勝手放題の事を書き、逆にそのジヤーナリズムを、自家の文学に利用するやうにさへなれば、これほどまた愉快な仕事はない。そしてまた実際に、多くの文士はそれをやつて居るのである。
以上のエッセイ「作文の話」は、『日本への回帰』(白水社、一九三八年三月)に収録されたものが初出だという。
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