◎老僧の背後に瞋恚の形相の年増女が
『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)に掲載されていた「心霊座談会」の記録を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した二節のあと、次のように続いている。
写真に写つた亡霊
藤村 亡霊が写真にうつるのは、さう珍らしいことでばないやうですね。永年、写真屋をしてる連中は、よく言ひますが、時々、写した人の肩や、横の方に、人間の顔や、動物の姿が現はれてゐることがある。そんな時は、修正するか、写し直してやるんだ――と言つてましたが……。
道島 写真を見て、その人の運勢を占ふといふのがありますね。
岡沢 占ふんぢやアないんでせう? 例の水沼(仮名)あれぢやアないんですか?
道島 さうです。
岡沢 あれはね、憑き物をさがすんですよ。たとへば、女に恨みをうけてゐるとする。その女の生死にかゝはらず、恨みなりなんなり思ひがかゝつ居れば、必ず写真に写つてゐるといふんですよ。玄人の写したものでは、修正してあるからいけない。素人の写したものに限るといふんで、それに現在の住居の、成可く〈ナルベク〉四六時中ゐる部屋、たとへば居間のやうな処を写した写真をならべて鑑定すると、百発百中だといふんですが……。
羽田 あたりますか?
岡沢 責任をもつて言へないが、まア相当なもんです。やはりこれで、素人で相当なのがゐるさうですよ。下谷〈シタヤ〉あたりに住んでるんださうですが……。
藤村 写真に写つた幽霊ですがね、大正十年〔一九二一〕の春のことです。奈良県高安〈タカヤス〉の天理教支部の学校に、山本寛三郎といふ生徒がゐたが、卒業間際に心臓まひで死んだんです。すると、それから半月程して、卒業紀念の写真撮影があつた。その時、山本と仲のよかつた一人が
「山本がゐたらなア」
と呟いたさうですが、撮影を終へて数日後に、写真屋が蒼くなつてとんで来た。
「この方、山本さんでせう? 私、前に一度写真をうつして知つてますが、たしかに死んだ筈ですが……」.
と示された写真には、写真屋のいふ通り、山本が教服姿で後列にひかえてゐたといふんです。
岡沢 ぢやア僕も一つ。話は古いですよ、明治六年〔一九七三〕の十一月です。横浜のある写真屋に老僧が来て撮影を依頼した。写真屋が、ピントガラスをのぞいて見ると、肉眼では老僧一人より見えないのに、ガラスには老僧の背後に瞋恚〈シンイ〉の形相すさまじい年増女が現はれてゐるので、大いにおどろいて所轄署に駆けつけ警官立会の上で写真を撮影し、その珍写真をその筋に提出した。この記録は、戦災後どうなつたか知らないが、写真とともに僕も見ました。まことに珍らしいものです。
畠山 その因縁話といふやうなものは伝はつてゐないのですか。
岡沢 あるんです。老僧は、神奈川県相模郡程ケ谷の浄土寺天徹寺の住職試補で、小山天領(50)といふんですが、写真の女は同人の先妻です。一子を残して病死したんですが、その死ぬ前に、
「子供までゐるのですから、私が死んでも独りで暮して下さい。それが気がかりで死ぬにも死ねない」
と言つたのです。すると天領坊さん、どうせ死ぬんだから、安心させてやれと思つたのでせう。
「よしよし、後添ひはきつと貰はない。お前を思って泣いて暮すよ」
と約束手形をふり出した。ところがどつこい、さうはゆかない。死んで一年もたゝない中に、遺言にそむいて後妻を迎へてしまつたから、しつとのあまり亡霊となつてつきまとつてゐたわけです。 (新井五郎画)
座談会の記録はここまでである。ながながと紹介したが、出てくる事例が、あまりにも古い。戦中や敗戦後の事例を期待したブログ読者がいたとすれば、まことに申し訳ないことであった。ことによると、同誌の他の号には、そうした事例も紹介されているのかもしれない。
明日は、『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)について、若干の補足をおこなう。