◎「大機小機」と日本社会全体を分析する視点
今月一一日(木)の日本経済新聞「大機小機」欄のコラム「思考停止が悪を生む」は、久しぶりに、読み応えを感じる記事であった。
筆者(小五郎)は、東芝の不適切な会計問題などの組織不正は、「精神論」によっては防げないと断言した上で、次のように言う。
不正には「個人的違反」と組織のために複数が関与する「組織的違反」とがある。両者は発生要因が異なり対処方法も変わる。個人的違反は、手続きやルールの徹底といった「命令系統の整備」が解となる。だが組織的違反の主な要因は「属人風土」にあり、何が正しいかではなく、誰の指示によるものかが重視される権威主義に毒された組織風土だ。ルールの徹底だけでは不正を防げない。
では、組織的違反に加担する人間とはどのような人物だろうか。元ナチス親衛隊幹部のアドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人虐殺の罪を問う法廷で「命令に従っただけだ」と責任逃れした。裁判を傍聴したユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントはこれを「悪の陳腐さ」と呼び、一見して怪物のように凶悪な人物ではなく、平凡な人間が考えることを放棄した時、世紀の犯罪者にもなりうると報告した。
世紀の犯罪と同列には語れないかもしれないが、自分を持たず思考や判断の基準を他に依存する真面目な組織人で、組織の方針に忠実に従うことで評価を得、責任あるポジションに就きながらも行いの是非も問わず「思考停止した人間」が無自覚な悪をなす。アイヒマンのような人間の増殖が不正の温床となるが、多くの組織では同様な人物が評価されやすいのも事実だ。組織の意向通りにしか動かない小役人と、決められた手続きの範囲でしか監査ができない思考停止の連鎖が不正会計を見過ごす。その意味では、監査役や監査法人の責任も重い。
日本の「企業社会」を代表するメディアである日本経済新聞が、今日の企業社会が陥っている病弊を、このようにシッカリと指摘していることに注目した。
もっとも、この文章のタイトルにもなっている、「思考停止が悪を生む」という発想には違和感を持つ。筆者のいう「真面目な組織人」が、思考を停止しながら働いているなどということがありうるだろうか。彼らは、企業内において、その全神経、全知能を傾けて「思考」を続けているはずである。ただし、その「思考」とは、いま、組織はどういう方向に向かおうとしているのか、いま、組織の動向を左右しようとしている中枢人物は、誰なのか。そうした中で、自分はこれから、どう立ち回るべきか、といった問題に限定されたものでしかない。もちろん、企業の中枢にいる人物にしても、その全神経、全知能を傾けて「思考」を続けている。企業を生き残らせるためには、どんな措置を講じるべきなのか、企業ないし自分がとった措置が、「不正」として糾弾されないようにするには、どうすればよいのか、と。
要するに、思考が停止しているのではなく、思考の方向が、「組織」という現実に毒され、「組織」という現実を超えて思考できない状態になっているのである。
昨年、私は、瀬木比呂志さんの『絶望の裁判所』(講談社現代新書、二〇一四年二月)という本を読んだ。そこには、今日の「裁判所」に蔓延している危機的状況が、具体的かつ赤裸々に報告されていた。私は、この本を読んで、膚に粟を生ずる感があった。裁判所の危機的状況に戦慄したからではない。そうした状況を、「危機的状況」であると意識し、かつ、その「危機的状況」を外部に向かって告発した人が、これまで、瀬木さん以外には、ほとんど皆無であったという事実に戦慄したのである。
そのことと比べたとき、日本経済新聞が、目立たないコラムにおいてではあるが、今日の企業社会が陥っている病弊を指摘した事実は、大いに評価されてよいと思った。
ところで、瀬木さんは、『絶望の裁判所』の「あとがき」において、「本書は、ある意味で、司法という狭い世界を超えた日本社会全体の問題の批判的分析をも意図した書物であり」云々と述べている。おそらく、コラムの筆者「小五郎」さんも、瀬木さんの本を読んでいたのだろう。そして同書によって、「日本社会全体」に、すなわち日本のあらゆる組織、あらゆる共同体に、「不正の温床」が存在しているという視点を学んだのに違いない。