礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

前田勇、『蜻蛉日記』の歌について自説を披露

2014-05-09 16:01:34 | 日記

◎前田勇、『蜻蛉日記』の歌について自説を披露

 昨日の続きである。前田勇『児戯叢考』(湯川弘文社、一九四四)の「禽虫篇」の冒頭の「蛙」から、「二、蛙の弔ひ」を紹介している。本日は、その四回目(最終回)。昨日、紹介した部分に、改行しない形で、以下の文章が続く。ここは、前田勇が自説を披露している部分である。【 】内は、原ルビを示す。

 乍併〈シカシナガラ〉、与清や信節が典拠とした『蜻蛉日記』のこゝの文は、著者が今風に雨女子【あめをなご】とでも云ふか、雨蛙といふ緯名をつけられたのを言訳がましく歌つたのであつて、車前草が死蛙を蘇らせる事とは何の関係もあるものではない。殊に右の歌の初句「おほはこ」は一本には「おほはら」とあり、何れにしても意通じ難く、或は「おほそら」しの誤写ではないかと云はれてゐる所なのである。
 大体車前草の葉が民間薬としていろいろに用ひられるのは、決して近い世に始つた事ではないのである。藤原定家卿の『名月記』安貞元年(一八八七)四月十七日の条にも、
《右足指此四五日有リ如キ水袋ノ物、(中略)可怖癢、而出ヅルハ者不可怖、以テ針刀ヲ刺之出、付車前草》
とあつて吸出膏薬がはりにその葉を用ひてゐる。又、血止めとしても用ひられ、例へば四壁庵茂蔦が、
《小石川中の橋を通りしが、数日天気好、砂のたまりたるに踏かけてすべり、其砂のために膝のさらをすりむき、血のすこし出でたるを、紙もて拭ぐはんと袂〈タモト〉へ手を入るれど、をりふし紙のあらざれば、そこらに散りてあらんかと尋ぬれどあることなし、強く痛むとにはあらねど、赤肌のまゝにては着物に摺れて歩行【あるき】がたく、いかゞはせんと思ふをりしも其辺に車前子の繁く生ひ出でたるあり、能毒は知らざれど、詮方〈センカタ〉なく其葉をとり、よく揉みて付けたれば、膏薬のごとく能く付き、血もとまり痛みも頓に〈トミニ〉去りけり、一夜を経て愈(癒)えたり、此草に斯の如き能あるを知らざりし、医に問ひて質さん〈タダサン〉とおもひしが、事に紛れて止みぬ。(文政七年『わすれのこり』下巻・車前子の葉)》
と云つたのは、彼が其の方面の知識を欠いてゐたゞけの事だが、それでも例証にはならう。かう云ふ外科用の薬草であつたばかりでなく、此の草を煎薬として服用する事はもつともつと古くから行はれてゐたのである。
 思ふに童等が死蛙を蘇らせるとて車前草の葉を用ひたのは、その草が蛙飛ぶ候、路傍の随処に叢生し、『俳諧東日記』(延宝九年刊)春之部の蛙の発句に、
 いでや車前【をばこ】手負蛙の戸板草 露宿
とあるのが蛙合戦を踏まへてゐるのをさて置いても、その青々とした車前草の広葉の広きが故に手負ひ蛙の戸板とも、また死せる蛙の覆ひ物とも、極めて手近で極めて恰好の物であり、況んやこれが外科内科両用の薬草なのであつて見れば、誠に自然な試みであつたと云はねばならない。
 蟇殿【ひきどの】の葬礼はやせほとゝぎす 一茶(句帖)

 前田勇は、『蜻蛉日記』のある「おほばこの神」の歌は、「車前草が死蛙を蘇らせる事とは何の関係もあるものではない」と言って、先学を批判している。
 四月一六、一七日の当コラムでも紹介したように、言語学者の橘正一の説(一九三四)は、「おほばこの神」の歌は、車前草が死んだ蛙をよみがえらせるこちと関係しているとするものであった。ことによると、前田は、この橘論文を読んでおり、こういう形で、橘を批判したのかもしれない。ちなみに、橘は、前田の本が出るよりも前に、この世を去っている。
 引用文中、「安貞元年(一八八七)」とあるのは、皇紀だと思うが、それにしても年代があわない。『名月記』の関係箇所は未確認。また、「四壁庵茂蔦」の読みも未確認。

 

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