礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

椋鳩十と「秩父山窩」侵入盗事件

2014-05-05 05:17:21 | 日記

◎椋鳩十と「秩父山窩」侵入盗事件

 昨日の続きである。昨日は、本村寿一郎氏の『聞き書き・椋鳩十のすべて』(明治図書、一八九三)から、椋鳩十が『山窩調』について語っている「【聞き書き・23】山窩(さんか)調」の前半を紹介した。本日は、その後半である。

 実は山窩については、おやじが資料を集めていたからネ。学生のころから、私もいろいろ調べていた。ところで家内〔みと子〕の父が経営していたお茶屋の支店が、東京・目黒にあった。大学時代〔法政大学〕、私はその二階に住んでいたが、ある朝起きると、階下で番頭たちが大騒ぎをしている。すごい泥棒が入った、というのだ。大金庫はこじあけられ釣り銭を入れていた手提げ金庫は持ち去られていた。
 店の大戸〈オオド〉が、すばらしく切れる刃物で、三カ月形に一刀のもとに切られていて、そこからかけがねをはずして入っていた。調べにきた刑事は、手口を見るなり『この犯人はあがりませんよ』という。『よく調べもせず、そんなばかな……』と文句言ったら『これは秩父山窩の仕業だ。今ごろはもう秩父の山中に逃げ込んでいますよ』と、とりあおうともしなかった。
たしか昭和二年ごろだったが、東京には山窩の泥棒が横行していた。山窩のことを調べているときに、山窩に入られるなんて『ふしぎな縁だな』と思ったよ。
『山窩調』は椋鳩十のペンネームをはじめて使い、恩師にも黙って出版したので、恩師たちが怒ったことは、前にもふれたが……。恩師の一人、詩人の佐藤惣之助にいたっては、満州にわたる途中『君の住む鹿児島で、海のほうに黄色い煙が出たら、おれのへと思え』とはがきに書いてきた。これには参った。このはがきも、山窩調も、今は遠い青春の思い出となった。

 昭和二年(一九二七)と言えば、いわゆる説教強盗が出没していた時代である。説教強盗=山窩説は、作家の三角寛(当時・朝日新聞記者)が広めた説だが、真偽は不明である。いずれにせよ、当時、「山窩の手口」とされる手口を使った侵入盗事件が続発していたことは間違いない。
 よく切れる刃物で、戸板を三日月型に切断する侵入方法を、「戸切り」といい、これも、「山窩の手口」のひとつとされた。この際に使われる刃物を、山窩は、「コブリ」と呼んだと書いてある本がある。椋鳩十が遭遇した侵入盗事件は、「戸切り」によるものであるが、だからといって、山窩の犯罪と断定することはできない。まして、「秩父山窩の仕業」と断定することなど、できるはずがない。椋鳩十には、このとき、「これは秩父山窩の仕業だ」と断定した刑事の名前を記録しておいてほしかったと思う。

 

コメント (1)
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